第10話
「それじゃ、始めるか」
そうして、袖を捲る。それだけでも、紫乃には興味をそそるものだったらしい。男が腕まくりするのに興奮する少女というのは、外面は悪いが。
「お仕事するのを見るのは初めてです」
紫乃の相手も仕事ではある。だが、それはただの会話でしかないし、俺にしてみても息抜きと認識していた。
だから、紫乃の台詞はあながち間違いではない。とはいえ、改めて言われると緊張する。
庭師の仕事は他人に見られるものではない。完成品をお披露目するものだ。裏方仕事で、主に見せるなどという事態に陥ることはない。お嬢様となれば、一段とないだろう。
俺はそのイレギュラーを飲み込みながら、スコップを手に取った。一度地面は掘り返してならしてあるが、それから時間は経っている。再度状態を確認して、腐葉土を足す。
ここには紫陽花を植えるつもりだ。紫乃を手伝わせるのは、ここがいいだろう。本人が選んだ花であるし、待たせるのも忍びない。紫陽花の苗木は既にかなり花が開いている。圧巻だ。
紫乃はとにかく落ち着きがない。着席しているにもかかわらず、いそいそと動き回っているかのような気ぜわしい空気があった。緊張しているこちらが馬鹿らしくなってくるほどで、作業しているうちに自分のことは二の次になる。
紫乃の様子を微笑ましく見ていられる余裕が出てきたほどだ。
「栄養剤なんかは利用しないんですか?」
「そこまでしなくても大丈夫だろう。後は様子を見ながらになる」
「じゃあ、もうそろそろわたしの出番ですか?」
「……そうだな」
引き延ばすつもりもないが、いざとなると本番がやってきたという気持ちになる。
手袋を取り出して、紫乃の前へ差し出した。紫乃は焦っているのか。不器用な手つきで嵌めていく。
世話を焼いたほうがいいのかと迷うが、結月さんがいない状態では間合いが分からない。そろそろ戻ってくるだろうか。紫乃を手伝わせるのは、結月さんが戻ってきてからのほうがいいか。
しかし、手袋をつけた紫乃はすっかりやる気満々になって、椅子から降りてしまっている。背丈に合わせたのは失敗だったか。確保するためには、降りづらいものにしておけばよかったかもしれない。
「待っているように」
このままだと自由に動き回りそうなので、先んじて釘を刺す。どれほどの効果があるのか当てにならないが、伝えておかないことには制御にもならない。
今ばかりは、お嬢様だからと立てておくわけにはいかなかった。庭仕事の主導権くらいは俺が握らなければ、いつ主導権を握れるというのか。紫乃の浮ついた雰囲気まではどうにもならなかったが、それでも動かずに俺の様子を窺っていた。
その間に、苗木を植えられるほどにスコップで土を掘り返す。紫乃一人で植えられるのか。紫陽花となると怪しい。
俺は苗木をいくらか持ち出して、紫乃のそばへと移動した。紫乃は俺が離れた間に、掘り返した穴を見下ろしている。落とし穴よりずっと浅い穴だ。何も面白いことはない。いくら箱入りの世間知らずだとしても、地面の穴くらい物珍しくもないだろうに。
「紫乃、紫陽花を持てるか?」
苗木を一度地面に置いて、紫乃に声をかける。
小さな背丈には、紫陽花が大振りに見えた。紫乃はそれをどうにか持ち上げる。ドレスワンピースのような衣服に触れてしまいそうなほど、紫陽花が身体へ近付いていた。全身で支えなければ、腕だけでは筋力が足りないのだろう。
手を添えて手伝うと、紫乃の姿勢は楽になった。しかし、表情は不満げになる。
「すべて自分でする必要はない。俺だって、紫乃に手伝ってもらっている」
全部やりたいのだろう。本当なら、やらせてやりたいところだ。だが、無理させるわけにはいかないので、屁理屈を捏ねる。
紫乃は半端な顔をしたまま首を縦に振った。屁理屈である以上、説得力には欠ける。それは分かっているので、妥協してくれているのをいいことに事態を押し進めた。
「ほら、植えるんだろう? 支えておくだけだから」
「わたしだって、全部ひとりでやりたかったです」
「そのためには、もう少し鍛えないとな」
「そんな体力ありません」
「それじゃあ、もう少し大きくなるまで一人はお預けだ。結月さんもいないから、無理はさせられないよ。俺はまだ、君の体調に責任を持てない」
「……蓮司が責められたら困りますから、一緒にやります」
「ありがとう。助かるよ」
責任問題について理解しているのは、やはりお嬢様であるからなのだろうか。虚弱がゆえに何かしらの迷惑をかけたこともあるのかもしれない。
主に倒れられてしまったら、メイドにしろ執事にしろ、責任問題に発生する。若当主の理解力からすれば、一方的な罰則はなさそうだが、それでもお咎めなしというわけにもいくまい。対外的には責任問題が付き纏うものだ。紫乃がそれを理解してくれているのは、非常にありがたかった。
紫乃は言葉通り、これ以上意地を張ることはない。何より、苗木を持っておくことへ限界が近いのだろう。
紫乃はちょこちょこと動いて、花壇の穴へ紫陽花をそっと置く。遠慮がちなのは具合が分からないからだろう。紫乃の腕力で遠慮すれば、乗っけているだけに過ぎない。力を込めてフォローした。
「どのくらい?」
俺の力に気がついたらしい。紫乃がこちらを見上げてくる。ひとつの苗木を支え合っているので、距離がかなり近い。
腕の中に抱え込んだ紫乃から、よい香りがした。楚々としたシャンプーの香りは、薔薇の香料が含まれているかもしれない。日頃、人とここまで近付くことはなかった。
今、一番俺に近いのは紫乃だろう。
こうした瞬間に、それをしみじみと実感した。そうした触れ合いが少女としかないことには、苦笑が零れそうになる。
「もう少し、ぐっとしていいよ。土をかけるからな。手を離すぞ」
「うん」
地面に接地している。手を離しても、倒れるようなことはないだろう。紫乃は奮起しているし、これくらいなら問題はないはずだ。
俺はすぐに土をかけてやり、紫乃の負担を減らす。地面をならしてやれば、植え替えは完了だ。
俺が立ち上がったことで終わりだと分かったのか。紫乃がおずおずと手を離す。屹立して植わっている紫陽花は、まだ一本だ。感動的な花壇ができあがったわけでもない。
けれど、一本。確かに植えたことは間違いなく、紫乃はそれだけで大満足したようだ。紫陽花に見劣りしない瑞々しい顔色で、紫陽花を見つめている。
それから、自分の手柄であるかのように俺を見上げてきた。そうして、紫陽花と俺を交互に見つめる。その心情は掴みきれない。しかし、まぁ……こういうのは、褒めるべきなのだろう。
子どもへの接し方など、俺にはストックがない。勘で動くしかないので、手探り感は否めなかった。
「よくできたな」
どこまで褒め称えればいいのか分からない。
正直に言えば、植え替えに大変な努力は必要なかった。紫乃であるから大ごとのように感じるだけで、実際ちょっとした作業だ。
それをやたらめったら褒めるのも、馬鹿みたいな気がして憚られる。紫乃だって、俺の手伝いが入っていることも分かっているのだ。加減が分からずに生半可になったが、紫乃には十分だったらしい。
ぱぁと笑って、頬を上気させる。桃色の顔から溢れる喜色と言ったらない。こっちのほうがむず痒くなってしまうほどだ。
その興奮を収めるために触れるには、手が汚れている。このままで大丈夫かとにわかな不安が持ち上がるころに、結月さんが戻ってきて助かった。
結月さんは持ってきたクッションを椅子に置くと、俺たちの……紫乃のそばへと寄ってくる。紫乃はすぐにはちきれんばかりの笑顔を結月さんに向けた。
「見て。植えられたの」
「よくできましたね。楽しかったですか?」
「それはまだ分からないよ。一本だもん」
まだ足りない感覚は持ち合わせているようだ。紫乃がこちらを見上げてくる。どうやらこの視線は、次を促すものであるらしい。
「あまりたくさん動かれると筋肉痛になりますよ」
「大丈夫だよ」
「大丈夫ではありませんよ。明日、つらい思いをするのは紫乃様ですから」
「蓮司が手伝ってくれたから、そんなに心配はいらないよ。わたしは支えていただけみたいなものだし」
状況整理はよくできている。それでも、テンションをぶち上げられるのだから、それはそれですごい。
「それでは同じように数本植えるほどでよろしいですか?」
「うん」
楽観視している部分がある。結月さんの反応を見ていると、紫乃の見積もりは多分甘い。それでも、意識しないよりはずっとマシだ。
そこからは、結月さんが紫乃を支える役を担って、三人でちまちまと三本の紫陽花を植えた。たったの三本に、これほど時間をかけることは通常ではない。紫乃の調子に任せるものだから、こればかりは仕方がないだろう。
俺だって、紫乃を急かすつもりはない。初めてなうえに、体力に不安がある。下手なことはさせられなかった。
三本を植えた後は、紫乃はクッションが置かれた椅子に座って休ませる。結月さんも紫乃の隣に立って、二人目の見学者となっていた。
俺はそれを横目に、そそくさと作業を続ける。観察者に緊張した覚えは解消されていた。ともに作業したことで、気持ちが解れたのは俺も同じのようだ。
紫乃は俺の動きを興味深げに見ている。特殊な動きはない。必要なことは事前に整えているので、紫陽花以外もおおよそ植えるだけだ。
ただ、花によって土のかけ方が違うし、種と苗では変わってくる。その変化を見定めようとするかのように、紫乃は目を皿にしていた。何が面白いのかは分からない。
熱い眼差しに晒されながらの作業は苦々しくはあるが、だからと言って不手際はなかった。それでも、四つの花壇を整えるとなれば、それなりに時間はかかる。日頃、紫乃と会話するよりも長い時間がかかったはずだ。
大丈夫なのか。そういう発想が出たのは、花壇を整え終えた後のことだった。もちろん、結月さんはずっと気に留めていただろうから、座っている分には問題がなかっただろう。
しかし、滞在しているだけの会話と、手伝いの運動に興奮というものの差は歴然としていた。それは結月さんの想像の枠外にまで及んでいたらしい。
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