第9話

 薬の調剤も俺に任された仕事になる。

 とはいえ、既に流通しているものを、育成されている薬草で作るだけだ。誰でもできる、とは言わないが、薬師の資格を得ているものにとっては、授業内容と大差はない。そして、十分に在庫もあり、俺が作るのはこの先の分である以上、そこまで切迫した作業でもなかった。

 時間的余裕があるというのは、大事だ。精神的にも余裕を持って、慌てることなく作業に臨める。俺は苦労もなく、研究室の一端で調剤に励んだ。

 効果のチェックも、薬草に検査薬を垂らすことで問題はない。在庫が貯まれば、若当主に納品することになっている。それは、再度の品質チェックを含んでいるのだろう。

 安全を喫すことに文句はなかった。取り返しのつかない失策をぶら下げるつもりは毛頭ない。俺にとっても好都合だ。もちろん、自身のチェックでも自信はあるし、今のところ不良品は出していない。安全性は確保できていた。それでも、ダブルチェックはありがたいものだ。

 そのための保存容器に液状の薬を保管して、エーデルワイスを取り出す。氷属性を持つ花は、保管庫のエネルギー源として申し分なかった。

 花学とはこうした身近なところでの利用を目指している。流通と呼ぶには、未発達。それは研究分野としては無論、価格的な問題も含んでいた。

 百合園家ともなれば、その不安もないために比較的利用されるようになっているようだ。これは、花学に興味を持っている紫乃のために利用を決めたのかもしれないが。

 だが、今注目のエネルギー源として第一線だ。その時流に乗っていけているのは、百合園家としても有用なことがあるだろう。

 若当主そのものが花学の知識を吸収しているかどうかは重要ではない。あるに越したことはないが、それでなくても利用者と不利用者では差がある。その差を手にしているだけでも十分だろう。

 何より、娘が花学について学ぼうという強い意志まであるのだ。十分過ぎる対価だった。そして、その対価のために奔走しているのが俺だ。

 割を食っているとは思わなかった。俺だって、学んだことを共有できる子がいるのは悪い気がしない。

 何より、紫乃は熱心だ。花学基礎の本を熟読しているようだった。離れへ持ってきた本には、付箋がびっしりとつけられている。そのすべてが疑問なのかと思ったが、覚えたい内容にも付箋を貼っているらしい。まとめノートを作っているという。

 ただ、体力がないので、どうしたって積み上がるもののほうが多い。結果として、付箋だらけの本ができあがってしまったようだ。

 まだ借りていてもいいですか? と健気に尋ねてくる紫乃に、俺は大歓迎で頷いた。そこまで必要ならば、与えてもいいくらいだ。しかし、小市民の使い古しをお嬢様に献上するわけにはいかなかった。新品を買ってもいいかもしれない。

 何かと、紫乃に投資しているような気がした。恐らく、若当主に言えば手当てをもらえるだろう。

 しかし、そこまでのことではない。それほどの給料を頂いている。生活に困らないどこか、自分の趣味の鉢植えを買っても余裕があった。俺の離れは、緑が増えていっている。

 その光景にも、紫乃は興味津々だ。新たな面白味を発見したように、離れに来たがることも増えた。花壇を装飾する苗はまだやってきていない。こちらの花壇は急がないことから、速達にすることはなかった。

 安全性が絶対的でない郵送は、急げば急ぐだけ料金がかさむ。若当主はそれくらい持ってくれるだろうが、無駄遣いをしようという気にはならなかった。

 削れる経費は削るものだ。どこまでも平民根性が染みついている。それでも困ったことにはなっていないので、あえて無理するつもりはなかった。

 そうして、調剤と紫乃の相手をして過ごす日々は瞬く間に過ぎていく。注文から二週間後に、ある程度の花を揃えることができた。今日は花壇へ植え替えを行えるだろう。

 そして、紫乃はそれを見越していたかのようなナイスタイミングで、離れへと現れた。


「植えるのですか?」


 スコップや栄養剤。追加の土や苗や種。そうした用意を目にするや、紫乃はキラキラとした瞳で俺のことを見上げてくる。

 伝えるつもりもあったし、見学させるつもりもあった。しかし、俺が仄めかす暇もない食いつきには、笑ってしまう。

 紫乃は不思議そうに首を傾げていた。自分の威勢の良さが、周囲にどう見えるのか。そんな視点はないのだろう。何にしても、微笑ましいものは微笑ましいものだ。


「紫乃は見学だ」

「ダメ?」


 紫乃がそう尋ねたのは、俺ではなく結月さんだった。体調に直結することは、俺に聞いてもどうにもならないことをよく分かっている。結月さんは難しい顔で、こめかみをぐりぐりと押した。


「……どの程度、土に触るものでしょうか?」


 庭いじりの具合が掴めなかったらしい。こちらへ問いが回ってきた。それがどれほど紫乃の体調に波及するのか。俺にはそちらの具合が分からないので、余分なことは排除して口を開いた。


「苗を植えるのであればポットから抜くために土に触れる必要があります。種なら、まだ多少でも済むでしょう。ただし、手袋がありますので直接は触りませんよ」

「でしたら、あまり動かない小さな手伝いくらいであればよろしいのではないでしょうか」


 結月さんは相当に妥協しているのだろうと、苦い顔つきからよく分かる。

 一方で、紫乃の顔色は高速でよくなっていった。血色がよくなり過ぎて、不安になるくらいだ。興奮し過ぎているのではないか。

 その不安は的中しているのか、結月さんの手のひらがいつかのように紫乃の肩に置かれた。紫乃は、それでもテンションが落ち着かないらしい。踵が浮きそうになっているのを、結月さんがぐっと抑え込んでいた。


「だったら、その段になるまでは俺が準備するから、紫乃は座って待ってな」


 今日までは離れの中で交流していた。中庭用の椅子を引っ張り出してくると、紫乃はぱちくりと目を瞬く。


「椅子を用意してくださったのですか?」

「これならゆっくりと見ていられるだろ」

「ありがとう存じます」

「どういたしまして」


 答えて紫乃の前へ椅子を置いた。

 手のひらで指し示すと、紫乃の手のひらがそこに被さってくる。示しただけで、エスコートまでするつもりはなかったが、紫乃にとっては当たり前のことだったらしい。少しばかりぎこちなくなりながらも、きちんと紫乃の手を取る。

 移動に際し、結月さんが肩から手を外した。そのまま紫乃をエスコートして着席させる。ちょこんと座る紫乃は、何度か座り心地を確かめるように身動ぎをしていた。


「不都合はあるか?」

「いいえ」

「クッションをご用意しましょうか?」


 結月さんの着目点は的確だ。俺にはせいぜい、背丈に見合うものであればよいだろうという考えしかなかった。

 外に置くべきものであるから、木製以外の製品は避けている。鉄製は候補にも挙がらなかったが、紫乃が長く腰掛けておくには硬く冷たいだろう。さすがの俺でも、そのくらいの思考は働くものだ。


「大丈夫だよ」

「次からこちらでご用意しますよ」


 紫乃が自分の状態に楽観的なことは、俺も気付き始めている。こちらから申し出れば、結月さんは表情を緩めてくれた。俺の配慮は正解だったようだ。


「いえ、すぐにお持ち致しますので問題ありませんよ。使用されていないものを取って参りますので、少しの間紫乃様をお預け致します」

「畏まりました」


 思わず、背筋が伸びる。紫乃を一人で預かるのは初めてのことだ。

 結月さんは一礼すると素早い足取りで去って行く。いつも紫乃に歩調を合わせているため、緩慢なところしか見たことがなかった。

 風のように立ち去る姿を見送って、紫乃へと視線を戻す。紫乃はそわそわしているが、座り心地を確かめているわけではないだろう。待ちきれない期待が、身体中から沸き立っていた。

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