第8話

「待ってなさい」


 離れはすぐそばだ。紫乃を移動に付き合わせる必要はないだろう。

 歩き回ることにも、かなり気を回しているらしい。許容以上に運動すると、すぐに疲れてしまうようだ。その許容範囲を超えさせるわけにはいかない。紫乃につらい思いをさせたくはないし、一人で動いたほうが早いのも事実だ。

 紫乃は小さいことに加えて、虚弱さを庇うためか。歩調も緩い。百七十オーバーの男が歩調を合わせて歩くのは、なかなか難しかった。

 そりゃ、長距離を移動しなければならないのであれば、エスコートするつもりもある。けれど、ちょっと離れに戻って本を取ってくるだけのことに、紫乃を付き合わせるのは面倒のほうが上回っていた。

 さくっと離れに本を取って戻ってくると、結月さんと紫乃が並んで待っている。二人の手は繋がれていた。結月さんがそうしているのは、紫乃の体力を少しでも消耗させないためだ。または、もしものときにフォローできるように。

 思えば、立ちっぱなしで会話するのも、紫乃の負担になっていたのかもしれない。この中庭にも椅子を用意すべきだろう。この先も花壇での作業に付き合いたがるはずだ。紫乃のガッツを思えば、その想像は容易い。

 花の発注とともに椅子も頼むか、と頭の片隅にメモをした。


「読みたいだけ持っていればいい」

「本当ですか?」

「ああ。分からないことがあれば、答えよう」

「約束ですよ」


 手渡した本はさほど厚くはない。ただ読むだけなら、さらっと終わってしまうことだろう。

 だが、基礎知識が詰まっているこれを読み切るのは、十四歳には簡単がどうかは定かではない。元の知識がなければ難しいだろう。紫乃は賢いので、ある程度は理解できるだろうが、その辺りは分からない。

 紫乃は大事そうに本を抱いて、俺を見上げて笑う。


「俺が答えられることならば、何でも答えるよ」

「次はいつ来られるかな?」


 紫乃はニコニコと話を聞きながら、不安そうに結月さんを見上げた。

 疑問の中身は世知辛い。前に来たのは三日前のことだ。次を待ち遠しくしているらしい紫乃にしてみれば、それでも長い時間なのだろう。

 俺としては、ちょうどいいくらいの頻度だと思っているが。これは俺が子どもとの付き合いに困惑を隠せていないからだ。お嬢様、という部分も関連しているかもしれない。


「紫乃様の体調がよければ、早いうちに来られるでしょう。明日はお医者様がいらっしゃいますから、養生しておいたほうがよいですね」

「……明後日?」

「苗や種が届くには五日はかかるから、それまではさほど急ぐことはないよ、紫乃」

「でも、話を聞きたいことができたら、五日は長いですよ」

「付箋を渡しておいてあげるから、質問には印をつけて溜めておけばいい。制限時間を設けるつもりはないから、たくさん読めるんじゃないか?」

「蓮司がやってきてくれることはないのですか?」

「紫乃様、秋里さんを困らせてはなりませんよ」


 結月さんがそう言うのは二度目だ。だが、一度目の呼び方や口調とは違い、今回は言下であったし、譲る気配はなさそうだった。

 それはそうだろうし、俺だって軽はずみに了承することはできない。若当主も許しはしないだろう。それどころか、首が飛ぶ可能性のほうが高い。どれだけ紫乃が寂しそうな顔をしようとも、迎合できる部分ではなかった。

 それにしても、たった数週間で随分懐かれたものだ。外からやってきた目新しい存在が、それほど珍しいのか。花学について知っている人間に、それほど飢えていたのか。自分の持て囃されかたが異常で、むず痒さを越えて疑問が浮かぶほどだ。

 そのうちにフィーバーのような状態は収まってくれるのだろうか。


「お屋敷に顔を出すことは可能だけど、紫乃の部屋に行くわけにはいかないよ」

「お屋敷にはやってきてくれますか?」

「お食事をご用意してくださることもある、と聞いているので」

「それじゃあ、わたしが元気なとき一緒にご飯も食べられますか?」


 紫乃は日常生活に俺を紐付けようとしている節があった。

 この態度に引き込まれたときに結月さんが告げた通りに、何事も一人で行ってきたのだろう。俺が同等な態度になってしまったがために、友人のような触れ合いを求められている気がした。

 そして、その問いに俺は即答することはできない。まごつくしかなかった。個人的に言えば、付き合おうとも何の難点もない。だが、雇い主のお嬢様と同じテーブルに着くというのは問題がある。

 俺は助けを求めるように結月さんへ視線を向けてしまった。灰色の瞳は湖面のようにこちらを見ている。落ち着いた色に頼り甲斐を覚えるのは、こと紫乃に関して結月さんは頼りになるからだった。


「紫乃様、それは秋里さんの一存で決めることは難しいかと思われます」

「そんなこともダメなの?」

「紫乃様のお食事は栄養面にも工夫が施されていますから、ご準備や支給に際しても、料理人や執事との擦り合わせも必要になります。ご当主様の意向もあるでしょう」

「……そう。それじゃ、聞いてからだね?」

「……そうですね。ご当主様へご報告させていただきます」

「お願いね」


 どうやら、ご報告というのはお伺いであるらしい。俺の意志は参考にされないようだ。俺にだって反駁する気はない。


「それじゃ、許可が下りるまでは今まで通りに元気なときに話をしよう」

「はい。楽しんで、読みますね」


 貸した本をぐいっと掲げて微笑まれる。頷くと、胸に抱き直して、ニコニコと表紙を見下ろしていた。

 花学の基礎を書いた本の表紙は、飾り気などない。深緑色とオフホワイトの二色で刷られているだけで、花学基礎という文字だって黒の素っ気ない字体だ。まったくもって工夫も何もなく、花辞典に比べれば素っ気なさ過ぎる。狂喜乱舞するほどのパワーがあるとは思えなかった。

 しかし、紫乃の目には色鮮やかなものに映っているらしい。水を差すつもりはないが、苦笑いにはなった。

 そんな紫乃の手を手綱のように握って、結月さんが撤退していく。紫乃の部屋は一階だと聞いていた。階段の上り下りによる体力の消費を押さえるためであるらしい。

 それに、紫乃は平均よりも小さい。幼いころはそれがより顕著で、階段の段差を上り下りするのも難しかったようだ。紫乃はそのまま一階で過ごしているらしい。俺の離れも一階であるから、訪ねてきやすいのだろう。

 俺が屋敷に向かうことは少ない。行動を制限されているわけではなかった。しかし、豪奢な屋敷に足を踏み入れるのは、気力を使う。

 離れの家具ですら及び腰はなくならないのだから、屋敷など分不相応甚だしい。若当主は食事の用意まで担ってくれるとも言った。しかし、離れにも簡易的なキッチンはついている。そのため、屋敷の上流階級に施される料理が舌に合うかどうか分からないという理屈で日常的には辞退している。

 実際、屋敷で食事となれば、どれくらい時間が取られるのか読めない。俺は手早く食べられるほうが好きだ。花学に集中していれば、食事の時間が変則的なこともよくある。その気ままさを捨てる気はない。

 だが、今日でこの先どうなるかは分からなくなった。結月さんが連絡を怠ることはないだろうし、紫乃は自分の意見は通すだろう。

 若当主がどれほど紫乃に甘いかは判断がつかなかった。どれほどの我が儘を許してきたのか分からない。食事の時間が固定されるかもしれないな、と腹を据えた。仕方ない、と思えているのは不思議だ。

 紫乃については、もう諦める癖がついているのかもしれない。仕事のひとつとして処理したほうが気持ちが楽だと学んだ。住み込みであるのだから、予期せぬ関わりが転がり込んでくることはある。それに対応するのは致し方ない。

 それに紫乃の願いは、細やかなことだ。お嬢様と庭師という立場の違いがあるからこそ、問題が生まれているだけに過ぎない。だからこそ、あっさり許容してしまいそうになる。周囲が押すのであれば、腹を括るのに大きな覚悟が必要にもならない。

 これはやはり、ほだされているのかもしれなかった。

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