第7話
「結月は何の花が好き?」
「定番ですが、薔薇は華やかでよいのではないでしょうか」
「定番だとか、よいだとかじゃなくて、好きなのを教えて」
体裁を優先するのが、メイドとしてのやり方なのだろう。俺だって庭師として庭園を整える際は、そうした趣向を優先した。結月さんの発想はよく分かる。
しかし、紫乃は容赦なく個人の話へとスライドさせた。結月さんは苦い顔になる。こちらだって、百合の案は百合園にかけたもので、個人の主張を声高にしたものではない。これもまた結月さんの気持ちがよく分かって、苦い顔になりそうになった。
「私の好きなものを採用する理由はございません」
「だって、蓮司とわたしの花壇があるんだから、結月の花壇があってもいいでしょ?」
どうやら、善良な少女であるらしい。これはお嬢様だから、他者に分け与えることに覚えがあるという話ではないだろう。むしろ、我が儘放題のほうがお嬢様っぽい。そう考える俺のお嬢様像が悪辣なのかもしれないが。
「紫乃様のご趣味を優先させてよろしいかと存じます」
「だったら、結月の趣味の花壇が欲しいから教えてちょうだい」
その堂々とした口振りは、いかにも上位者の立ち居振る舞いだった。小さな少女のそれは、威厳には足りない。それでも、目いっぱい命令を告げる姿は、それなりにさまになっていた。
結月さんも主である紫乃の態度に、それ以上食い下がることはできなかったようだ。
「……私は本当に薔薇が好きですよ。チューリップも好きですけれど、時季外れになってしまいますよね?」
「そうですね。チューリップは不可能でしょう。ハウスなら環境を整えれば可能ですけど」
「ハウスは薬草のものですよね? チューリップのために環境を変えようというつもりはありませんので、どうかお気になさらないでください」
「ハウスを増やすことも可能だとは言われていますが」
「それは紫乃様の薬のためのことでしょう。私のために行うことではありません」
「了承致しました」
結月さんのことを思えば、これ以上踏み込むわけにもいかなかった。仮にハウスで季節を無視して育てるにしても、時季を外すと球根を入手するのも難しい。結月さんが我を通すつもりがないのならば、俺は大人しく身を引く。
紫乃は少し考えているようだったが、
「それじゃ、薔薇かなぁ」
と俺の手元にある辞典を捲り始めた。
ぺらぺらと捲って開かれた薔薇のページは鮮やかだ。色とりどりで、目まぐるしい。紫乃はそれをまじまじと見つめていた。薔薇のことは数ページに及んで書かれている。それを見比べながら、好みを見つけているかのようだった。
本当に花が好きなのだろう。その赤い瞳は、辞典の薔薇に負けず劣らずの艶を放っていた。その紅を見つめているうちに、紫乃は好みを見つけ出したらしい。フリルのある薔薇のページで手を止めている。
しかし、それは紫乃の好みの話ではなかったらしい。
「結月」
そう言って、結月さんをこちらへ呼ぶ。辞典を見るように促しているのは一目瞭然だった。
結月さんが俺たちの横から覗き込むように屈む。ふわりと柔らかい匂いが鼻腔をくすぐった。結月さんは二十歳になるという。ロングのメイド服で腰に回されたエプロンのおかげか。胸がやけに強調されているように見えて、目を逸らした。
セクハラなどすれば無職一直線だ。住み込みの職場にいる身でそんな不具合を起こせば路頭に迷う。それらしく見える行動も何もかも自重しなければならない。
紫乃のほうはお嬢様としての触れ合いに迷うが、結月さんのほうは女性としての扱いに迷ってしまうばかりだった。
「結月はどれが好き?」
「紫乃様はどれがお好きなのですか?」
「このひらひらしているのはとっても可愛い」
「美しいレースのドレスのようですね」
「だとすると、結月はこっちのシンプルなほうが好き? 小ぶりなのも可愛い」
「花弁がかなり開いているのも薔薇と呼ぶのですね。こういうものも変化球で好ましいと思います」
「蓮司、どう?」
いくつかの好みを話し合った紫乃が、こちらへ具合を窺ってくる。意図しているのかは分からないが、候補が絞られていくのはありがたい。自分が探りを入れる必要がないのも。
「一緒に育てて問題がないか調べる必要があるけど、二人が好きなものを選出することはできると思うぞ」
「本当?」
「後で調べるから、付箋をつけておいてくれ」
ポケットに入っている付箋を差し出すと、紫乃はそれを貴重なものであるかのように受け取って、辞典へとかぶりつく。
相変わらず姿勢が危うくて、ほとんど抱きかかえるようになってしまっていた。それでも、紫乃はお構いなしで付箋をつけている。
「結月はどれ?」
「こちらでお願いします」
結月さんも紫乃の状態を気にしていないらしい。端的に好みを伝えて、辞典はあっという間に付箋だらけになった。数は多いが、ここから選別することを思えばまぁ構わないだろう。
紫乃はどっさりの付箋を誇らしげに俺のほうを見上げてきた。
「ああ。ここから探して調べておくから、楽しみにしてろ」
「ありがとう存じます」
紫乃は芯から嬉しそうに笑う。新しいことに挑戦することが楽しくて仕方がないようだ。
かごの鳥、なんて露悪的に言うつもりはない。そうしなければならない理由があるのだから、ただの過保護や箱入り娘と切り捨てることはできなかった。それでも、経験不足は否めない。
自分がその歳のころ、どういう思考や行動力であったか。たった数年前であるというのに、まったく思い出せなかった。何にしても、紫乃が喜ぶ姿は実に楽しそうで邪険にはできない。
「あとひとつはどうしますか?」
「多年草で、花学に頻繁に利用する品種にしようか」
「花学に使うんですか?!」
今までだって十二分に顔を輝かせることを繰り返していたが、まだその上があったのか。そう思うくらいに、今までで一番声が大きかった。
至近距離で張られた声が鼓膜を盛大に揺らす。片目を閉じて肩を竦めてしまったくらいだ。
紫乃もすぐにしまったと思ったのか。両手で口を押さえて、そろりとこちらの様子を窺い見た。恐る恐るとした態度は、何やら微笑ましい。これがわざとならこちらだって文句のひとつも出るが、テンションが上がった末のことで、叱責しようなどと思わなかった。
何より、どれだけ砕けた態度が許されているとしたって、雇い主の娘さんだ。こんな些細なことで説教なんてできるわけもない。
「自給自足は先になるだろうけどな。少しは使えるだろう」
「そのときはわたしを呼んでくださいね」
「分かったよ」
ハイテンションの紫乃を放っておけば、後でもっと絡まれることが目に見えている。数度の訪問で、紫乃の花学への熱狂を思い知らされていた。
下手なことは言わずに頷くと、紫乃は上機嫌な笑みを浮かべる。どれだけ面倒くささがあるといえど、こうまで喜んでくれるのならば微笑ましい。もう既にくっついていて、今更触れ合うも何もないが、その背を撫でてスキンシップを取ろうと思うくらいには微笑ましさがあった。
そうして、花壇の相談が終わったところを見計らって、結月さんが腰を上げて姿勢を正す。
「それでは、今日はこれで終わりにしましょう」
その瞬間、紫乃の機嫌が一気に萎んだ。むぅと分かりやすく尖らせた唇が訴えかけてくるものを見落とすほうが難しい。
結月さんもそれを理解しているようだが、言葉を撤回することはなかった。紫乃は不貞腐れたままに、しょぼしょぼと辞典から離れていく。つまり、俺からも離れていく。一人でしょぼんとへこんでいるのは侘しい。
俺はとんとんと紫乃の頭を撫でるように叩いて立ち上がった。
「今日は他にやれることもないから、休みだと思えばいい。紫乃が次に来るころには、何かの苗や種は届いているだろう。庭園も完成する。そうしたら、見に行ってくれると嬉しい」
「はい」
「じゃあ、今日は花学の基礎が書いてある本を貸してあげよう」
どんなに言っても、会話を畳む方向しか見えていなかっただろう。俺だって、そのつもりしかなかった。しかし、あんまりにもしょげかえるので、ひとつの打開策を口走る。
何だかんだと言いながら、お嬢様という括りは俺に猶予を与えているのかもしれない。花学のことで懐いてくれる少女にほだされているとは思いたくなかった。
ぱっと顔を上げた紫乃は、だらしのない顔をする。少女がするには恍惚に過ぎて問題があるような気がした。
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