第二章
第6話
ひとまず、草を抜いて花壇の土を掘り返すのはすぐに済んだ。
ハウスの中の薬草も順調に育っていて、俺が改めて環境を整える必要はなかった。水やりを忘れさえしなければ問題はないだろう。
新たに薬草を育てるとなると考えることも出てくるかもしれないが、今のところは紫乃の薬に必要な薬草はすべて揃っている。俺が新たに手を出すことはなく、維持に努めれば問題はない。
問題は、花壇のほうだった。いや、問題と言うよりは、考えなければならないこと、だ。
こちら側の花壇は、紫乃専用という形でいいらしい。ただし、庭園のほうは来客時にお客様の目に留まる。俺の趣味というわけにも、紫乃の好みだけというわけにもいかない。
元より、それだけで装飾するつもりはなかったが、お客様の目に留まるとなると余計に気を配らなければならない。匂いのきついものは避けるべきだ。名家の庭園であるから、上品さを尊重しなければならないだろう。そして、いつまでも空にしておくわけにもいかない。
庭園の花壇を整えるのは急務で、俺は花の咲いた苗を取り寄せた。マリーゴールドを中心にした花壇は、すぐに体裁を整えることができた。
黄色やオレンジの穏やかな色は華やかで暖かい。過ごしやすくぽかぽかとした今の季節に調和しているだろう。俺は最初の仕事に大満足していたが、本番はそこからだった。
「蓮司」
紫乃は時間を見繕っては、俺の元へとやってくる。自由奔放さは苦々しいが、その時間は多くはない。体調がよくなくて、離れまで出られない日もあるようだった。
なので、突撃された回数はまだ数えるほどしかない。それでも、やってくればそのテンションに押されている。
危機に瀕するわけではない。しかし、威勢の良さというか、若さというか、貪欲さというか。そうしたものに当てられていた。
元気ハツラツといってもいい。俺は紫乃が不調になっているところを目撃したことがないので、本当に虚弱なのかと疑うほどに、俺の前では元気だった。
それは恐らく、結月さんや他のお手伝いさんが気をかけているからこそなのだろう。それは分かっているが、俺の顔を見るや否やとたとたと駆け寄ってくる姿は、元気と呼ぶ以外になかった。
とはいえ、走っているつもりのそれも、大股で歩いているだけでしかないという現実はあったが。
「急がなくてもいいから、転ぶなよ」
今日の俺は離れ付近の花壇にいた。紫乃は離れへ顔を出すつもりだったのだろう。道中で、俺を見つけたようだ。
「もう花壇を作るのですか?」
「いや、まだ考え中だよ」
手元にある花辞典を掲げて見せると、紫乃は赤い瞳を光らせた。椿のような色合いは若々しくてぬらりとしている。
今にも俺の腕に縋りついてきそうなので、腰を屈めて姿勢を近付てやった。それでも、横から衝突するように近付いてくる。適当なページを開くと、身を乗り出してきた。
「どれにするつもりですか? これ?」
「それはもう少し寒い時期に植えておく必要があるから、今からじゃ難しいな」
「基本は決まっているのですか?」
「紫乃は何の花が好きだ?」
「紫陽花が好き」
「紫陽花か……」
ぱらぱらと捲って、紫陽花のページを開く。
紫陽花と一口に言っても、種類は多い。花がボールのようにまとまっているものもあれば、花の距離が広いものもある。色だって多種多様だ。
青紫の範囲が広いが、鮮やかなピンク色などもあった。何を植えるかで花壇の印象はがらっと変わる。紫乃の好みに合わせるのならば、それすらも選ばせるのが筋だろう。
「どれがいい?」
「どれでもいいのですか? 季候とかは考えなくてもいいですか? 紫色がいいです」
紫乃は一息にたくさんの返答を寄越した。一度にいくつも返ってくるので、圧されているような気持ちになるのだろう。
「紫か。いっぱいあるけど、どういう形が好きだ?」
その色を好むのは、やはり紫乃という名前によるものなのだろうか。
紫乃は俺の問いかけに、写真に熱視線を向けた。ただでさえ前のめりだったので、少々姿勢が危うい。
俺はその背中に手を添えて身体を支えた。どれほど触れていいのかは分からない。これほどの年齢差があっても、セクハラは成立するだろう。場合によっては、別途な悪質なものに分類されかねない。どうしたって怖々とした手つきになる。その心細さが逆に怪しいのかもしれないと思うと坩堝だ。
結月さんのようにはいかない。同性であるということもあるだろうが、何より紫乃の扱い方に慣れているという差は著しかった。
その結月さんは、常に俺たちのそばに控えて様子を窺っている。これといって口出しすることはないが、紫乃が度を超えてはしゃぐときには手綱を握ってくれていた。
もしも結月さんがいなかったらどうなっていたのか。そう思うと、いくら感謝してもしたりない。本音を言えば、もう少し早い段階で止めに入って欲しいと思うこともあるが、それは贅沢な甘えだとは分かっている。
基本的には不干渉。それが結月さんと俺との距離感であった。
「普通? 真ん丸じゃなくて、半球? えっと前からだと真ん丸のやつがいいです。これ」
紫乃の小さな指先が、誌面を指差す。紫乃は十四歳だそうだ。それを思うと、随分小さい。女子だからということを念頭に置いても、発育の遅れは顕著だった。
紫乃が選んだのは標準的に想像する紫陽花だ。これなら、すぐに手配できるだろう。
「じゃあ、ここの花壇は紫陽花にしよう。一緒にニチニチソウなんかを植えようか。ひとつじゃ寂しいだろう?」
「ニチニチソウってどれですか?」
辞典に答えがあると分かっているのか。紫乃は俺を見た後に、辞典へ視線を落とした。俺が迅速に開くことも分かっているのだろう。今日まで数度に亘る突撃でも、同じようなことをしていたから、信頼を得ているのは構わない。
それにしても、一心不乱なことだ。
「絵のイラストを簡易的に描くときによく描く五つの花びらがある花だよ。ピンクや赤、白かな。これだ」
「本当だ。とっても花ですね」
何とも愚直な感想だった。しかし、そういう気持ちは分かるので頬が緩んだ。
俺が笑うのが珍しいのか。紫乃がこちらを向いた。距離は近いが、少女に何も思いやしない。これが結月さん相手であれば、話は違ったかもしれないが。これもセクハラ案件になりかねないので、口に出す気はない。
「笑わなくてもいいじゃないですか」
「いや、よく分かると思ってな。他にも紫陽花と似合う花はあるから、いくつか揃えてここの花壇を飾ろう。他はどうしたい?」
「蓮司が考えているものもあるんじゃないですか?」
「そうだな。やっぱり百合はどうかと思ってる」
「百合園だから?」
「ああ。香りが強いから考えどころだが……ここの敷地で離れた花壇なら、そう悪くはないだろ」
「じゃあ、あと二つですね」
「百合でいいのか?」
「うん。お父様はわたしの好きにしていいって言ったんでしょ? だったら、蓮司の考えるやつも見てみたいから、好きなように飾って欲しいです」
「それでは、ご厚意に甘えさせていただきます」
「改まることなんかありませんよ」
本気ではない。戯れにそうした受け答えをすることは、やや茶化している部分があった。
そして、紫乃は律儀に不満そうな顔をする。こういうところは、子どもらしくて可愛い。だから、やっているわけではないけれど。
「それじゃ、百合は決まりだ」
「そうですね……それじゃ、結月」
俺のそばにべったりだった紫乃が身体を捻って、結月さんのほうを見上げた。
結月さんは「はい」と短く返事をして、紫乃に答える。結月さんの反応は素早い。常に紫乃のことを見守っているのだろう。忍ぶように佇まれるのは時折ドキッとするのだが、慣れるしかなかった。
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