第5話

「紫乃様、落ち着かれてください」


 言ってもいいものか。

 苦々しさで飲み下したものを口にしてくれたのは、結月さんだ。若当主がやっていたかのように、肩に手を置いて紫乃様の身を押さえつけている。物理が必要であるようだ。


「あまり興奮されては倒れてしまいます」

「……紫乃様、体調がよろしくないのであれば、お話は日を改めたほうがよいのではないですか?」

「今日は体調いいからお話しできますよ?」


 それでも、興奮すると倒れるんだよな? と頬が引きつりそうになる。

 虚弱の参照先がないため、幅を持たせて想像していた。だが、その範疇を大幅に外れているような気がして、結月さんへ目を向けてしまう。


「紫乃様は本日、とても好調です。しかし、それでも興奮すると倒れてしまうことがありますので、油断はできません。お話をお聞きにならなかったのですか?」


 それが嫌味であるのか。純粋な疑問であるのか。その判別すらできない。ただ、詳細を聞いていないことは紛れもない事実だ。とにかく、気を遣って欲しいとばかり念を押されている。

 俺は苦い顔をすることしかできなかった。


「秋里さんのお仕事は花壇の整備ですから本来ならば問題はないと思いますが、紫乃様は油断なりませんから、様子を窺っておいたほうがよろしいかと思います」

「……ご忠告痛み入ります」


 色々と考えられるようになったのは、離れに戻ってきてからだ。

 若当主との擦り合わせ時点では、紫乃様の体調に重点が置かれていなかった。紫乃様が中心ではあったが、花壇や花学とどう関わらせていくのか。どれくらい関わることになるのか。そっち側に意識が傾いていた。

 こちらの落ち度に違いないので、謝罪するより他にない。


「大丈夫ですよ。わたしの体調はわたしのもので、蓮司には迷惑をかけないようにしますから」

「紫乃様、こればかりは紫乃様の領分で管理できるものではありませんから、安請け合いをするのはおやめください」


 痛切な声音で、結月さんの苦労が透けて見えた。そして、紫乃様の調子は本当に油断ならないものであるのだろうと心に刻む。

 かといって、俺にできることはない。薬師といっても、求められている薬を調剤する役割しか担っていないのだ。殊更に役立つことはないし、深みに嵌まるつもりはなかった。


「どうしてそういうこというの?」

「私が手を貸すことも多いでしょう? 迷惑だとは思っていませんが、体調の確認は最重要項目ですから。秋里さんには事情を明確に知っておいてもらうべきです。お話をしたいのであれば、尚のことですよ」

「……わたしだって、最近は落ち着いてきているもん」

「希望的観測を口にするのはおやめください。秋里さんに余計な心労をおかけするつもりですか」

「蓮司に念押しして不安にさせてるのはみんなでしょ?」


 紫乃様の自己認識は甘いらしい。こうも周囲と違って楽観的になれるものだろうか。

 生憎、俺は健康体で十八年を過ごしてきた。風邪を引いたことはあるし、発熱で寝込んだこともあるが、それ以上と言われると心当たりはない。大怪我をしたこともないので、自分の体調に無頓着なことは分かる。

 だが、虚弱でありながら、齟齬を維持している心境を理解するのは難しかった。


「私たちは事実をお教えしております。それから、せめて蓮司さんとお呼びするように、ご当主様にも言われたのではありませんでしたか?」


 離れへの侵入は許してしまったようだが、やはりメイドは躾の一端も担っているようだ。その厳格さをもう少し早く発揮し、このような事態を引き起こさないでくれれば言うことはないのだが。

 如何せん、俺には注意する権利がない。自分が煩わされたくないがための論法で、結月さんにご迷惑をかけるわけにはいかないだろう。いくら腹の底で思っても、それを口にしないだけの理性は持ち合わせていた。

 紫乃様は、注意が不服そうだ。その真意は掴みかねる。たった数時間にも満たない前に一度会っただけの少女の考えが読めたら、俺はエスパーだろうからそれはいい。

 いいが、不服を放置しておくわけにもいかなかった。俺のテリトリーである離れで、結月さんと険悪なムードを垂れ流されても困る。二人の関係値を呑気に測るつもりもなかった。


「構いませんよ。紫乃様は雇い主と同じようなものですから、呼びやすいように呼んでいただいて構いません」

「蓮司も紫乃でいい」


 俺の発案が嬉しかったのか。一瞬で表情を緩めた紫乃様が、とんでもない提案をしてくる。俺は通り一遍苦い顔をすることしかできなかった。しばらくは、紫乃様の発言に振り回されて、こうした表情になることが増えそうだ。


「そういうわけには参りません」

「どうしてですか? 蓮司はわたしに花学のことを教えてくれるのでしょう? 先生といって差し支えないと思います。だったら、生徒を呼び捨てにするのはおかしくありません」

「家庭教師ではないという否定は既にしたかと存じますが」

「でも、同じようなものじゃないですか? 蓮司は子どもの相手をするだけですよ」


 子どもの相手をする。

 暖簾に腕押ししているかのような手応えのなさを思えば、その感覚は大いにあった。しかし、そうまとめてしまっていい話でないことくらいは分かっている。いくら紫乃様本人がいいと言っても、諸手を挙げて食いつくわけにはいかない。


「そうであったとしても、百合園家のお嬢様に他なりません。私のようなものが気安くお話しするわけにはいきませんよ」

「花学の話をするときも、そんなふうに畏まるつもり?」

「そうあるべきだと考えています」


 どれだけ自分の領分について語るにしても、砕けていい理由にはならない。お嬢様に家庭教師のごとく知識を与える役割を任せられるならば、余計に。下手なことを教えるわけにもいかないのだから、畏まるのは当然だと思えた。

 しかし、紫乃様はまたぞろ不満げな顔つきに戻る。ぷっくりと膨らまされた頬は柔らかそうだった。


「そうでなくていいです」

「紫乃様……」


 こればっかりは、いくら少女に求められても専断で決めるわけにはいかない。少なからず、世間体は悪かった。一介の庭師が名家のお嬢様に馴れ馴れしい態度を取ることは許されるものではない。


「紫乃様、秋里さんを困らせてはなりません」

「呼び捨てでいいし、気軽にして欲しいってそんなに無茶を言ってる?」

「私がそのようなことを申し付けられたら、クビを覚悟するでしょう」

「結月はメイドだから仕方ないの分かってるよ。でも、蓮司は違うでしょ?」

「形態が違うだけで、屋敷に仕えるものとしては結月さんと変わりありませんよ」

「違いますよ。結月はそのままわたしに仕えているけど、蓮司は正式には違っているでしょう」

「御当主様に雇っていただいている身分に差はありません」

「でも、違うよ。メイドと庭師ではわたしとの関わりは違います」

「私のほうがより遠い存在でしょう。畏まる必要性かあります」


 この辺りの順位は、俺には推し量れない。ただ、言い負ければ、砕けた付き合いを求められるのは必定。それだけは、回避したかった。

 ポリシーがどうだとか、紫乃様に慄いているだとか。そういう理由ではなく、面倒事を避けたい一心のそれだ。

 俺は花学の研究も許される職場であることに価値を見出して、ここに飛び込んできた。回避不能な日常的な干渉はやむを得ない。しかし、必要以上な距離の詰め方をするつもりもないし、親しみやすさもいらなかった。面倒事は徹頭徹尾ごめんだ。


「必要ありませんよ。わたしと時々しか関わらないし、外で会うことはないでしょう? メイドはよそまでついてくるから、砕けて欲しいなんて言えないけれど、蓮司にはそんな機会はこないから、仲良くしたって困ったことにはならないでしょ? 屋敷内のことは、お父様の判断ですもの」

「……それでは、御当主様に許可を頂いてからでなければなりません」

「お父様は蓮司とは仲良くしていいって言いましたよ?」


 何の許可を出しているのか。本当にそのままの許可を出したのか。悪気なく、自分に都合の良い解釈をしているのではないのか。

 子どもと大人の会話に齟齬が生まれることは、そこまで稀有なことではないように思えた。その真偽を確かめるために目を向けてしまったのは、結月さんだ。メイドとしてそばに控えていたならば、若当主の意向も聞いているだろう。公式見解が聞けるはずだ。


「確かに、秋里さんとお話しする際のことは紫乃様にお任せするとおっしゃっていました」

「……だからって、紫乃様のお願いを私が聞いてしまっても問題ないものなんですか?」


 上流階級の交際は、まったくもって分からない。いくら調べたといっても、こんなことは予想の埒外だ。おおよそ、ダメだろうという認識しかない。

 俺としては、礼儀正しくしていればいいだろうと取りまとめていた。それが早速異例に落とし込まれてしまっている。紫乃様……子どもというのは、予測不能だ。


「私としても庭師の立場の振る舞いを把握していません。元来であれば、あまり馴れ馴れしくするのは断るべきではあるかと思いますが……」


 結月さんは言葉を区切ると、緩く目を伏せて紫乃様を見下ろす。紫乃様は所望するかのように結月さんを見上げていた。それだけで、意見が通るものなのか。


「紫乃様にはご友人もおられませんから、これを機に親しみを持って接される気安い関係のお方との付き合いをするのもいいのではないかと考えます。お屋敷の外で遊ぶことはできませんから、慣れた方というものもいません。私たちは外でも付き従いますので、砕けた態度など許されません。もしも、秋里さんが可能であるのであれば、ご当主様の許可も下りていますので、紫乃様の求めるようにしてあげてくだされば嬉しく存じます」


 つらつらと話された事情は、一刀両断できるものではなくて困った。

 紫乃様の境遇には同情する。そのうえ、クラシカルなメイド服に身を包んだ三つ編みの結月さんが、奥ゆかしく言うのだ。人情を刺激するには十分過ぎた。

 紫乃様もキラキラとした圧力でこっちを見上げてくる。純粋無垢な分、こちらの分が悪い。下手に追撃がないことが、逆に追い詰められているような気持ちになる。

 どうしたものか、と迷い文句が浮かびながらも、もう九割方答えは出ていた。

 はぁと吐息を零し、ぐしゃりと前髪を掻き回す。後ろ髪を結んでいるので、掻き乱すにも自在にいかない。その引っかかり方が、まるで俺の懊悩であるようで苦笑まで零れてしまった。


「分かりました。分かったよ。紫乃、これでいいか?」


 これ以上なく、粗略な対応だ。本当なら、もう少し時間をかけて縮める距離だろうし、お嬢様としては忌避してもおかしくはないものだろう。

 それだというのに、紫乃は本当に本当に嬉しそうに笑った。燦々とした笑顔を咲き誇らせる。こうまで喜ばれてしまったら、半端をやるわけにもいかない。

 やはり、安請け合いばかりをしてしまっているような気がした。とはいえ、避けられない人間関係である以上、どうしようもない。腹は括った。


「ただし、ご当主様などが同席するときには改まることはご容赦ください。適宜、場面に合わせます」

「もちろんです。わたしも、そうします。よろしくお願い致します、蓮司」

「ああ。よろしく、紫乃」


 これでいいのか。逡巡が残っていた。それでも、紫乃が満面でいて、結月さんも納得を見せている。これを退けるわけにはいかない。

 前途多難さを感じながら、俺の百合園家での日々が開幕したのだった。

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