第4話

 離れの部屋は二つに分かれている。一つはリビングダイニングで、もう一つは研究設備とベッドが設えられていた。

 ひとつひとつの家具が洗練されていて、目を見張るものだ。俺が持ってきたボストンバッグの中身が、離れの身の丈に合っていない。着替え一式などでしかないのだから、俺自身が釣り合っていないということだろうが。

 それはまぁ、そうだろうなぁと自身を見下ろす。

 就職にあたって、作業着となるシャツなどは一新した。百合園家が名家であることは、調べれば分かることだ。それなりの身支度を調えたつもりだったが、まだ足りなかったらしい。

 給料が出たら新調する必要がありそうだ。とはいえ、作業中であればエプロンを着るし、研究するのであれば白衣を着る。このままでも問題ないのかもしれない。この辺りは、俺がどれだけ住人と噛むことになるのかを知ってからでもいいか、と一旦棚上げにする。

 それよりも今は、花壇の構想や、既に育成している薬草についての確認をしなければならない。人間関係も仕事に関わるかもしれないが、優先順位を間違うつもりはなかった。それに、現状解決策が見当たらないものに拘泥したって仕方がない。

 俺は若当主から受け取った資料をダイニングテーブルの上に広げた。こちらは食事のためのテーブルで、寝室兼研究室のテーブルを使うほうがいいのだろう。

 だが、離れの使い方は俺の好きにしていいと言われた。破壊や改装でなければ自由だ。ならば、自分の動きやすいようにセッティングするのは当然だった。

 俺は広い作業スペースが欲しい。こちらでは花壇の設計などを、と考えながら資料をどんどんと広げて新しい紙を用意する。

 花壇はこっちの中庭に四つ。庭園の噴水周りに大きな花壇がいくつかあるらしい。その場は花壇だけではなく、鉢を置いても構わないとも聞いた。だとすれば、選択肢は広い。

 どれがいいだろうか。

 衣服以外で運んできた花学の辞典や辞書、花辞典を引き出した。折れ目がついて、開き癖があり、付箋があちこちに挟まれている。使い込んだ辞書はボロボロだが、新調するつもりはなかった。どこに何が書いてあるのか覚えつつある辞書の使いやすさは、よそでは絶対に手に入らない。俺の相棒とも呼べるものだ。

 大切にしているそれを開いて、花壇の想像を走らせる。候補を書き殴って羅列した。悪筆で読めないと言われた文字も、自分の発想を整理するためだけなら誰に迷惑をかけるわけでもない。スピード重視で書き留める。

 どう並べるか。とにかく箇条書きにしていった。

 今日はまだ勤務日ではないので、これは仕事の準備に過ぎない。趣味と仕事の狭間。俺にしてみれば実益を兼ねた趣味で、楽しさが大きい。実に恵まれている。

 そうして楽しんでいるものだから、他のことなど見えなくなって、思考に埋没していった。あれこれ考えて並べていく。

 ただ、明らかにメモをし過ぎていた。並べ立てたものを、じっくりと眺めて品定めしていく。

 色合いはどの辺りを目指すか。テーマを設定すべきか。これからの季節であれば諦めたほうがいいものもあるか。逆に加えてもいいものもあるか。紫乃様の好みをリサーチすべきか。一度目は気にせずともよいか。百合園家という家名にちなんだほうがいいのか。

 品種を選べばそう難しくはないが、球根からとなると時期が悪い。今は諦めておくか。庭園のほうには、低木も植わっているらしい。薔薇もあると聞いた。

 だとすると、百合もというのはくどいか。かといって、百合を俺の離れとの中庭に植える意味はなさそうな気がする。それとも、紫乃様の学習のためには、そうした制限をつけることはやめたほうがいいのか。

 ここでも人のことを考えた選出をしなければならない。今まで、俺はそうした部分に思考を割いてこなかった。自分の好きなように、自分の好みで整える。その技術が図抜けていたというつもりはないが、そうした造りにしか覚えがない。

 どうしたものか。

 ペンの頭をテーブルに打ち付けながら、ありとあらゆる可能性を考えて、取捨選択を慎重に行う。国の情勢によっては、手に入らない品種もあるかもしれない。だとすると、候補を消さずともよいものもあるだろう。予備として残しておいても損はない。

 そもそも、花壇は季節によって整えるものだ。今季の候補にならずとも次の候補になり得る。

 かちかちとペンを鳴らす動作を続けながら、思考を滑らせていた。そうして眺めていた用紙の一部が、かさりと音を立てる。風か重ね方の問題か。さして気にせずに一度流して、我に返った。

 はっと紙のほうへ視線を向けて、そこに小さな手のひらが伸びているのを目視する。テーブルの淵にひょこんと覗いている赤い瞳に仰天した。


「おまっ……紫乃様、何をやってらっしゃるんですか」


 危うく砕けた言葉が飛び出そうになった言葉を寸で切り替える。

 少女にそこまで気を遣わなくても、と考える自分もいた。だが、給料を出してくれるのは若当主とはいえ、俺が従うべきは紫乃様だ。そうした関係である以上、丁重さを崩すわけにはいかない。

 初日から不始末をしでかすつもりはなかった。


「鍵、閉まってなかったですよ?」

「……だからって、ノックもなしに入るべきでないと教わっているのではありませんか」


 子どもというのはこれほど奔放だっただろうか。振り返ってみるが、ピンとはこない。俺は本さえあればじっとしているようなインドアだった。

 ……紫乃様も体力的には同じような生活だと思うが、心意気はまったく違う気がする。どちらかといえば、騎士のように押しが強い。そうでなければ、こんな突入などかませるものか。


「わたしはきちんとノックしましたけど、蓮司は気がつかなかったですから。窓から中にいるのは見えていたし、開いていたので」

「……気を遣っていただきたかったです」

「すみません」


 謝罪する態度はしおらしい。しかし、その視線はそわそわと紙を撫でていた。好奇心をちっとも抑えきれていない。半眼になってしまうのもやむを得ないだろう。


「申し訳ありません」


 扉の外側から、凛とした声が響いた。

 結月さんは紫乃様ほど無作法ではないらしい。だが、紫乃様を侵入させているのは失態であるような気がした。

 メイドは世話をするだけで、注意を促したりはしないのだろうか。少女につくのであるから、先導者としての立場もありそうなものだが。それは俺の想像でしかないのだろうか。


「……次からは気をつけてください」

「はい!」


 元気な返事を真に受けていいものか。これは若当主に俺との会話を窘められていたときの生返事とよく似ているような気がした。

 あのときは若当主が手綱を握っていたが、今はもう解き放たれている。今こそ、紫乃様の本性が分かるだろう。よからぬことしか思い浮かばないのが困りどころだったが。


「それで、どうされたんですか?」

「お父様とのお話は終わったのでしょう? お話しちゃダメでしょうか?」


 その瞳がきょろきょろと文字を追っている。俺は辞書を閉じて、紙を取りまとめた。ひとまず、椅子を引く。


「どのようなお話を?」


 促せば、紫乃様は席に座ろうとしているが背丈が足りない。見ているわけにもいかなくて、脇に手を入れて持ち上げて座らせてやった。


「ありがとう存じます、蓮司」

「どういたしまして。結月さんも中へ入ってください」


 部屋に他人を入れるのは好みじゃない。こんな押しかけでもなければ、許可しなかっただろう。

 だが、陥ってしまったものからは、逃げようにも逃げられない。結月さんだけなら距離を取れたかもしれないが、紫乃様がいる。

 追い返すわけにもいかずに呼び込んだ結月さんは、壁際に佇んだ。その行動がメイドとしてのものか。遠慮なのか。判断のつかないことに言及するのはやめた。


「何かお出ししましょうか?」

「いいえ。勝手にやってきましたし、まだ室内も整っていないでしょう? いいですよ」


 少女にしては言葉遣いが折り目正しい。お嬢様というのは、こういうものなのだろうか。

 スタンダードな上流階級の生活様式くらいは目を通したが、お嬢様の教育課程にまでは頭になかった。上流階級の庭園の造りについては前準備をしたが、こんな手抜かりが見つかるとは思わない。

 お嬢様の存在は知っていたのだから、これは失敗だった。


「ご配慮ありがとうございます」

「そんなに畏まらなくていいですよ」

「そういうわけにはいきませんよ」

「どうしてですか?」


 きょとんと首を傾げられて、苦い気持ちになる。メイドとして仕えているものがいるのだから、自分が敬われる立場であることは分かっているだろうに。

 それとも、自覚が薄いのか。こういうところが生粋ということなのかもしれない。


「お……私は雇われている身ですから」

「気にしなくていいですよ」

「そういうわけにはいかないでしょ」


 一度目よりも気が抜けたのは、紫乃様の緩さに釣られたこともある。しまった、と後悔はすぐにやってきたが、覆水は盆に返らない。

 結月さんが俺を助けてくれることはなさそうだった。


「だから、気にしなくていいのですよ。それに、蓮司はわたしにお話をしてくれるんでしょ? 先生みたいなものでしょ?」

「そこまで密に教える約束をした覚えはありませんし、私は家庭教師じゃなくて庭師ですよ」

「お父様とはどういうお話をしたのですか?」


 俺が若当主と自分のことを話したであろうことは推測できているらしい。

 賢いのか。自分の立場が分かっているのか、いないのか。いまいち掴み所がない。箱入り娘というのは、こういったちぐはぐな面があるのだろうか。俺にはそんな友人がいた試しもないものだから、想像ができなかった。


「君と話をすること。それから、花壇も君の好みにして欲しいと言われましたよ」

「わたしのいいようにしていいのですか?!」


 餌が吊されると、他のことがぶっ飛んでしまうのか。

 ぱぁと周囲に光が飛ぶかのような笑みを浮かべて、こちらを見上げてくる。立ったままの俺の太腿に縋りつかんとする勢いだった。パーソナルスペースを守りたいところだが、視野が狭くなっているものにそれを言うのは無理筋だろう。

 そして、興奮している虚弱な少女をどの程度突き放していいのかも分からなかった。


「そのように聞いています。ご相談してもいいですか?」

「わたしが話していいのなら、いっぱいお話したいです」

「それでは、失礼します」


 そばの椅子を引きずってきて、紫乃様の隣へと座る。

 高揚しきった紫乃様は、前傾姿勢になって寄ってきた。俺がまとめた紙が構想を書き記したものだと分かっているようで、それを視線で促している。笑いが零れてしまいそうになった。

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