第2話
いきなりの呼び捨てには思うところはあったが、ここまでへこまれると罪悪感が芽生える。俺はその場に腰を屈めて、紫乃様に視線を合わせた。紫乃様は残念そうな顔で、俺の挙動を見守っている。
「花に興味があるのですか」
「たくさん、本を読んでいました」
「実物を見てみたいですか」
「はい。今まで写真でしか見たことありません。お庭のお世話はいつから始めますか? いちから始めるのですか? お花が咲くまでは時間がかかるでしょ? すぐには見られますか?」
一つに、二つも三つも返ってくる。よっぽど花の話に飢えているようだ。
学園では花学という名で多くの人間が触れ合っているものだ。俺にしてみればあまりにも身近で、紫乃様のようなものはいなかった。
年齢が違うこともあるだろうが、それにしても、外に出れば実物を見る機会なんて山のようにあるだろう。この歳まで外に出ていなかったのか。そんなことはあるまい。
……今までは目に入ってなかった、ということはあるかもしれないが。
「……苗で持ってきている花がいくつかありますから、それを植えればすぐに見ることができますよ。種からお世話するのもいいかと思っていますが……薬草もハウスでお世話するのですよね?」
最後の確認は若当主に向けた。下から見上げるのも行儀が悪いかとも思ったが、へりくだっているようなものだから問題はないだろう。何より、紫乃様がこちらを凝視しているので、離れるに離れづらかった。
「ああ。既にハウスで育てているものもあるので、そちらの世話もお願いしたい。その他にも薬のために必要であると判断したものがあるならば、すぐに注文してもらって構わない。薬草は紫乃のためであるから、お金に糸目はつけなくてよい」
庭師に薬師の資格も求める時点で、お嬢様のことが加味されていることは分かっていた。それが明言されて、俺は強く顎を引く。願ったり叶ったりの環境だ。
「ハウスと花壇は使い方が違うのですか?」
不思議そうに首を傾げる紫乃様は、まだまだ花学に触れたばかりなのだろう。先ほどから口をつくのは、基礎にも満たないような疑問ばかりだ。
俺もかつては、これほど無知であったか。彼女と同じころの自分を思い出すのは難しかったが、好奇心旺盛だったことは覚えている。
野原を駆け回って、花に興味を覚えたものだ。紫乃様は書籍からというが、こればかりは健康と生活環境によるものだろう。動こうにも動けないものを、積極性もないくせにと貶める気はなかった。
むしろ、この機に便乗してくる威勢の良さは見るべきところがあるくらいだ。
「ハウスで育てる花もありますが、薬草としての役割を求めるもののほうが多いですね。花壇では見目麗しいものを育てます。あとは光量や温度管理の問題です」
紫乃様はふんふんと俺の話を聞いている。本当に、内容のすべてを理解しているのかは怪しい。俺は紫乃様の学習状況も分からないし、それこそ賢さなど知るはずもないのだから当然だ。
だが、それでも興味を示してくれているのは気持ちが良いものだった。
「でも、花学に使う花だって、薬のための薬草だって、最初は野外に生えていたものでしょう? どうして変わってくるのですか?」
「主には害虫避けでしょうか」
興味を巡らせていなければ、自発的に疑問が浮かぶなんてことにはなり得ない。それも関連事項から取り出してくる。打てば響く同志と分かれば、教えるのだって苦にはならない。試験や成績のためにさしたる興味もなく大雑把に尋ねてきていたクラスメイトたちに比べれば、そこには天と地ほどの差があった。
銀色の髪には綺麗な天使の羽が浮かんでいるから、紫乃様はまさしくそれであったかもしれない。
「それでも、野生でも育つのでしょう?」
ぐぐっと首を傾げる。あんまり傾げるので、倒れそうで怖い。しかし、気を落ち着けようと肩を掴んでいた若当主の手が紫乃様を支えていた。
紫乃様は虚弱のせいで、体幹がないのかもしれない。そこはイコールで結ばれるものか。俺には虚弱な知り合いがいないため、知識はない。
この調子であれば、紫乃様と絡むことはこれから増えていくことだろう。気をつけなければならないのかもしれない、と頭にチェックを入れた。
「育ちをよくするために手をかけるんですよ。そのためにはハウスで育てるのもひとつです。もちろん、育て方はさまざまありますから、必ずしもそうであるというわけではありませんが」
「そうなんですね。じゃあ」
「こら、紫乃」
ちっとも口が止まる様子がない。そんな紫乃様の肩を掴んでいた手が、とんとんと叩いてストップをかける。
紫乃様はすぐに口を噤んだが、不満げな目で真上を見上げた。若当主は苦い顔で紫乃様を見下ろして、頭をくしゃりと撫でる。
「まずはお父さんに話させておくれ。彼は来たばかりなんだ。お仕事の話もしなくちゃならないし、そうしないと花壇のお世話も始めてもらえないよ」
花壇を飾ってもらえないことは嫌らしい。だが、俺に話を聞けないのも不服があるようで、難しい顔をしている。顎に皺を寄せてぎゅぎゅっと顰め面になる紫乃様は、なかなか渋面だ。その態度に、若当主が更に苦々しい顔になる。
「秋里くん」
「はい」
不満たっぷりの紫乃様に目を向けていたところに呼びかけられて、背筋が伸びた。立ち上がって目線を合わせると、若当主は苦い顔をしたままでいる。
……話は後回しにされるのだろうか。
虚弱な一人娘。箱入り娘であろうから、ベタベタに甘やかしている可能性が大いにある。会話を優先するくらいは、そこまでの譲歩でもないだろうから、あっさりとそうされるのではないか。
そりゃ、今すぐ擦り合わせをして仕事をするべきで、他のことなど一片も許しがたいというほど四角四面でいるつもりではなかった。一人娘を相手して欲しいという願いを拒絶するほど人情がないわけでもない。
ただ、後回しにされるのは、それはそれで面倒くさい。面倒事は早めに済ませて、花壇に取りかかりたいのが本心だった。
子どもが嫌いと言うつもりはないし、紫乃様が花について話したがること自体には悪い気はしない。だが、俺は庭師として勤めるのであるから、花壇第一でありたかった。
紫乃様の相手は、俺の仕事ではない。だが、そんな不躾で自分本位な意見を雇い主にぶつけるわけにはいかないだろう。俺は姿勢を正して、若当主からの言葉を待った。
「今後、余裕があるときでいいから、庭仕事のついでに紫乃の相手をすることは可能かな?」
「……手抜かりがあってはなりませんので、片手間というわけにはいかないとは思いますが」
仕事で雑談をしようとは思えなかった。話し相手をすることも仕事だと言われてしまえばやむを得ないけれど、この言いざまではそうではないだろう。半端な提案には半端な回答をすることしかできない。
「もちろん、そのときには仕事の手を休めて休息の時間としてもらって構わないよ。昼休みなどとは別の業務時間中の息抜きで時給は発生する形でどうだろうか?」
「それならば、構いません」
話し相手中に時給が発生するのであれば、話は別だ。紫乃様がどれほどの頻度で訪ねてくるかは定かではないが、それでも仕事と言われれば応じる。
俺の首肯に喜んだのは、若当主よりも紫乃様だ。俺を見上げてくる赤い瞳がギラギラと光っている。苺ジャムのような艶のある瞳は眩し過ぎた。子どもの無邪気さというのは、これほど威力があるものか。
廃れているつもりもなければ、くたびれているつもりもない。それでも、子どもと接する時間なんてまったくなかった。弟妹もいないし、親戚付き合いもない。そんなものだから、威勢の良さには頬が引きつりそうになる。
「ありがとう。助かるよ。その辺りもきちんと擦り合わせを行おう。紫乃もお話はできるけれど、時間は考えなくちゃいけないよ。秋里くんに迷惑をかけないように。秋里くんは君のために来てくれているのだし、君が迷惑をかければ求めている花壇はできないんだからな」
やはり、俺は紫乃様のために雇われたらしい。予想できていたことであるし、好待遇であるのだから文句はなかった。
紫乃は元気いっぱいに
「うん」
と頷いたが、それがどうにも信用ならない。
遠慮はするだろう。一意専心ではあるが、そこまで我が儘な子には見えない。一度落ち着けば、考える頭はありそうだった。
だが、その範疇が俺と重なるかどうかは定かではない。徒労感に襲われて、辟易することもありそうだ。そんな想像ができないわけではなかったが、仕事である以上文句を言える立場にない。
「それじゃ、お父さんは今から秋里くんと話すから、紫乃はお部屋に戻りなさい」
「散歩するよ」
「あまり歩き回って疲れてはいけないよ」
「大丈夫だよ。今日は調子が良いし、もうちょっと歩くの」
「そうかい? 無理はしちゃダメだからね。
「はい。畏まりました」
ダークブラウンの髪の毛を三つ編みにした従者たる静けさで、メイドが頭を下げる。結月……さんは、顔を上げると紫乃様に対して手を差し出した。
「それでは、行きましょう。紫乃様」
どのくらいの年齢か。華奢なことしか分からないが、屋敷内を歩くのに手を繋ぐのが過保護なことは分かる。
それとも、虚弱であれば当然なのか。距離の測り方を覚えなくてはならないのではないかと思うと、面倒くささが湧き上がる。短慮だったかもしれない。
紫乃様は湯月さんの手を取って、若当主から離れる。
「では、お父様。お仕事、頑張って」
「ああ。ゆっくり過ごしなさい」
ひらりと手を振った紫乃様は、俺のほうも向いた。ぺこりと小さなお辞儀をしてから、結月さんとともに去って行く。その足取りは至って普通で、虚弱っぷりはさっぱり分からなかった。疑っているわけではないが、どの程度かを知りたいとは思う。
「……紫乃様は、どれほど虚弱なのですか」
「そうだね。今日はすこぶる元気なほうだ。薬草の話とともにその辺りも説明しよう。ひとまず、一度応接室へ移動しようか。さっき提案したことも、きちんと話を詰めなければね」
「はい」
俺が意見する余地は一ミリたりともない。頷いて、若当主の後を追った。
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