第91話 田舎にて 4

「なぁるほどぉ、これは高校生じゃちょっと遠慮しちゃうわ」


 七虹香が呟く。

 以前、翔子さんに教わった川の方まで足を運んでみたところ、子供の声が聞こえてきた。川の支流、屋敷の裏手の山の方から流れてきている沢が、少しだけ流れが緩やかになっている部分。小学生でもせいぜい深くて腰までの場所で何人か遊んでいた。小さな子供連れの大人も居る。


「確かにこんなところで七虹香がビキニ着てたら捕まりそうだな」

「なんでこんな時だけあたしなのよ! 渚や奥村の方が見た目ヤバいでしょ!」


 七虹香が騒ぐから大人たちが不審そうに見てくる。

 渚が挨拶を返し、飛倉の親戚だと伝えると表情が和らいだ。


「ちょっと入ってみよっか!」

「だよねえ」

「渚、危ないわよ」


 大丈夫、大丈夫――と、渚は子供たちが居る所とは少し離れた、沢のごく浅い所に降りていく。

 草履を脱いで裾を捲り上げて裸足で水に入る渚。


「冷た~い!」


 さすがに今回は渚もすっ転びはしなかった。


「ほんと! 冷たい! 気持ちいい!」

「へぇ、屋敷の水路と同じかな」


 入ると確かに水が凄く冷たかった。

 奥村さんも降りてきて草履を脱ぎ、心配そうに水に入る。

 あまりに不安そうなので手を差し出すと、奥村さんは驚いたように立ち止まるが、おずおずと手を差し出してきて僕の手に掴まり、水に入った。


 その後は浴衣のままでは何をどうできるわけでもなく、まして水着に着替えて遊ぶような場所でも無いので水の冷たさに三人はキャッキャと黄色い声で騒ぎながら沢での一時を過ごした。



 ◇◇◇◇◇



「百合ちゃん、どうかした?」


 帰路についていると、途中、奥村さんが立ち止まっている。


「ううん、ちょっとだけ足がね」

「草履が合わないからかな。水にも入ったし、ちょっと擦れた?」


「うん。道はわかるから渚たち、先に帰っていて。ゆっくり帰るから」

「ダメだよ百合ちゃん。太一くん、お願いできる?」

「いいよ。でも渚は大丈夫なの?」


「私は大丈夫。こっちのお祭りで草履はいてたから」

「あたしも心配してよ!」

「七虹香は前回の時点で余裕そうだったろ……」


 じゃあ、はい――と、奥村さんの前に屈む。ただ、奥村さんはおぶさってこない。


「――やっぱり嫌かな?」

「ううん、嫌じゃない…………でも渚、いいの?」

「いいよ。百合ちゃんだもん」

「ちぃ、その手があったかー!」


 奥村さんが僕に体重を預け、首に腕を回してくる。

 ぎゅっと彼女の身体が密着すると、何故か甘く感じてしまう匂いが漂ってきた。

 密着した身体よりも、この匂いの方が僕にはマズくて、とにかく一歩を踏み出す。


「私、重いからごめんなさい……」

「大丈夫、最近ちょっと鍛えてるから」

「バッカね太一、そゆときは羽のように軽いよって言ってやるもんなのよ」


 走って鍛えているとはいえ僕はそんな風に凄いわけじゃない。渚を背負ったって軽快に歩けるわけじゃないし、最近は僕の背が伸びたとはいえ長身の奥村さんとなるとそれなりには重かった。



 ◇◇◇◇◇



「奥村さん、寝てる?」


 僕が奥村さんを背負い、渚がその横を草履を持って七虹香と語らいながら歩く。すると背中の奥村さんはスースーと寝息を立て始めた。寄りかかった身体も少しだけずっしりと重みを感じるようになる。屋敷の前まで着いたので、僕は小さな声で話しかけてみた。


 ス――っと数瞬、寝息が止まるが、また再び寝息が。


「――寝てるっぽいかな……」


 少々の疑惑はあったが、そう言葉にしておいた。


「太一くん、部屋までいい?」

「大丈夫。草履だからすぐ脱げるし、このまま運ぶよ」


 戸口で頭をぶつけないようにだけ注意して、奥村さんを部屋に寝かせる。

 敷布団は七虹香が敷いてくれた。


「えっろ……」

「やめろ」


 寝かせた奥村さんの浴衣が少し乱れていたのを七虹香が目ざとく見つけ、触ろうとするので渚に任せて七虹香を部屋から引っ張り出した。



 ◇◇◇◇◇



 夕食前には七虹香のお父さんと翔子さんが到着した。寝泊まりはあちらの家でするそうで、とりあえず七虹香の荷物を持ってきてくれたわけだ。一応、ノートといくらかの参考書は持ってきていたのは確かめた。


 七虹香のお父さんは落ち着いた人で渚のお母さんよりは少し年上みたい。七虹香は父親をパパと呼んでそれは親しそうにくっつくので、なんか……街中で見かけたら補導されそうだななんて思った。広間で皆一緒に食事を取ると、光枝さんなんかは本当に楽しそうにしていた。


 夕食を終えると、お風呂も入って行ったらとの誘いに、翔子さんが明日は朝から店を手伝うというので帰っていった。その夜も僕は渚たちに露天風呂の方を譲って、お風呂の後は二時間ほど勉強をした。



 ◇◇◇◇◇



「瀬川くん、昨日はごめんなさい。ちょっと寝不足だったから」


 朝の五時前、渚と奥村さんとの三人でランニングに出る。薄着なら十分に涼しい。東側が山なのもあって日の出は少し遅いが空は十分明るい。


「今日は大丈夫? ほら、枕が変わって眠れないとかなら光枝さんに相談してみれば?」

「ええ、でも大丈夫だと思うから」


 それでも少し心配だったけれど、ウォーミングアップが済んで走り始めると問題なさそうに見えた。奥村さんは体幹がしっかりしていて僕なんかよりずっと運動が得意。渚も成長したとはいえ、積み重ねた時間が違う。



「奥村さん、僕に拘らなくったって幾らでもいい相手が見つかりそうなものなんだけど。スポーツ選手とか相性良さそうだし、男なら普通にみんな放っておかないと思うんだ」


 僕らは駅の傍まで走って、奥村さんがコンビニに用があると入って行ったところを外で待っていた。


「百合ちゃんはそれも嫌なんじゃないかな? 自分にそれだけ価値があるなら余計に」

「政略結婚か……。じゃあなおさら守ってもらえる誰かを探した方が……」


「……太一くん。太一くんて、私が汗くさくても……その、平気で匂いを嗅ぐよね?」

「うん? まあそうだね」


 渚とは、お互いの匂いが全部好きという話を打ち明けてからはそう言った話もするようになっていた。


「でも、それって他の人には普通にくさいと思うんだ。それはわかる?」

「ん……そうかもね」


「それって大好きだからだと思う? 相性だと思う?」

「大好きもあると思うけれど、相性が大きいと思う」


「匂いの相性って、親子みたいに血の繋がりが深いほど悪いんだって。本当かは知らないけど、遺伝子的に反発し合う?――みたいな。だからその――」


 逡巡する渚。


「――百合ちゃんが言うには……百合ちゃん、太一くんのこと全く意識してなかったのに最初から匂いが大好きだったの。たぶん、私と同じかそれ以上に太一くんの匂いが好きで――」


 渚はその先の言葉を迷っていた。

 結局、奥村さんが戻ってきたため続きは語られなかった。


 ランニングから帰ってくると、七虹香に置いてけぼりにされたと怒られた。

 誘ったのにぐーすか寝ていたのは七虹香だろう……。



 ◇◇◇◇◇



 朝は天気が良かったのだけど、徐々に暗くなる空。気温はそれほど下がらないまま、しとしとと雨が降り続いた。暑~い――と七虹香が言うので、戸を閉め切ってクーラーをかける。一応、昔からの屋敷だけど建物の改装でエアコンは各部屋についていた。ただ、上についているやつではなくて部屋の押し入れの隣、半畳くらいのスペースにエアコンが収まっていた。床下を通って外に繋がっているらしい。


「出かけられないのは仕方ないし勉強でもしよ?」

「えー、つまんなーい」


 僕も渚も、二人きりじゃないなら普通に勉強もするし、奥村さんも付き合ってくれた。ただ結局、七虹香は半時間ほど勉強に付き合うと――光枝さんとお話ししてくる!――と出て行ってしまった。


「クーラー止めておく? 寒いでしょ?」

「湿気もあるから弱くかけておく?」


 渚は浴衣の上からカーディガンを羽織っていた。雨の日にクーラーをまともにかけるとさすがに今の渚でもちょっと寒そう。


「奥村さんは大丈夫?」

「うん、多少は暑くても寒くても平気」

「百合ちゃんはいつも少し我慢し過ぎだから、ちゃんと言わないとね」


「じゃあ……ほんのちょっとだけ寒い」

「それなら少し上げるだけでいいかな。渚はカーディガンで丁度いいくらいでしょ? 僕も一枚羽織ってるから大丈夫」

「そだね。――百合ちゃんもちゃんと言ってくれて嬉しい」


 ん――と奥村さんが微笑む。結局、その日は勉強と、合間にお茶を飲んだりお喋りして過ごした。



 ◇◇◇◇◇



「たーいちくん?」


 夕食後、七虹香と奥村さんが席を立ったタイミングで、渚がニコニコと声を掛けてきた。なんかこのニコニコには見覚えがあった。


「なにかな?」

「お風呂入ろ? 露天の方」


「えっと……七虹香や奥村さんは……」

「二人とも、今日は中のお風呂に入るって」


「大叔母さんは……」

「大叔母様にも話してあるから大丈夫」


 大叔母さんもグルだった……。


「渚のお母さんは……」


 渚のお母さんは午後から合気道の寄り合いみたいなのに出かけるとか言っていた。夕飯は要らないと言っていたのを聞いていたけれど……。


「ん?」


 とぼけているが、なるほど、今日を狙っていた理由が分かった。これは計画的犯行だ。



 ◇◇◇◇◇



 シュルシュル――と渚が帯を解いていく。

 露天風呂の脱衣場は少し広め。渚が浴衣を脱ぐ所を見るのはこれが二度目。一度目は先月の花火大会で。あの時は脱がしたんだけど、今日は脱衣場で少し離れて盗み見る。


「なぁに? 見てもいいのに」

「いや……見ないよ」


「太一くんはそういうところが変わらないよね。もっと自信持っていいのに」

「自信持って渚が脱ぐのを眺めるのは……なんかちょっと嫌だ」


「そういうところも好き。――じゃあ、隠した方がいいかな」


 渚は短いタオルを抱いて前を隠す。確かにその方が、恥じらいがあってかわいらしいかもしれない。あまりにあけすけだと七虹香みたいに見えてしまうかもしれない。


「そうだね」



 屋敷の中の小さな中庭に露天風呂はある。体を洗ってお湯につかった。露天だからもうすこし温いと思っていたけれどそんなことはなかった。


「思ったより熱いんだね」

「温泉だからね」


「えっ、これって温泉なの? 家の中で?」

「そうだよ? 中の檜の方も同じだけど、聞いてなかった? ご先祖様が井戸を掘ったら湯が沸いたとかいう言い伝えがあるみたいだけど、今のは機械で掘ってるって言ってた」


「そうだったんだ……渚と二人で温泉の夢が叶ったね」

「お屋敷のよりお出かけしての方がいいなあ」


 僕には十分だったけど、渚には少しだけ日常なのかもしれない。

 雨が上がって澄んだ空気の中、のんびりと星空を見上げながら渚と湯に浸かった。



 ◇◇◇◇◇



 風呂から上がったあと、寝る準備をする渚はちょっと待っててと僕を洗面所に引き留める。部屋に戻るかと思ったら、渚たちの部屋の前でも待たされ、七虹香たちに声だけかけて戻って来たみたい。そしてさあ行こうかと向かったのは、なぜかいつもと違う部屋。


 隅の部屋で南向きに庭が開けている。庭木は奥まるほど小ぶりな木が植えられており、正面に広がる庭はまるでヴィネットのよう。南の空にはちょうど天の川が垂直に伸びていて、池に映り込んでいるかと思うくらい明るく見えた。


 渚が障子を開けると、中にも板張りの床があってさらに障子は二重になっていたし、その障子自体もちょっと厚い気がした。角部屋なのに何故か東側は壁だし、西側は隣の部屋とずいぶん距離があるように見えた。


「なんか……変じゃない? この部屋」

「庭がいちばん綺麗に見えるって教えて貰ったよ、ここ」


「確かに庭はそうだけど……」

「ここね、お屋敷の新婚さん用の部屋だって。だから――」


 声を出してもそんなに響かないよ――と渚が耳元で告げた。


「ええっ、ちょっと待って、それって――」


 驚かないわけがない。屋敷にそんな部屋があったことにはもちろんだけど、大叔母さんもさっきのこともあり承知ってことだろう。それに七虹香や奥村さんも!? 渚のお母さんを避けたということは、お母さんは知らないんだろうけど……。


 中の障子を開けると布団が畳んであった。誰が準備したのだろうか。渚の可能性が高いけど、お屋敷の下働きの人とかだったら恥ずかしすぎる……。


 渚は障子を閉め、灯りを付けると冷房をかけた。


「太一くんが嫌ならそのまま一緒に寝てもいいよ?」

「ううん、したい」


 じゃあ――と、渚は布団を敷き始め、僕も手伝う。

 お風呂にしては大荷物だなと思ったけれど、渚は必要な物を準備してあったみたい。


 布団を敷き終えると、渚は僕に膝をつかせ、お互い膝立ちでキスを始めた。

 静かな部屋でエアコンがゴトンと唸る。


「冷房消さなくていいの?」

「うん……お布団、汗でびっしょりにすると困るから」


「じゃあ灯りを――」

「そっちもそのままでいいかな……」


 明るいうちからすることが多いから今更彼女は恥ずかしがらない。

 寝てしまうことがあるので夜は電気を消していたりはするけれど、まあ確かに、電気機器の無い部屋では思ったより真っ暗になって不便かもしれないな。


 そうして、早めに布団へ入った僕らの夜は更けていった。







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 いつもの渚ですね!

 次回、突然の視点切り替えです。


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