第89話 田舎にて 2

 飛倉の屋敷の最寄りのバス停に着く。

 屋根付きの待合所のあるあのバス停。


 真っ先に降りた渚は、僕の手を取って待合所のベンチへ。


 ふふっ――と、何を言うでもなく楽しそうな渚。


「渚はここ、通園や通学には使ってなかったんだよね?」

「うん、お屋敷に来る時だけ使ってた」


「じゃあその、いつもバス停で一緒に居た男の子って……」

「それはただの想像かな。私の原風景?――みたいなののひとつなの。だから居ないよ?」


 僕は渚の小説の話のことを聞いていた。

 渚ももちろんわかっていて――。


「――ほら、ここって囲われてるから何か秘密の場所みたいな、隠れて色々できそうって思うでしょ?」

「ん……まあ、変なことはできないと思うけど」


「でも、小さい頃はこんなでも隠れられてるって思ったの。大きくなるとそんなことないんだけど」

「なるほどね。大人と子供じゃ視線の高さも、考え方も違うか」


「だからいろんな想像をして遊んでたの」



 奥村さんは珍しく、その待合所をあちこちから興味深そうに眺めていた。

 七虹香は近くの水路を覗き込んでいた。


「奥村! ほら、魚が居る! 魚、見て!」

「ほんとね。ハエかしら」


「蠅?」

「詳しくはないけど、父がハエって言ってた」


 はぇぇ――なんて感心している七虹香に二人でプッと吹き出し、屋敷までの道を歩き始めた。



 ◇◇◇◇◇



 水路に並行する道を四人でのんびり歩いてくると、飛倉の屋敷が見えてくる。

 門の前でインターフォンを鳴らすと――いらっしゃい、開いてるからどうぞ――と渚の大叔母さん――つまりは七虹香の義理の大伯母さんの声がする。


 前に来たときはどうやっても開かなかった門戸が、閂どころか開きっぱなしになっているということにちょっとした違和感を感じてしまう。もちろん、中には守衛なんて居らず、静かな庭に砂利道を歩く音が響くだけだった。


「まあ、美人さんばかりね! いらっしゃい、遠い所をよくきてくれたわね」


 渚の大叔母さんの光枝さんが出迎えてくれた。

 お世話になります――と挨拶し、渚は奥村さんを紹介した。


「お忙しい時期とは存じます。御迷惑をお掛けいたしますが一週間、宜しくお願いいたします」

「硬くならなくてもいいのよ。渚ちゃんも七虹香ちゃんも美人さんだけど、百合さんは長身の美人さんね。若い頃の汐莉さんを思い出すわ」

「それだ!」


 いや、――それだ――じゃねえ七虹香。ただなるほど、渚の親戚からはそう見えるんだ。


「光枝さんの今日のお着物、カワイイ上に涼しそうな柄ですね!」

「あら、嬉しい。これ、旦那が昔買ってくれたお気に入りなのよ。七虹香ちゃんもまた着てみる?」


「やたっ! 光枝さん大好き!」


 二人とも相変わらずの仲のよさだった。


「あなたたちもどう? 時間あるでしょ? 和装はいいわよ?」


 光枝さんに聞かれると、何故かこちらを見る二人。


「あ、うん、いいんじゃないかな。見てみたいかも」


「じゃあお願いします!」

「私も……、でもいいんですか?」


「大歓迎よ。あっ、それより暑かったでしょ。荷物だけ置いたら着替える前に、先に汗だけ流してきましょうか。まだお出かけするなら襦袢を下に着ればいいわ。最近は肌襦袢も涼しいのがあるのよ」


 生き生きとした光枝さんに当てられ、渚と奥村さんも乗り気。僕らは渚たちがよく使っていたという屋敷の一角――確か、前回来た時に渚が居た部屋の辺り――に部屋を用意してもらい、そこに荷物を下した。



 ◇◇◇◇◇



「じゃあ後でね、太一くん!」


 楽しそうな渚がバスタオルを持って露天風呂の方へ。奥村さんと七虹香も。

 僕はとりあえずシャワーだけ借りて、以前譲ってもらった渚のお父さんの藍で染めた麻の浴衣に着替える。別に着替えなくてもいいだろって思ったけど、渚たちからダメ出しされた。


 さっと汗だけ流して浴衣を着ると部屋に戻る。

 屋敷は軒が十分に長いためか直射日光は縁側まで届いておらず、思ったほどには暑くない。池には紅葉の根付いた岩からの、岩清水を模した造りがあって絶えずちょろちょろと水音が響き、池自体も淀んだものではなく少しだけ流れがあるように見え、澄んだ水底は涼し気だった。さらには鯉でも居るのかと思ったら、奥村さんがハエと言っていた魚が小さな群れを成しているのが見えた。





 うふふふっ――と、そんな声が聞こえた気がした。


 ほんのり香る樟脳の香り。ほんの少しだけ。嫌いな匂いじゃない。


 目を開くと軒天の垂木の並びが見えた。

 縁側に腰掛けていたはずが、渚たちが戻ってくるのが遅かったのもあって、僕はいつの間にか眠ってしまっていたようだ。渚は縁側に足を投げ出すようにして、いつもよりも膝枕の高さは低かった。あと、正座の膝枕よりもちょっとだけ柔らかかった。


 気持ちの良さに僕は再び目を閉じる……。



「あっ、太一! 二度寝するな!」

「そんなに気持ちが良かった?」


 クスクスと笑う渚が顔を覗き込んでくる。


「あ、うん。ごめん、脚が痛かった?」


「大丈夫だよ」

「太一がうつらうつらしてて落ちそうだったんだよね」

「気持ちよさそうに寝てたわよね、瀬川くん」


 三人が笑うので体を起こす。


「お父さんもそこで庭を眺めるのが好きで、お母さんとよく一緒に眺めてたよ」


「そうなんだ」


 渚は白地に水草と金魚の涼し気な柄の浴衣を着、髪留めで前髪を分けて留めていた。七虹香の入れ知恵で渚は海で肌を焼こうとしたけれど、結局それほど上手くは行かなかった。何度か行って少し健康的になったかなという程度で、白い肌が今でも目立っていた。


「光枝さんが言ってたよ。ここ、山から水を引いてるんだって」


 縁側のへりに腰掛ける七虹香は淡いグレーのモノトーンの浴衣。ただ、健康的な色の肌に、ハーフアップにしたエクステの入った明るめの髪、ネイルなんかの派手さ、それから臙脂えんじ混じりの帯で意外と合っている。


「涼しいと思ったらそのせいなのね」


 七虹香の隣に腰掛ける奥村さんは藍染のシックな浴衣を着ていた。飴色の帯が窮屈そうではあった。そして奥村さんにしては珍しく、一部三つ編みにして後ろでまとめて、薄紅色の玉かんざしを挿していた。


「……ああ、だからハエ?――が居たんだ」


 僕は少しだけ……三人を見ているのが恥ずかしくなり、池に目を逸らす。

 ちょうど左手奥から屋敷の表側に向かって池――というより水路なんだろうな――が続いている。涼しげに見えたのは、見た目だけじゃなく実際に冷たい空気が流れてきていたのだろう。


「こんなお屋敷なのに鯉を飼ってるわけじゃないんだ!」

「昔からこんなだったと思う」

「鯉は餌をたくさん食べるから、見栄えがする程たくさん飼うと水が汚れやすいって言うわね。琴音の所もよく池をさらってるわ」


「へぇ……」



「たーいちく~ん?」


「なに?」


「感想は?」


「えっと、とても綺麗だね、似合ってる」


「……ちょっと、太一! こっち向いて言いなさいよ! 普通に会話してんじゃないわよ」

「私、背が高いから……あんまり……」


 振り向くと、笑いながら怒る七虹香と、ちょっとうつむく奥村さん。


「いや、奥村さんもよく似合ってるよ」


「でしょ? 七虹香ちゃんと一緒に三つ編みにしたんだ」


「あまり奥村さんらしくないよね……じゃなくて、かわいいって意味で。ほら、奥村さん普段はカッコイイから……」


「かわいい……」

「太一! 奥村口説いてないであたし! あたしは!」


「七虹香はいつになく落ち着いていていいと思うぞ」


「いつになく……」


「ああいや――」


「そっかぁ、よかった」


 ――いや、いいのかよ。


「渚は……その……」


「ん?」


「髪を伸ばすと、まとめたときにうなじが……色っぽい」


「ん。太一くんのお望み通りだね。もっと伸ばすね。太一くんもカッコいいよ」


 渚の言う通り、夏休み前に僕は渚に髪を伸ばして欲しいと頼んでいた。渚は僕のその言葉をとても喜んでいた。今の渚の髪は後ろで余裕を持って括れるほどには伸びていた。普段、あまり見ることのないうなじがあらわになっていた。


「えっ、渚、どゆこと!? 太一、短いのが好きなんじゃなかったの?」

「太一くんは長いのも好きだよ。お母さんのことよく見てるし」

「いや、渚のお母さんは関係ないから……」

「瀬川くんは好きなのよね」


「ん、まあね」


 こつん――と額を寄せてくる渚。


 七虹香も、そして奥村さんも、僕と渚を祝福してくれてるのは知っている。二人とも、渚と僕、どちらも同じように好きなんだと思う。ただ、七虹香には友達以上のものは返せないし、奥村さんには何も返せない。彼女は渚と特に仲がいい。もしかすると今では鈴音ちゃん以上の絆があるのかもしれない。だから余計に悩んでいた。







--

 紅葉の根付いた、ポンプで岩清水が出る岩は昔あったうちの池にありまして、お気に入りでした。池は好きだったんですけど鯉は好きじゃないんですよね、水生生物何でも食べちゃうので。


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