第87話 文芸部にて 12
「ありがとな、瀬川」
最近、ときおり見せるようになった素直で柔らかい表情の彼女。
蝉の声も途絶えた昼の、五階の渡り廊下に呼び出された僕に、三村はそう言った。
もちろん僕の隣には渚が居た。
「――誘ってくれて嬉しかったよ。でもやっぱ瀬川の隣には渚が似合ってる。私の瀬川への気持ちはここまでにする」
「うん……わかった」
二日前、僕は三村を渚の田舎への旅行に誘った。三村の気持ちを知っていながらいつまでも半端な関係を続けるのはよくないと思ったから、その気持ちの整理をつけるために誘った。もしこの旅行で三村が気持ちをぶつけてくるなら、その時はその時だと渚と二人で話した。どうなるかなんてわからない。恋愛のルールなんて僕らには知ったことじゃない。ただ、二人にとって大切な友人となった三村の気持ちが、どこにも踏み出せず宙に浮いたままなのは気に入らなかった。
「こんな私だけど、ちゃんと前を向いて生きるよ」
「こんななんて言うなよ。三村は綺麗だし、まだ何も失ってなんかない。これからだろ」
「ああ。嬉しいよ」
じゃあ――と、屋内に戻って行った三村。すぐに姫野が駆け寄ってきて、やがて二人の泣く声が、閉まる戸の向こうから響いてきた。
「ありがとう、太一くん」
「僕は別に……」
「佳苗ちゃんに振られちゃったね。勿体なかったね」
「……渚はいったい、どうしたいの?」
「私もわかんない」
わかんないよな。結局、寄り添って大事にしてあげられるのは渚も僕も、ひとりだけなんだ。
◇◇◇◇◇
さて、今週が終われば僕らは夏休み。もうすでに夏休みを満喫してる気分になっているかもしれないが、まだまだ夏はこれからだ。渚もあと二回は海に行くと豪語している。そんなに海ばかりいっても仕方なくない?――って思うけど、本質が内向的な僕らは一度行った場所ならむしろ安心して何度でも足を運ぶ。
文芸部の集まりも夏休みの間は無い。無かったよね?…………あれ? 去年はもしかしてサボってただけ? たぶん無かったはず。まあ、勝手に集まるのは自由だろうけど。
とにかく、一学期最後の文芸部の集まりは、ここ、家庭科実習室。今日は使用許可を取って、園芸部との合同の小さな収穫祭だ。
文芸部の収穫物はもちろん部誌。一学期の皆の作品を詰め込んだオフセット印刷。今回も三村や七虹香、あと姫野の寄稿をお願いした。姫野はイラストではなく、詩を書いてきていた。正直、僕は女子の書く詩ってのはよくわかんなかったので評価が難しい。僕は書いたのかって? もちろん書いた。ただ、テンプレを外した作品はあんまりウケが良くなかった。かろうじて渚が僕の心の中が覗けるようで嬉しいと言ってくれるだけで、皆川さんにも呆れられる始末。正直、才能ないなと落ち込んだもんだ。
園芸部の収穫物は実のところ少し前から色々と貰っていた。中でもひと月ちょっと前に、採れたてのグリーンピースを少し分けてもらったのが格別だった。鞘の中の甘い汁と一緒に口に含むと、冷凍でよくあるグリーンピースのイメージががらりと変わったくらい甘くて柔らかくておいしかった。
今日持ち込まれたのはミニトマト。バジルと一緒に育てると虫が付かなくてよく育ち、オマケに料理でも相性がいい。この時期のバジルは花が咲く前だからえぐみが少なくておいしい。ただ、あまりにも良く育ちすぎて――。
「えっ、こんなにあるの!?」
渚が驚くのも無理はない。そこにはバケツにいっぱいのミニトマトがあった。
「ごめーん。これ、一年生に収穫の楽しみを味わってもらうのに作りやすいから毎年作ってるんだけど、大体いつも採れすぎて困るのよ。これ文芸部の皆で分けて」
「うちの部だけでこれ!?」
先週、部長を引き継いだらしい鶴田さん。彼女が言うには、甘めの品種にしたらサラダにはちょっと甘すぎて評判は微妙らしい。酸味が少なすぎるから普通のトマト料理にもちょっと向かないとか。
「ここ、鉄かアルミのフライパンあったっけ?」
「探してみよっか。他に何か要る?」
「オリーブオイルとか? あとパスタにからめてみる?」
「太一、オリーブオイルなら冷蔵庫に入ってるよ。パスタもあったんじゃないかな」
「あっ、鈴代さん。たぶん古い調理器具の方にある。最近は全部テフロンだから」
そう言って手伝ってくれるのは祐里と滝川さん。いつものお菓子のお礼に呼んだ。家庭科室の勝手もわかってるしね。
「瀬川くん、ニンニクも入れる? 倉庫に干してあるよ」
ニヤリと笑う鶴田さんは、女子会でのニンニクパーティを夏休みに企んでいるらしい。顔見知りになった彼女は最近、僕に対してずいぶん砕けてきた。
「そうだね、お願いします。あとバジルもあるんでしたっけ?」
「あるある! じゃあ一年はみんなアーティチョーク茹でてね。茹で加減は三年の先輩たちに聞いて。レモンは持って来てあるから」
「えっと、ミニトマトをフライパンに乗るだけ全部、ヘタを取って半分に切ってくれる? フライパンにざっと並べて、半分にして二枚のフライパンに分ける感じで」
「瀬川、切るのはいいけど油も引かずに並べるの?」
「そう、皮を下にしてフライパンに並べて焼いて焦がす」
早速、慣れた手つきでミニトマトを切り始めてくれる鈴音ちゃん。その鈴音ちゃんの隣には園芸部の小川くんが居て並べるのを手伝う。
「瀬川、私も手伝う! 今日は御呼ばれに参りましたので!」
そう言って手を挙げたのは星川さん。並べてくれるのは大村くん。他にも文芸部の二年の皆で手分けして小さなトマトを半分に切り、フライパンに綺麗に並べていった。
「思ったより大変だね、これ」
「相馬たちが手伝ってくれるから楽だよ。あとニンニクをスライスしておいて」
他に部外参加の七虹香と三村、姫野には部の一年生と共に部誌の方を任せてあり、園芸部の女子たちとも仲良くやっていた。園芸部の女の子たちはまた、ご飯を炊いてくれていた。
「――じゃあこれ、塩を振って蓋をしてトロ火にかけて放置」
「そのまま?」――と鶴田さん。
「そのまま」
「焦げない?」
「トマトは焦げても大丈夫、たぶん」
「やったことあるの?」
「ん……まあ……ね」
――あの時はちょっといろいろ
アーティチョークの方も結構時間がかかるようだし、しばらくそのまま。
みんなはミニトマトの味見をしたり、部誌を読んだりしてるけど、僕はフライパンの番。
「どう? いけそう?」
渚が顔を覗き込んでくる。
「まだもうちょっとかな」
蓋を少し開けてみると、トマトから出た水分が湯気になって満ちていた。
トマトの皮は縮んで黒く焦げ始めていた。
「わっ、大丈夫? 焦げてないこれ」――と覗きに来た星川さん。
「大丈夫だよ……たぶん」
ミニトマトの水分が十分飛んで、ちょっとドライトマト風になったところで蓋を開ける。それからパスタを茹で始めてもらう。
「部誌は近づけないでね。油が飛ぶから」
フライパンの上からたっぷりのオリーブオイルを掛け、ニンニクをトマトの間に落としていく。やがて、さらに水分の飛んだトマトはオイルの中でピチピチと熱せられてドライトマトのアヒージョっぽくなる。最後にミニトマトをフライパンからこそぎ落として塩で味を調整してソースの完成。
「あとは茹でたパスタと、ついでにバジルも一緒に混ぜればオイルベースのミニトマトパスタの完成。甘いミニトマトが大量にあるならサラダより消費できると思う」
少々焦げていたから疑いの眼差しもあったが、パスタを茹でて茹で汁をソースに少し混ぜ、絡めていくと甘いトマトの香りがした。それぞれ小皿に取って試食すると、みんな驚きの声を上げる。
「甘いのが逆においしい!?」
「これおいしい!」
「酸味が全然無くて扱い辛かったけどこれならいけるわね」
「瀬川クン、これすごくおいしい」
「皮が焦げてるけど思ったより気にならない」
「まあ、僕らが作ってるトマトソースは割と焦がすよ」
「これならミニトマトたくさん使えてちゃんと料理になるね」
「並べるの大変ですけどね」
「今度家でやってみよ」
「いっぱい余るんだよね、ミニトマト」
「フライパンだけは気をつけてね」
園芸部のみんなにも好評なようだった。
「えっ、太一、あたしの分は!?」
「今度作ってやるから我慢しろ」
「七虹香、私のトマト一個やるよ」
「あ~ん」
そしてようやく茹で上がったアーティチョーク。家庭科室はあまりエアコンを利かせてないのもあって湯気が上がって暑い。炊き上げたお米ではまた、それぞれがおにぎりを握った。
「これが渚の言ってたあざみ!?」
「そうだよ」
「でっかいな」
「これどこを食べるの?」
「がくを一枚ずつ剥がして食べるの」
「小さいけど一応、一人一個ずつくらいある?」
「去年より蕾が小さいけど、数は多かったのよねー」
「あっ、ときどき縁の方に虫が入ってることもあるから気をつけてね」
「ひっ……虫ですか!?」
「大丈夫大丈夫、うちの部の子はみんな慣れたし取って貰いな」
「よーし、マヨネーズは持ったかー」
「「「おー!」」」
小皿にマヨネーズを出すと、つぼみからがくを剥がして根元につけ、歯でこそぎ取るようにして食べる。
「あれ? 去年ほどアクが強くない?」
「ん~、去年ほどじゃないかも?」
渚と同じような感想が。
「どうかな? ちょっと舌が慣れた?」
鶴田さんも似たような意見。
七虹香は食べるところが少ないと文句を言っている。他の皆はマズくはないけれど、ちょっと甘いねというくらいで特別どうという反応はない。園芸部の二年三年は初めて食べる皆の様子を伺っている。すると――。
「なにこれ、水、
一年の誰かが言う。おにぎりの他にもミネラルウォータを用意してあった。
「ほんとだ、甘い。なにこれ」
「水が甘い!」
「おにぎりが砂糖が入ってるみたいに甘い! 噛むほど甘くなる!」
「てか、何も食べてないのに口の中が甘い……」
アーティチョークを食べ進めていくにつれ、初めて食べる皆からの声が広がっていく。
僕も渚が握ってくれたおにぎりを頬張ると、甘さが口の中に広がる。
「はいじゃあカップルの皆さん! ぜひ試食後のキスの感想を!」
立ち上がってそう言った鶴田さん。そう、何故ここに卓球部の星川さんと大村くんが居るのかというと、ぜひこの試食会に参加したいと頼んできたからだ。主に渚の小説を読んだ星川さんが。鈴音ちゃんが居るのも同じ理由。最初は断ってたらしいけれど、結局やってきた。
まあもちろん、いざそんな風に言われてもキスを始められるほどみんな心臓に毛が生えていない。
「とーぜん、一番手は廊下でキスしちゃうような熱々カップルに決まってるよね!」
「太一! やったれー!」
「あん時よりも観客少ないよな」
成見さんが言うと、七虹香たちが煽る。
「いや、やれって言われてできるわけないだろ……」
渚も
「――とりあえず隣の準備室を借ります……」
――と、渚の手を取って立ち上がり、隣の部屋へ行く。
後ろからは――ヘタレ! ヘタレ!――とコールが。
◇◇◇◇◇
隣の部屋に入って引き戸を閉めると、途端に渚が抱き着いてきた。
色が移らないよう、彼女は今日、色なしのリップをしていた。
渚の唇の向こう側は溢れんばかりの唾液で満たされていた。甘い、文字通り甘い口づけ。いつもなら唇や舌、口蓋を舐め合うようなキスが、今日に限ってはお互いの唾液を求め、舌で
「渚…………そろそろ戻らないと…………」
そう言っても渚は離してくれず、逆に腕は僕の首に回り、脚も絡めてきた。
仕方がないので渚の絡まった脚を引き摺るようにして引き戸まで辿り着くと、スッ――と渚は何事も無かったかのように離れる。
◇◇◇◇◇
「どうだった?」――と七虹香。
「えっ、甘かったです」
「中学生か!」
笑いが起こるがそんなことを言われてもな。
「太一くんの中から甘ぁいお
「ちょちょ! 渚!」
慌てて渚の口を塞ぐ。
「――文章で提出でもいいよね……」
半ば恍惚としている渚にそのまま喋らせると何を口走るかわからないので鶴田さんにアンケート用紙での提出をお願いした。樋口先輩をはじめ、三年の先輩たちも呆れていた。
◇◇◇◇◇
隣の部屋に行ったノノちゃんと相馬が出てくるのは早かった。
ただ、渚の後だったからかノノちゃんは相馬を引っ張るようにして隣に行ったし、戻ってきて満足そうなのはノノちゃんだった。冷やかしと共に戻って来た相馬は色白の顔を真っ赤にしていた。
「瀬川の時は煽ったけど、いざ自分がその立場になると恥ずかしいね」
「だろ?」
「甘かった」
「でしょ! でもたぶんこれ、初めての時がいちばん甘いと思う。今日は前ほどじゃなかった」
「えっ、そうなの!? 慣れちゃうのかな?」
「マジで!?」
ノノちゃんへの渚の言葉に驚く鶴田さんを始めとした面々。焦る七虹香。
「太一っ! 私と
「やるわけないだろ!」
「えっ、一生に一度の機会なのに!?」
「七虹香の一生に一度に付き合ってたら身を滅ぼす!」
「んじゃあ……かなたん
「ヤだよ」
「いいじゃん、前に一回やったじゃん!」
「ああっ、あれは気の迷いで!」
やったのかこいつら……って空気に。
「あれ? 鈴音ちゃんは」
見るとさっきまで鈴音ちゃんが居た席が空いていた。隣の小川くんの席も。
どこに行ったんだろうと話していると、家庭科室の出入り口の戸がスッと開いて鈴音ちゃんが戻ってきて何事も無かったかのように座る。
「小川君は?」
「さあ? トイレじゃないかしら」
答えた鈴音ちゃんをじっと見る渚。鈴音ちゃんは渚の視線から目を逸らす。
渚の問い詰めるような視線に目を逸らしたままの鈴音ちゃん。
「…………甘かった?」
「…………」
「感想書こうね。食べたんだから」
「………………」
渚は文芸部・園芸部合同のアンケート用紙を鈴音ちゃんに渡していた。
さて、残りのカップルはというと……。
「祐里は……滝川さんと?」
「僕が? まさか、そんなつもりは無いよ。ね」
「鈴木くんとはそういうのじゃないよ? 女子の友達みたいで気楽なのは本当だけど」
「じゃあ山咲さんが言ってたみたいに曽我さん?」
「曽我さんは違うよ」
「うん、曽我さんは糸井君と別れてからは宇山くんと付き合ってるよ」
「えっ、そうなんだ」
A組のカップル事情についてはどうもよくわかってなかった。
「で? 委員長はいつになったら出てくんの?」
「七虹香……そういうの言ってやんなよ……」
どうも、今隣の部屋に入っているのは委員長――じゃなくて星川さんたちみたいだった。入ってから結構経つらしい。七虹香は三村が止めるのも聞かずに戸口まで行き――。
「委員長ー、学校でエッチしたら停学よ――」
そう声をかけると、すぐに星川さんが出てきた。
「そんな内申に響くようなことする訳ないじゃない」
ただ、星川さんは上気していて、後ろから出てくる大村くんは放心している上に服が乱れていて――なんというか事後だ。
「で? どうだった!?」
「んんっ、そうね。甘かった」
「中学生か!!」
みんな笑うけれど他に言いようが無いんだよ。だって恋人とのキスだよ? そんな詳細に感想を述べられるわけないじゃないか、渚じゃあるまいし。
その後、姫野が渚をキスに誘おうとしていたけれど、僕が断固拒否しておいた。
--
新たなる伝説が!
文章、とっちらかっておりますが、人が多いのですみません。
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