第82話 再び渚にて 1

「すずな、すずしろー」


 昼の休み時間、弁当を食べた後に二人で五階の渡り廊下へやってきていた。

 クーラーで冷えた体を手摺にもたれ掛かって温めていた渚がそんなことを呟く。


「なに?」

「太一くんの必殺のジョーク」


 ふふっ、なにそれ――そう言って僕が笑うと渚も微笑む。


「鈴音ちゃんと私の間に入ってきたんだよ、あれで」

「僕が?」


「そうだよ?」


 渚は悪戯っぽく笑いながら言った。

 何気なく呟いた言葉が、鈴音ちゃんと渚の心を緩ませていたらしい。あの頃は新しい家での生活と、入学から卒業までを初めて共に過ごせる同級生たちに期待で胸を膨らませていた。だから鈴音ちゃんが自己紹介した時、そんな言葉を呟けたのかもしれない。


「そういえばさ、ずっと気になってたんだけど満華さんが言ってた渚の恋人って誰のこと?」

「あ、う~ん、そういえばそんな話もあったね……すっかり忘れてた」


 去年聞いた時は隠したくていたけれど、今日はどちらかというと渚はそこまで関心が無くてる様子。


「教えてよ、気になるんだから」

「気にするようなことじゃないんだけど……中学の頃遊んでたスマホのゲームのキャラクター。なんか太一くんによく似ていたの」


 そう渚に言われてもあまりピンとこない。イラストなんかにどう似ているんだろう。


「へえ……」

「太一くんに初めて会ったときは、推しキャラだ!――って思ったんだけど、今よく考えると全然似てなかったかも」


「僕はそんな見た目カッコよくないよ」

「ううん、太一くんの方が絶対カッコイイ!」


 それでも満華さんが揶揄うくらいにはのめり込んでいたのだろう。


「それが初恋だったの?」

「ううん、違うよ。初恋は間違いなく太一くん。太一くんが私に恋を教えてくれたんだ」


 んん?――考え込んでしまった。僕に恋した――じゃなくて恋を教えたってどういうこと?


「――そろそろ戻ろっか。天気よくて気持ちいいけどちょっと暑すぎるね」


 そう言って腕を絡めてくる渚。

 七月ももうすぐ半ば。急に気温が上がってきたこともあって渡り廊下はのんびりとベンチで弁当を食べられる場所じゃなくなっていた。風も凪いだ時間帯には人も少ない。去年の渚なら、こんな場所に三分と居られなかっただろうな。



 ◇◇◇◇◇



「おっ太一、戻ってきたな。いま話してたんだが海に行かないか。日曜とかどうだ?」


 教室に戻ってくると田代に呼び止められる。田代の所には目立つ感じの女の子が来ていて、相馬やノノちゃん、山崎も居る。


「日曜はちょっと先約があるかなあ。場所は?」


「海浜公園のとこの海水浴場だな。いちばん近いし」

「それなら大丈夫じゃない?」――と渚。


「そうだね、わかった。で、メンバーは?」

「俺とC組の小鳥遊さん――」

「C組の小鳥遊唯です。初めまして」――その女の子が僕らにお辞儀する。


「――それから相馬とノノちゃん。あと光は――」

「俺は渡辺さんの試合の応援」


「――つうわけで、俺たち三組でトリプルデートだ」


 なるほど、田代と相馬の従妹は上手く行ってるんだな。田代からの恋人宣言はまだ耳にしていないが、彼女も田代にデートだと言われても特に気にした様子はない。


「唯の友達はいいの? 遊びに行くときはいつも連れ立ってるって言ってたけど」

「う~ん、ちょっとあってね。最近は彩音や日向との方が仲がいいくらい。彩音は部活で日向は黒葛川君と約束があるって――あっ、そろそろ私、戻らないと!」


 話の途中で小鳥遊さんは声色を変え、そそくさと教室から出て行った。まだ休み時間が終わるには余裕がある。


「あら、田代君たち、集まって何の相談?」


 入れ替わるように教室に戻って来たのは新崎さんたち。


「くくっ、なぁに、日曜に海でデートの話さー」――田代がカッコつけて言う。

「そう。羨ましいことね」――と別に羨ましそうでもない新崎さん。


「いやもっと驚けよ! ビッグニュースだろ!?」

「別に田代君に彼女ができたからって驚かないわよ?」


「えっ、そうなの? 俺って意外とイケてる?」

「田代君をいいと言ってくれる彼女がひとり居るならそれで充分でしょ?」


「むむ…………それはそうだな」

「誰しも魅力はそれぞれで、それぞれの恋がある。そこに口出しするほど無粋じゃないわ」


「新崎お前、意外といいやつなんだな……」


 ふふっ――と笑ってその場を去る新崎さん。続く山咲さんはクスクスと笑いを抑えきれていない。


 ――いいやつかなあ。絶対そうは思えないんだけれど。



 ◇◇◇◇◇



 土曜日、渚の家を訪れる。渚が出迎えてくれると、彼女は見覚えのある服を着ていた。


「懐かしいね、その服」

「覚えていてくれた? これ、選ぶのにすっごく悩んで買った服だったんだ」


 忘れもしない、あの三回目のデートの時に着ていた服。それまではもう少し大人しい、いくらか幼さの残る感じのワンピースだったのに、あの日はちょっと大人っぽいキャミソールワンピース。触れると生地がびっくりするくらい薄い、そして初めて脱がせた彼女の服。あれ以来、渚は好んでキャミワンピのコーデを選ぶようになった。


「あのときはすごくドキドキしてた」

「知ってるっ。太一くんも今日はちゃんと他の色にしてくれたんだ。夏っぽくていいよ」


 他の色――というのは、僕が面倒くさがって白か黒か青しか着ないので、たまには他の色か柄物でも着てみたらと渚がよく言っていたのだ。祐里に相談して買った七分丈のパンツなんて初めて穿いたし、同じく七分丈のシャツも、オフホワイトの淡いストライプであっても僕には冒険だった。


「そうかな。――渚は前よりもっと似合うようになったね」

「ありがと! 太一くんは何を着ても似合うからもっと色々着てね」


 上がって――と渚が促す先、ダイニングの方からは話し声が。



「いらっしゃい。もうできあがるから、ちょっと待ってね」

「こんにちは。太一くん、久しぶりね」


 渚のお母さんと話していたのは董香とうかさん。渚のお母さんの


「こんにちは、お久しぶりです。去年はお世話になりました」


 また皆で一緒に遊びに来てね――そう言ってくれる董香さんは身内の温泉旅館で働いている。飛倉の家とはほとんど縁がないけれど、渚のお母さんの汐莉さんとは仲がよくて先日のGWでも、僕らが近くのキャンプ場でアルバイトをしてる間に汐莉さんは旅館へ泊まりに行っていた。


 今回は例の芸能事務所から渚がもぎ取った、リゾートホテルの宿泊券がペア向けだったものだから汐莉さんが誘ったのだ。


「お母さんたら、お弁当作ってくって聞かないの」

「だって、お昼はこっち持ちなんだから勿体ないじゃない」


「汐莉もせっかくだから若い男でも捕まえてくればいいのにね。太一くんの胃袋を掴んでも仕方が無いでしょうに」

「お母さん、そういうつもり!?」


「僕は渚の家の味が楽しめて嬉しいよ」

「太一くん!?」


 うちの家は母が忙しいため弁当は冷凍食品が多いのもあるし、親戚から野菜が集まってくるという渚の家の手作りの料理はいつも楽しみだった。もちろん渚の手料理でもそれは変わらないし、むしろそれ以上に楽しみだった。


「渚も早く起きて作ればよかっただけじゃないの。今日は走るのも忘れて寝てたでしょ?」

「そうなんだ? だから朝、メッセージが来なかったんだ」


「今日、太一くんと海だと思ったら、ちょっと眠れなくて……」

「そんなに楽しみにしてくれてたんだね」

「渚ちゃんは太一くんにぞっこんなのね。あっ、そう言えば婚約したんだっけ。おめでとう」


「えっ、いやあれはその、婚約とかじゃなくて……」

「ええっ、違うの太一くん!?」


「いや、違わないけどさ。婚約ってもっとちゃんとした場が必要でしょ? 立会人とかも要るって聞いたし」

「飛倉の御当主の前でお婿さんとして紹介したのだから十分立会にはなってるわね」

「じゃあ大丈夫だね!」

「渚! 董香も太一くんをあまり追い詰めないであげて」


 渚の親戚周りにはそういう話で知られているみたいだった……。



 ◇◇◇◇◇



 チェックインが午後からのため、朝から出かけると流石に部屋の準備はまだだった。荷物だけホテルに預け、ホテルで用意された更衣室を借りて着替え、僕らは海へ。


 海浜公園に隣接するリゾートホテル。ホテルの前には砂浜の海岸が広がる。右手に行くと干潮時に現れる砂州があって岩礁みたいな小さな島まで歩ける。左手は少し離れてるけど歩くと岩場と高台がある。


 ホテルでビーチパラソルの貸し出しをやっていたので、パラソルを立ててもらい荷物を降ろす。


「ついに太一くんと一緒に夏の海だよ!!」


 両手を胸の前でぎゅっとひとつに握りしめ、めちゃくちゃハイテンションな渚。

 ラッシュガードのジッパーを下して脱ぎ捨てると彼女は僕の手を取る。


「行こ! 太一くん!」


 あれから一年。肉体的にも強く成長した文学少女は、照りつける太陽の下でだることもなく、砂浜を走ってもへたばることなく、しおの匂いの満ちる渚へと駆け込んだのだった。







--

 おしまい――ではありません! まだまだ海は続きます。


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