第83話 再び渚にて 2

「うわっ、――結構怖いね――足が着かないって」


 波に邪魔されながら渚にそう話した。なまじ背が高いだけにプールなんかではほぼ足が着くので気にしたこともなかったけれど、底に足がつかないって思ったより恐いものだった。


「力を抜いたらプールよりも浮くから。潜る方が大変なくらい」

「そうだよね」


 ――と頭では分かっているものの、プールとは違って押し寄せるゆっくりとした波で体が上下していると、不安になって体も強張り、身長と同じか少し深いくらいの水底を何度も蹴ってしまう。


「大丈夫だよ」


 渚はそう言うと僕の後ろに泳いで周り、背中にくっついた。


「――こっちにもたれかかってみて」

「渚が沈んじゃわない?」


「大丈夫、――少し進むだけで浮くし――私の方が浮くから」


 なるほど、もたれ掛かるとちょうど僕の後頭部の上あたりに大きな浮きがある。――いや実際にそこまで浮くものなのかはわからないが、本人が言うには浮くというのだから間違いないだろうし、何にせよ、この空間は僕にとっては最高だった。


「海に浮いてると――ひとり取り残されてる気分がする」

「大丈夫だよ――私が居るから」


 頭のほとんどが水の中なこともあって、ごとんごとんと水中の音もうるさく、声も聞き取り辛かったが、たぶんそんな会話をしていた。


「うん。――あと海って暗くてよく見えないから――巨大生物が下から襲ってきそう」

「太一くんは――想像力豊かだよね。――豊か過ぎるくらい」



「渚はどうしてそんなに――泳ぎが得意なの?」


 ほとんど外を出歩かない彼女。それが意外にも泳ぎは得意だ。


「お父さんが――小さい頃から熱心に――教えてくれていた気がする」

「そうなんだ。――もしかして水路によく――落ちてたから?」


「そうなのかも……」


 そうやってしばらく浮いていた僕たち。やがて僕もリラックスできて普通に泳いだり、浮いて休んだりできるようになった。頭を沈めれば体は勝手に浮くというのも何となく分かった。



 ◇◇◇◇◇



「ずいぶん遠くまで行ってたわね。大丈夫だった? 疲れてない?」


 渚のお母さんが少し心配そう。二人はビーチチェアに身体を預けて、のんびり僕らを眺めていたみたい。


「大丈夫。お母さんは心配し過ぎ」


 渚は買ってきた海色のソーダを飲みながらシートに腰を下ろす。


「心配もするわよ。今までこんな暑い日には部屋から一歩も外に出なかったでしょ?」

「去年は太一くんちに行ってたもん……」


「太一くんの家でも、家の中でずっと居るみたいだって聞いてたわよ」


 やっぱり筒抜けだった上に僕の母にも思った以上に詳しく把握されてたみたい。

 あの頃は僕の家でのデートがほとんどだった。うちにやってくる渚と時には顔を合わせていた母も、まさか外にも出かけずそんな事ばかりしてるなんて思ってなかったはず――そう思っていたが、そうではなかったようだ。


「あらあらぁ、そんなに仲が良かったのね。どおりで渚ちゃんが大胆な恰好をしてると思ったし、太一くんも慣れてる感じでびっくりしてた」


 うふふ――と笑う董香さん。


「董香もあまり揶揄わないであげてね」

「汐莉だって高校卒業したらほとんどすぐに結婚しちゃったでしょ? 庇いたくもなるわね、同じだったんじゃないの?」

「そうなの!?」


「私は家の繋がりで結婚させられそうになったから早かっただけよ」

「やまさきのお坊ちゃんでしょ? ひと回り近くだか上の」


 山咲やまさき??


「うちのクラスに山咲さんって居るよ?」

「あらそうなの? 実家はこっちの方だし、向こうも結局は同じ頃に別の人と結婚したから、ならその子のお父さんかもね」

「たぶんそう……」


 渚は山咲さん苦手だけど因縁の相手だったか。

 その後、僕らが休憩している間に二人は波打ち際まで行って波と戯れていた。二人とも他の海水浴客に何度か声を掛けられたりしていた。


「太一くん、お母さんばっかり見てる」

「えっ、いや、そうじゃなくて――」


「お母さんが水着になってるから目が離せないんでしょ!」

「声掛けられまくってるから大丈夫かなって……」


 確かに渚のお母さんは普段から鍛えてることもあってか年を感じさせないほどに身体が引き締まっているし、水着姿はよく考えてみたら眩しすぎる。


「私が声掛けられてもいいんだ?」

「渚は大丈夫でしょ。僕が居るから」


 きょとんとする渚。何かおかしなことを言っただろうか……。


「そうだね……うん、許してあげる」


 何故かニマニマしてそう言った渚。


「――けど、そのにサンオイル塗ってね」


 何の印だかわからないが、そう言ってシートに寝そべる渚。


「いや、さっき自分で塗ったって言ってたでしょ……」

「泳いで落ちたもん。焼くの初めてなんだから、ちゃんと塗っておかないと焼け過ぎちゃうでしょ」


「ええ……そういうもんなの?」


 渚の言葉なので信用できない。そもそも去年は日焼けしたくないと、日焼け対策だけはしっかりしていた。それが今年になって綺麗に焼いてみたいと言い始め、先日許可した。いったい誰の入れ知恵なのだろうか……。


「ほら、早く~」


 脚をバタバタさせて急かす。しかたなくサンオイルを手に取り背中へ塗り始めた。

 ムフ――と満足げな渚だが、こっちは通りがかる海水浴客の視線が痛い。


「脇の方も塗ってね」


 脇腹くらい自分で塗れるのに――と思いながらもオイルを回す。そういえば去年は渚の脇腹に触るとものすごく、くすぐったがっていたんだけど最近は全くそんなことがないな。僕は今でも触られるとくすぐったいのに、慣れとは恐ろしいものだ。


「その辺もちゃんと塗ってね」


 その辺――渚の言う腋の下の肉は脇腹なんだろうか、それとも胸なんだろうか。背中の方まではさすがに胸じゃないよね。いずれにしてもこの場でビキニの紐の隙間に手を滑り込ませて塗るのは滅茶苦茶恥ずかしい……。


「脚の方も~」

「ええ……さすがに自分で塗れるでしょ……」


「やだー」

「やだって言われても……」


「おぉう、少年、凄いことしてるね!」


 渚の太腿に手を滑らせ始めたところで、突然の知らない声に驚く。

 僕たちが慌てて振り向くと、渚のお母さんたちと一緒に二人の女性。


「あえっと……」

「忘れた? ショック! 同じ窯の飯を食べたのに!」

「それを言うならせめて、ひとつ屋根の下で寝た――でしょ」


 いや、それもおかしいけど……。

 声を掛けてきたちょっとメイクが派手めな二人。


「旅館に来てくれたとき、太一くんたちの部屋で匿って貰った二人、覚えてない? あれから連絡先交換して何度かうちに来てくれてたのよ。こっちに来るって言ったら遊びに来るって言ってね」

「あ、大学生のサークルの?」

「あのときの……」

「あのサークルはすぐやめちゃった。董香さんとは、お詫びにって旅館に招待してくれて、それから仲良くなったんだよね」

「しかし少年も大人になったか。あの頃はお互い、触れるのも憚られるほど純情そうだったのに」


 はは――とごまかしておいた。あの頃は人目が気になって仕方がなかっただけなんだけど。


「あっ、そういえば渚ちゃん? この前、雑誌に出てたでしょ。大学の友達の間でも話題になってたよ」

「そうそ。もしかしてって思ってたんだけど、さっき汐莉さんに聞いてやっぱりって」

「あー、あれですか……」


「やめとけって言ったのに、一人、渚ちゃんの事を見に行ったやつが居てね」

「ええっ?」

「そうなのよ、匿名掲示板で最寄り駅まで晒されてたらしいの」


「したらそのバカ、女の子に脅されてすごすご逃げ帰ってきたんだって!」

は見ているぞ――って脅されたって。そいつの他にも脅された人がいたらしいよ。知ってた?」

「いや、知りませんけど……。――だれだろう?」

「わかんない。百合ちゃんや佳苗ちゃんじゃないと思う。教えてくれると思うから」


「姫野は?」

「朋美ちゃんはバスだから普段、駅の方には来ないと思うけど……」


 そんなことがあったなんて思うとちょっと怖いな。もっと注意しないと。


「怖いわね。渚ちゃんも気をつけてね」

「そういうのも学校の方で相談に乗ってくれるらしいから、今度聞いてみましょ」


 渚が芸能界へ進むと聞いた時から渚のお母さんは色々調べてくれていたらしい。あの頃は僕がハッキリしなかったから色々と迷惑をかけた。


「それにしても渚ちゃん、脱ぐと凄かったのね。羨ましい……」

「私は浴衣の時から気づいてたわよ。この娘、ただもんじゃないって!」

「えっと、その……」


「少年、よかったなぁ、こんなかわいい彼女を独り占めできて!」

「言えてるわね。絶対、タレントとかになれる素材だもの」

「タレントなんかにはさせませんよ、絶対に」


 えへへ――と指を絡めてくる渚。二人も呆れてた。


 その後は汐莉さんの作ってくれた弁当を食べ、昼からは大学生の二人も混じってビーチボールで遊んだり、汐莉さんがキレッキレの砂上レシーブを披露して皆を驚かせたり、何度もナンパで声を掛けられたり、また海で泳いだりして過ごした。



 ◇◇◇◇◇



 明日もあるので少し早めに切り上げてチェックインを済ませるためフロントへ。

 ただ、渚とお母さんがホテルの人に誘われてロビーのテーブルへ。僕と董香さんは何事かと話しながら待っていると、渚たちが割と早くに戻ってきた。


「この前のことで謝られた。ホテルが悪いわけじゃないのにね」

「そうね。でも、ホテル側のプロモーションに渚を使いたいって話自体はあったみたいなの。それを利用されたのね」


「というわけで、スイートルーム奢って貰っちゃった!」

「ひと部屋、キャンセルが出たから丁度良かったって」

「この時期だからキャンセル出ても売れるんじゃないのかしら? 太っ腹よね」


「太一くんと私はスイートね!」

「僕らが使っちゃっていいんですか?」

「お母さん公認なんだから遠慮せずに使っちゃえ」

「デザートは今からそっちの部屋に用意してくれるって言ってたから、お邪魔させてね」


 そう言って荷物だけ部屋に置いてきた二人。連れ立って最上階のスイートへ。広めの応接間のテーブルには果物が置いてあった。


「えっ、すごい。これ食べていいの?」

「青りんごとか西洋梨とかマスカットをウェルカムフルーツでポンと出されると非日常感あるわよね。私も泊って勉強させてもらってもいいかな?」

「董香?」


 渚もあからさまに嫌そうな顔をしている。


「冗談よ、冗談」

「では、デザートをお持ちしますね」――とホテルの人。

「えっ、これじゃないんですか?」


 渚が驚くけど、こっちは部屋とセットのサービスで、今から持ってきてくれるのはまた別だそうだ。待っているとワゴンが持ち込まれ、その場で焼かれたクレープにアイスクリームを載せ、ラズベリーのソースはフランベまで披露してくれた。すごく高そうなデザートだったけど、董香さんが言うには海外では新婚さん相手だとこういうパフォーマンスも珍しくないらしい。


「きれい……」――と、うっとりする渚にレストランのシェフも満足そう。


 クレープをナイフとフォークでなんか普段は食べなくて新鮮だし、ラズベリーの酸味とアイスクリームの甘味、お酒の香りと香ばしい生地の香り、熱いのと冷たいの、いろいろ混ざりあってめちゃくちゃおいしかった。


「おいしい……」――渚も満足していた。


 シェフたちが引き上げて行ったあと、早速ふたりで同じものを作れないかと相談し合った。


「これ作るつもりなの?」――と董香さん。


「クレープは前にやりましたよ」

「フランベはお肉のときにやってるけど、お酒はやっぱり高いの使ってるよね」


「アイスクリームも全然違うね。バニラも粒が入ってるし」

「そこはそれだから仕方ないとして、安くても楽しめるならいいかも」


「アイスクリーム作ってみようか?」

「アイスクリームだけ専門のお店で買ってきたら?」


「そうだね。その方が手軽か」


 また今度やってみよう――という話になった。董香さんは呆れていたが汐莉さんは――。


「二人が料理好きだから私も助かってるのよ。片付けまでちゃんとやってくれるから」


 そう言ってくれることが嬉しかった。正直、母親同士が話し合ってるとは言え、渚の家に上がり込んで好き放題してる部分もあったわけで、渚のお母さんが受け入れてくれていることが何より嬉しかった。







--

 料理脳の人ってこんな感じですよねw

 水族館のあのカップルも登場させようかと思ったんですけど、渚と汐莉さんの圧が強すぎて出しても何も言えなさそうで……。

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