第68話 体育祭に臨む憂鬱
「えっ、渚がいない!?」
靴の泥を外の水道で落としていると、鈴音ちゃんがやってきた。
彼女は渚が教室に戻ってこないと伝えてきた。
「そう、みんな見てないって言うのよ」
周りには同じく水道で泥を落としていた男子が何人もいたけれど、皆、急な雨の中、片づけを行っていたから渚を見かけたと言う者はいなかった。親しい女子の何人かが探してくれてるって言うけれど――。
「ごめん、ちょっと僕も探してくるわ」
「俺も行くよ」
「相馬、ノノちゃんが結構濡れたらしくて寒そうにしてたわよ」
「相馬、こっちはいいから戻ってあげな」
◇◇◇◇◇
鈴音ちゃんに傘を借り、更衣室からスマホだけ回収して雨の中、運動場の方を回っていた。
道具は体育教員室の北側の屋外用具室か、体育館の方へ運んでいたから渚が手伝ってたならその辺だろうけれど、屋外用具室の方には、ついさっきまで僕らが居たからそちらでは無いはず。
体育館前に運ばれていた道具は既に全部片づけられていた。時折、渚を呼ぶも、雨音が激しくてどこまで届いているかわからない。体育館の裏側、テニスコートの方に回ろうとしたところに通知が。
『保健室には来てないって』
『プールの周りには居ない』
『南の部室棟の方に声をかけて回ってる』
渚の友達、特に必死に駆けずり回ってるらしい姫野や三村からのコミュニティへのメッセージが来ていた。
『テニスコートの方を見てくる』
『体育館は?』
『いま体育館前』
『私もさっき通ったよ』
『中は?』
『まだだった。見てくる』
やり取りをしていると音がして、振り返るとテニスボールが跳ねていくのが見えた。
さらに高い所の採光用の窓から、さっきまでは無かったはずの国旗の付いたロープが垂れ下がっているのに気が付く。
「渚!」
すぐに彼女を呼びながら窓の傍に。
「太一くん!」
「渚!」
窓の傍まで行くと渚の声が聞こえた!
「太一くん、用具室! 中からだと鍵が開かないの!」
「わかった」
体育館の中に入ると、入り口には確かに渚の物らしき運動靴が。
しっかり確認しておけばよかったと後悔しつつも用具室に向かうと、ドアには鍵が差し込まれたままだった。すぐに錠を開けると、中には渚の他にあの祐希くん――柏木が居た。
「太一くん、ありがとぉ。よかったぁ」
一瞬、眉をひそめた僕だったけれど、抱き着いてきた渚の冷えた体が愛おしくて、それだけで胸が一杯だった。
僕らが抱き合っている横を、柏木がすり抜けてくる。渚は慌てて体を離した。
柏木はスライドドアをガシャンと閉めると、鍵をかけて抜いた。
「あっ……」
「僕、実行委員だから。鍵、預かってるんだ」
渚が何か声を掛けようと戸惑っていたところを、柏木はさっさと立ち去って行った。
「何があったの?」
「う~ん、ひと言で説明するには難しいかも……」
何にせよ、渚の落ち着きぶりから心配したようなことは無かったみたい。
再び抱き着いてきた渚は――あったかぁい――なんて言ってたけど、とにかく渚の背に回したスマホでコミュニティに連絡を取っておいた。
◇◇◇◇◇
風邪ひいたらお泊り無しになるよ――と脅したところ、やっと渚は離れてくれた。
二人とも更衣室で着替えて教室へ戻る。
「二人とも、どこへシケこんでたのかなぁ?」
七虹香がアホなことを言ってくる。とりあえず、アホの子は無視して――。
「大村、体育館の用具室、内側の錠が壊れてて中から開けられなくなってる。渚、閉じ込められてたんだ」
「マジで? わかった、生徒会に言っとく」
「清子先生の方がいいだろ、俺が言っておくわ」
「田代は西園寺先生に会いに行きたいだけでしょ」
「太一、聞けぇえぇ」
無視した七虹香が頬を摘まんでくる。
渚はと言うと、鈴音ちゃんや姫野、三村に囲まれていた。
「渚、何もされなかった?」
「無事でよかったぁ。あ、渚、こんなに冷えてる」――抱きしめる姫野。
「柏木ってこの間のヤツだろ? 一発シメておかないとな!」
「佳苗ちゃん、大丈夫だから。そんなことしなくていいから」
渚は皆にも事情を話していたけれど、柏木については偶然一緒に閉じ込められてしまったとしか言わなかった。とりあえず、しつこい七虹香にはチョップを入れておいた。
◇◇◇◇◇
「雫ちゃんのお兄さん、苛められてるみたいだった」
六時間目の残りはクラスで綱引きの反省会と来週の予定を話し合った。その後のSHRも終えて帰り支度を整える。前日、渚の家から帰る時にお泊りの荷物を運んでおいたから、渚は家へ帰らず、モールに寄って僕の家へと向かっていた。
「そうなんだ。それで、渚はどうしたいの?」
「私? 私は……う~ん……文芸部の方へ相談においでとは言ったけど……正直、私はそんなに関わりたくはないかな。事情も分からないしそれに……」
渚は言い淀む。
「それに?」
「柏木君ってちょっと馴れ馴れしいっていうか、距離が近いときがあって苦手」
「そうか。……まあ、苛められたりしてると距離感わからなくなったりもするかな」
「太一くんは優しいね」
はにかむ渚。
「渚が他の男子に距離を置いてくれてるから持てる余裕だよ」
「うん……」
家が見えてくると渚は急かすように早足になり、玄関に入って――おじゃましまぁす――と、誰も居ない家の中に向かって声を掛ける。台所の冷蔵庫の前にしゃがみこんでモールの袋からいくつかの食材を移すと、立ち上がって冷蔵庫にしなだれかかり、首を傾げた。
「そこのカッコいいお兄さん、これからあたしと熱ぅいシャワーでも浴びない?」
ぷっ――思わず吹き出してしまった僕。
「――あっ、ひどぉい! 何で笑うの!」
「だって、おかしくて……」
「せっかく太一くんを誘惑しようと思ったのに!」
「いや、演技は様になってると思うけど、台詞が変。渚にはナンパな台詞を
「太一くんはカッコいいでしょ! じゃあなんて
「えっ……いや……」
「太一くんはエッチなゲームとかもしてるんでしょ!?」
「今はしてないって」
「今はしてなくても知ってるでしょ!」
「そんな台詞、渚に書かせたくないし……普通に渚らしく言ってくれればいいよ」
「じゃあ………………しよ?」
「うん」
凝った台詞を並べなくても、渚はそれだけで魅力的だった。
短い言葉だけで通じるのが恋人だなって。
◇◇◇◇◇
「ちょっとちょっとストップ! 渚止まって!」
もうちょっと、もうちょっと――と、やめない渚を持ち上げてベッドに寝かせる。
外れてはいなかった。
「あっ、切れた……」
ウェットティッシュが切れてしまっていた。万が一を考えて、交換の時は綺麗に拭いておくように教わっていた。毒物でも扱うように丁寧にやれと。
「ちょっと洗ってくる」
「太一くん、綺麗にしてあげようか? あのゲームみたいに」
「ダメ」
「どうして?」
「渚にさせたくない」
「してみたいのに」
渚は最近、欲求がエスカレートしてきた。体力もついたのでちょっと押され気味なくらい。しかも今日は特に求められている。それはそれで嬉しいのは確かに……確かにあるけれど、渚をもっと大事にしたい。
「大人になるまでは……せめて高校を卒業するまではダメ」
「太一くんのケチ」
――はぁ、仕方がない。
「高校生の間は綺麗な渚で居てくれ」
「はい……わかりました」
上気した顔で渚はそう言った。
◇◇◇◇◇
目を覚ますと外は暗くなっていた。雨はもうとっくに上がっていた。
結局、渚が離してくれなかったのもあって水分しか取らずにずっとエッチしてた。
指輪効果?
指輪は今も渚が左手につけていた。安いのもあるけれど、引っかかるようなデザインじゃないので付けたままでも不便は無さそう。自分でしっかりお金を稼げるようになったらちゃんとしたものを買ってあげたい。いずれにせよ、渚が喜んでくれてよかった。ここまで喜んでくれたのは予想外だったけど。
夜は珍しく、非常食のインスタント麺を食べて済ませた。
ただ、寝るときには二人でお互い――インスタント麺臭い――と笑い合った。
ニンニクはそれほど気にならないのに、好みの問題だろうかな。
◇◇◇◇◇
翌日は朝早くに起きて二人で走った。渚もスッキリしたのか寝覚めが良さそうだった。昨日の渚は体温が高めだったけど、風邪も大丈夫そう。
その後、体育祭を意識して早めのペースで走ってくると汗いっぱい。シャワーを浴び、食材が余るからと、しっかりめの朝ごはんを作って食べた。
今日は渚の要望で、お家デート――というより、丸一日ただ二人だけで一緒に居たいと言われていた。食事の後、昨日の分の勉強を二時間ほどやってからお茶の時間。リビングで渚を抱えるようにしてのんびり過ごした後、昼食の用意。
二人で作る料理はいつも楽しみの一環だった。好みが似ている僕らでも、少しずつは違いがある。付き合い始めの頃から外食ではお互いの味覚や好みが似ていることに驚いたり喜んだりしていたのが、今ではお互いの違いを楽しめるようになっていた。違いが分かると、今度はお互いを思いやれるようになる。渚の好みを模索するのは楽しい。
昼食後、またイチャイチャしたり映画を観たりして過ごしたあと、明るいうちに渚を駅まで送って行った。
◇◇◇◇◇
翌週の渚はずっとご機嫌だった。週末の二人だけの時間が効いたみたい。
そしていよいよ週末の体育祭。
みんなやる気満々――なんだけど、僕は体調が悪い。腕組みしたままベンチに座り、腹痛を堪えていた。
「どうしたの? 体調悪い?」
――といつの間にか傍に居た奥村さんが聞いてきた。
「太一くん、大丈夫?」
「ああ、うん、昔から運動会とか体育祭とか苦手でいつもこんな感じ」
――渚が心配そうに顔をのぞき込んでくる。
「あれ? 瀬川くん、体調悪いの?」
「いや、気持ちの問題だから大丈夫……」
――皆に発破をかけて回っていた渡辺さんがやってくる。
「緊張してるならちょっと体動かすといいよ。あ、渚ちゃんにマッサージしてもらうとか!」
「そうだよね、美月ちゃん!」
「いや、恥ずかしいので遠慮しておきます……」
――ていうか既にこの状況が僕としては恥ずかしい。田代の言う三大巨頭がいずれも半袖の白い体操着で目の前で並んでいるんだから、目のやり場に困るどころじゃない。相馬なんか、以前は女子と話すのが苦手とか言う割には囲まれても平気そうだったけど、陽キャとはそもそものレベルが違い過ぎる。それとも僕が意識し過ぎなのだろうか?
――などと考えている間、三人はベンチの前でしばらく駄弁っていた。
ただ、その目の前の三大巨頭に僕の心が翻弄されているうちに、いつの間にか腹痛は消え去っていた。
渡辺さんが――よかったね――と残して去っていくと、その背後には――ちょっとこっちに来やがれください――と僕を呼ぶ田代と山崎の姿があった。
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