幕間 バレンタイン

「太一くんとお揃いだね」


 渚は何がそんなに嬉しいのか雑貨屋で二人のスマホを並べてみせた。

 2月に入って最初の週末、僕は渚とお買い物デートに来ていた。


 僕のスマホは4年前の機種なので少々古いと言えば古いけれど、バッテリーの持ちがちょっと悪いくらいでそれほど困ったことは無い。渚も中学一年のときに同じ機種を買ってもらっていた。渚は物を大事にする方でそれほど目立った傷は無いし、盗まれたり壊されたりを警戒して中学校にはスマホを持って行っていなかった僕も同じく綺麗。


 そこに二人とも同じようなタイミングでスマホに傷をつけ、同じように画面にヒビが入った。幸いにも割れたのは液晶では無くどちらも保護ガラスだったのだけど、こんな傷み方は早々しないよね。


「もうこれ運命なのかもしれない」


 僕の言葉に渚がふふと笑う。僕たちは二人で保護ガラスを買いに来ていた。渚はカバーが傷んだのでカバーも、僕はバンパーを新しく。


「ちょっと大きくなるけど手帳型にしようかな。中学はずっとカバーだったし」


 渚は巨大なラック一面に掛けられたスマホケースから手帳型のケースを眺め始める。


「本好きの渚なら手帳の方が似合うかもね。カバーだったのが意外なくらい」


「お気に入りのカバーをずっと使ってたから」


「物持ちがいいよね」


「あ、これ実際に使うと邪魔かも……」


 渚は手帳型ケースを手に取ってみて思案している。


「――太一くんはどうするの?」


「いつもの樹脂バンパーかなあ」


「裏側に何も無いけど怖くないの?」


「裏側なんて傷がついても気にならなくない?」


「そう? そうかなあ?」


「アルミバンパーもいいけど夏場熱そうだし冬は冷たそう……」


 そんなわけで渚はアイスブルーのカバーを、僕は実用性重視の樹脂バンパーを保護ガラスと共に買った。



 ◇◇◇◇◇



 さて、必要なものを買い終わった僕らだけど、季節的には雑貨屋も含め、どのお店もバレンタインデー商戦真っ盛り。赤やピンク、そしてチョコレートカラーで彩られたデコレーションは、去年までなら間違いなく嫌厭けんえんすべき存在で、こういったお店はクリスマスと同じくカップルだらけで気が重くなるイベントだった。


 ただ……ただ、何というか、恋人ができると当然のように今まで忌避していたその光景が、まるで僕たちを祝福しているかのように見える。去年の、中三の僕にはとても信じられないような感覚だった。


「なんか不思議だな。去年までならバレンタインもクリスマスも何か嫌だった」


「ちょっとわかるかも。でも今は違うよね?」


「違うね。不思議な気分」


 こういう場所は以前ならちょっと引け目を感じたけれど、不思議と隣に渚が立つだけで僕は自信に満たされた。


「太一くんはチョコ好きだよね?」


「ん……うん」


「……太一くんは今までにチョコ貰ったことある?」


「ん…………義理チョコくらいしか」


「あるんだ……」


「でも義理チョコだよ? 渚だってあげたことあるでしょ?」


「鈴音ちゃんにあげたことはあるけど、男の子にはあげたことないよ。小学校はチョコ持ってくると怒られたし、中学ではそんな雰囲気じゃなかったし……」


「じゃあ…………渚の初めてのチョコを僕にください」


「はい……わかりました」


 渚は照れくさそうに俯いたまま上目遣いで僕を見てそう言った。

 そしてそんな話をしていたら、お店の奥で女性店員さんが微笑ましそうに僕らを見ていたのが目に入ってしまい、僕たちは二人で顔を赤くした。



 ◇◇◇◇◇



 バレンタインデー当日、僕らは何事もないかのように登校した。他のクラスメイトもいつもと変わらないように見える。ここまではどこも変わらない。何かありそうで、何もなさそうな雰囲気ができている。


 ただ、午前の授業が終わっても誰にも動きが見えない。中学までの転校先での経験からすると、どちらかと言えばこれは珍しいパターンだと思う。よくあるパターンは女の子同士でのチョコの交換、或いは陽キャの女子による義理チョコ配り。後者の場合はついでで小さなチョコを1個貰えることがある。


 単に僕がそういった世界からは縁が無かっただけなのかもしれない。本命のチョコのやり取りなんてついぞお目にかかったことはなかった。


「太一、田代がまた発作を……」


 山崎が僕に声をかけてきた。

 田代の席を見ると、やつがまたフリーズしていた。

 田代の視界までやってくると、やつはギロンヌと言った感じで僕を見る。

 

「太一先輩?……チョコ、貰っちゃうんですよね?」


 その言葉に動きを止めたのは僕だけではなかった。

 一瞬、チョコという言葉にクラスが静まり返る。


 1-Aのクラスはどちらかというと皆、和気藹々わきあいあいとした平和なクラスだったと今なら言える。小学校の仲良しクラスの延長みたいなものかもしれない。そしてこの静寂は、誰もが出方を伺っていたのかもしれない。


 ――が、その静寂の中、再びあの人物が口火を切った。


 ノノちゃんである。


 普段なら相馬は1-Cに向かうため席を立つはずだったが、何故か未だに席に居た。

 ガラと戸を開け、ずかずかと相馬の席の真正面まで歩み出たその小動物は相馬の目の前に、可愛らしくラッピングされた手の平に乗るような小さなバスケットをトンと置いた。


 ざわ――と声にもならない動きが教室に音を成す。


「ありがとう和美」


 相馬がバスケットを受け取ってそう言うと、彼はノノちゃんと一緒に教室を出ていった。


 途端に教室が騒がしくなる。何人かの女子は鞄からそれぞれに何かキラキラした包みを取り出して教室から出て行き、また何人かは男子に声を掛けていた。もちろん大半は彼氏持ちの女子だったけれど、そうでもない子もいた。


 えっ、なにこれ。本命ってこんなに居るものなの?

 よくわからないが、独特の空気に教室が支配されていた。

 義理チョコ友チョコなんて小競り合いではなかった。

 平和な日常に突然火星人が攻め込んできたような。


 僕は不意に腕を引かれると、教室の外まで連れ出される。


「太一くん、お茶買いに行こ」


 頬をほんのり赤くした彼女は、ブレザーの外ポケットに左手を突っ込んだままだった。



 ◇◇◇◇◇



「やっぱりちょっと恥ずかしい……」


 渚は階段の踊り場で周りを確認し、そっと小さな包み――チュールの白いリボンで結ばれた、ラメ入りの光沢のある明るいターコイズの包装紙のラッピング――を手渡してきた。


「渚らしくてかわいい。ありがとう」


 バレンタインのチョコがこんなに嬉しいものだとは思っていなかった僕は、すっかり浮かれてしまっていた。その後、我に返った時には教室に戻っていて片手にはお茶のペットボトル、もう片手にはブレザーのポケットの中で包みが握られていた。自販機まで行って戻ってきた記憶が無かった……。


 そして相馬が帰っていなかった。ノノちゃんとどこかで弁当を食べているのだろうか。


 しかたなく自分の席に戻るが、当然そこには笹島が座っていた。


「あー、ごめごめ。彼氏戻ってないんだ?」


「相馬は彼氏じゃねえ」


 にひひと笑った笹島はさっと退いて、近くの空いている椅子を引っ張って来て座る。

 さすが笹島は遠慮が無いな。


 今日くらいは渚の席で食べようかなんて思いもしたけれど、周りの席は空いていないし、何より鈴音ちゃんに加え、姫野までやってきて楽しそうに友チョコ交換していたので邪魔をしたくはない。笹島のように適当に空いた席から椅子を引っ張ってくる勇気もなかったし。



「鈴代さんからちゃんと本命貰った?」


 そう声をかけてきたのは新崎さん。


「ああ、うん」


「そう、じゃ、あげる」


 ぽん――と、ラッピングされた箱を渡される。


「――友チョコだからね。変な意味はないから。鈴代さんにも渡したし、本命より先に渡すわけにはいかないから」


「え、あ……ども」


 義理チョコと違って十分にしっかりした重さがあった。



「私も私もー」


 と、続いたのは宮地さん。お礼を言って受け取ったチョコは明らかに義理チョコだった。小さなチョコのラッピング。クラスの男子全員に配っているらしい。まあ、これはよくある。



「はい、おひとつどうぞ」


 そう言ってきた山咲さんは、中が小さく間仕切りされた薄い紙の箱を差し出してきた。中には落雁が並んでいる。こちらも男子全員に配っているのだろう。既に残り少なくなっていた。ただ、ひとつ取ったはいいが個別包装されているわけでもなく――じゃあ、いただきます――と口に運んだ。


「まあ、私のを最初に食べていただけるんですね」


「え……」


 ふふ――と含み笑いをする山咲さんは、完全に僕を揶揄っていた。



「よかったら……」


 そう告げながら、大きな薄い箱を差し出してきたのは奥村さん。山咲さんと同じく、どこかの有名メーカーの間仕切りのある箱だったので、クラスの男子全員に配ったのだろう――そう思っていた。いや、実際そうだったのだろうし、奥村さんの性格からするとこんなこともするんだななんて意外に思ったりはした。けれど――ありがとう――そう言いながら、箱からチョコを取ろうとして一瞬手が止まる。


 その大きな箱の中には、メタリックな赤いアルミに包まれたほんのちょっと大きめの丸みのあるハート形のチョコが1個しか残っていなかったからだ。


 え、これはなに?


 いつぞやの奥村さんの言葉が頭に浮かんでフリーズした。

 これは、受け取ってしまってもいいものなのだろうか。


「どうぞ……」


「えっ、あっ、はい……ありがとうございます」


 赤いハートのチョコは思ったよりも重かった……。



 そしてそんな感じで昼休みを終えようとしていた。

 僕はとりあえず面倒なことになる前に渚へメッセージを送って報告していた。


「あげる」


 そう言って体を伸ばし、左手でポンと机の上に置かれた市販の板チョコはバレンタイン仕様だった。


「え!?」


 驚いて見た隣の席の彼女はぷいと前を向き知らぬ顔。

 何度か机の上と彼女の顔を見比べたが意味が分からない。


「なによ」


 前を向いたままそう返してきた三村は口を尖らせていた。


「いや、ありがとう」


 僕は報告をひとつ付け加えた。



 ◇◇◇◇◇



 結局、田代は義理チョコにはありつけたらしい。

 男子に義理チョコを配っていた宮地さんと、落雁を配っていた山咲さんを拝んでいたそうだ。残念ながら本命は貰えなかったようだが、田代が正気を取り戻すには十分だったようだ。


 山崎については何とついにこのタイミングで渡辺さんに告白したのだそうだ。

 ただ、残念ながら渡辺さんからは良い返事を貰えなかったみたい。

 午後、山崎は燃え尽きていたが、幸いなことに渡辺さんは友達の応援はしていたけれど、誰か本命にチョコを渡したと言う話は聞かなかった。


 そしてどうやらこの山崎の行動やクラスの様子は、僕や相馬に恋人ができたことに原因があったらしい。運動部のイケメンは夏の間に恋人ができ、さらにクリスマスを前にして文化部の僕らに恋人ができたせいで、クラスの中がそういう雰囲気になっていたのだそうだ。


 クリスマスパーティや初詣で仲を深め、この機会に告白した女子、そして男子が居たらしい。やっぱり教室の雰囲気って大きいよな。



 ◇◇◇◇◇



「今日は部活に寄らないで帰る」


 放課後、そう言い切ってきた僕の彼女。

 坂浪さんとかどうしただろうなんて気にはなったけれど、まずは彼女優先だ。



「山咲さんの落雁は許してあげる。私も頂いたし……」


 渚の部屋に入ると、そう言って僕に彼女のチョコを開けさせ、本人自作のチョコトリュフをひとつ摘まみあげると僕の口に持ってきた。


 彼女の指からチョコトリュフを与えられ、ココアパウダーの香りと苦みに続いて柔らかいガナッシュの甘みが口に広がる。ゆっくりと味わって食べ終えると彼女が聞いてくる。


「どう?」


「おいしい」


「よかったぁ。お母さんに教えて貰って初めて作ったんだ」


 彼女は別のチョコを摘まみ上げると、再び僕の口元へ。パキリと口の中でビターなコーティングが割れると中は甘いガナッシュ。ただ、意外なことにコーティングにはココナッツパウダーが混ぜ込んであって噛むとココナッツの風味と食感が口に広がる。


「これもおいしい」


「嬉しい。――お母さんがね、お父さんにあげた初めての手作りチョコで失敗したんだって。お父さんは喜んでくれたけど、私には失敗して欲しくなかったって」


「そっか。でも、失敗してても嬉しかったと思うよ」


「そんなのやだ。塩味のチョコとか……」



 渚のチョコを全部食べ終えると、渚も指を咥えてココアパウダーを舐めとっていた。

 彼女の仕草に刺激された僕は、魅力的な唇に惹き寄せられていた。


「あまぁい」


 そう漏らした彼女とさらに何度か口づけを交わし、渚のお母さんが帰ってくるまで甘い時間を過ごした。



 ◇◇◇◇◇



「これは鈴音ちゃん、これは朋美ちゃん、こっちは佳苗ちゃん」


 ラッピングされたチョコをいくつもバッグから出してくる渚。

 彼女の髪の毛はほんの少し湿っているけれど、本人はあまり気にした様子がない。


「友チョコってそんなに本格的なのね」


 渚のお母さんが驚いて言う。


「う~ん、鈴音ちゃんたち三人は特別かも。あと新崎さんも。本格的なのは自作チョコやクッキーを交換することが多いかな」


 新崎さんから貰ったチョコは僕が貰ったのと同じものだった。

 さっきちょっと開けてみたけれど、有名ブランドの生チョコだった。


「宮地さんから貰ったチョコくらいが普通だと思う」


 宮地さんのはまあ普通だね。小さいチョコの小さなラッピング。


「え、ちょっと待って。僕が貰ったチョコより多くない?」


「太一くんは渚以外から貰ったの?」


 お母さんが驚いている。


「や、一応渚には報告してますし、たぶん友チョコみたいなものかと……」


「太一くんがたくさん貰ってたら大問題だよ。私のは交換がほとんど」


「ま、それもそうかな」


 一応、貰ったチョコに他意はないと思っておこう。


「ホワイトデーのお返しは私が準備するからね?」


 渚はしっかり彼女アピールするみたいだった。


 その後、渚のお母さんから夕飯をご馳走になった。

 圧力鍋で煮たテールスープを準備してあったらしく、今日、僕が来ることは当然のように想定内だったみたい。ビーツが入っていて、甘いような辛いような味は初めて食べた。渚のお父さんはよく、これでウォッカを飲んでいたと話してくれた。


「お母さんズルい! 太一くんもそんな満足そうにしないでよ!」


「え、いや、だって……」


 おいしいものはおいしいので仕方がないけれど、渚としては最後全部持っていかれた気分だったみたい。仕方がないので、玄関を出たところでいっぱいキスしておいた。







--

 幕間のヤマもオチも無い話は定番のバレンタインデーでした。

 今回はわりとよくある普通(?)のラブコメのイベントだったと思います。

 次の六章、実は五章に詰め込めなかった話があるので、一章増えるかもしれません。

 のんびり始めると思いますので、応援よろしくお願いいたします!


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