三分の一の彼女

こんぺい糖**

三分の一の彼女

「ねえ、わたしはだあれだ」


「佳奈さん」


「ざあんねん!」


「じゃあ、和也君」


「わたし、って言ってるでしょ?」


「わかってるよ。ゆりだろう?」


「ぴんぽーん!大正解!」


 少女はそう言うと、緩く巻かれた髪を指で弄びながら笑った。


 一方、楽しそうにころころ笑う少女とは対照的に、青年は呆れたように溜息をついた。


「なあ、今日もこれやるのか?」


「ん?もちろんやるよ。だってそれが、佳奈ちゃんと三人で決めたルールでしょ?」


「それはそうだけどさ」


 少女は笑顔を絶やさないまま青年に近づき、鼻の頭をちょんと指で弾いた。


「いてっ」


「約束を破ろうとするイチ君へのお仕置なのだあ!…えへへぇ」


 青年は眉をはの字に寄せて痛みを訴えるが、少女は悪びれる様子もなく、へにゃりと破顔する。



 少女───いや、少女を形成する人格のひとりである「ゆり」という名の女子大学生は、少女の人格の一部であり、青年の恋人だった。



「イチ君、今日は久しぶりのデートの日だよ?そんな日に『ゆり』じゃないわけないでしょー?」


「いや、この前のデートの時は和也君だったろ?男子小学生とデートって、言葉だけ聞くと社会的にもヤバいな……まあ、公園の砂場で泥団子作っただけだけど」


「あー!だからこの前あたしのお気に入りのワンピース、泥だらけだったんだあ!もう、カズ君ったら」


「いやそうじゃなくてな…」


「えへへ、ごめんなさい。人格は自由に変更出来ないんだよ」


「ん、知ってる。だから今日はゆりで安心した」



 青年は、よく喜怒哀楽が分かりづらいと言われる表情を、僅かに和らげた。


 その表情を見て一瞬瞠目した少女──ゆりは、更に笑みを深めて青年に抱きつく。


「今日だけは出てきたかったんだあ」


「うん、俺も今日だけはどうしてもゆりが良かった」


 二人は見つめ合い、どちらからともなく笑みを零した。



「じゃあ、行こうか」


「うん!」



 青年とゆりは手を取って歩き出す。その姿は、長年愛し合った仲睦まじいカップルそのもので、この時間が永久に続くとさえ錯覚するほどだった。


 ただひとつ、それでいて最大の誤解があるとするならば───



 何度も重ねられた二人の逢瀬は、今日で終わりを迎えるということだった。



*****



 少女は、どこにでもいる女子大学生だった。ひとつだけ他の女の子と違うところは、人格があと2つあるということ。一人は彼女と同い年の女の子。もう一人は小学生の男の子。


「ゆり」、「佳奈」、「和也」という三人の人格によって少女は形成されていた。




 主人格は、「佳奈」。周りより少し大人びているというだけの真面目な女の子だ。


 おっとりしていて、楽しいことが好きなのが「ゆり」。


 そして、天真爛漫で外遊びが大好きな小学生の「和也」。その言動から、まだ低学年だと推測できた。


 佳奈とゆりは幼い頃から一緒なので、良き相談相手であり、友人だ。和也はまだ幼いので弟みたいに接している。


 同じ時間に佳奈とゆりの二人の人格が現れることはないので、交換ノートでお互いの報告、相談等をして親睦を深めていた。


 ある日、そんなゆりが主人格である佳奈へ相談があるという旨をノートに記したのだ。


 どうやら、佳奈の大学で好きな人が出来たらしい。しかし、大学には「佳奈」として通っているため、ゆりが想い人と会える回数は極端に少ない。この想いを諦めるべきかという相談だった。


「ゆり、諦めたらだめ。貴女だって一人の人格よ。主人格が私なだけで、貴女にも心はあるんだから」


 佳奈はゆりの恋を応援した。親友でもあるゆりに幸せになって欲しいというのが佳奈の願いだったから。が、ここで問題がひとつ。ゆりとゆりの想い人が結ばれるには、想い人が少女の人格について理解を示してくれなければならない。それが最大の難関だった。


「とりあえず、ゆりが出てくる日は彼にアタックしてみたらどう?少し酷だけど、彼の人柄をもっと知ってから打ち明けるかどうか検討するべきよ」


 少女の秘密を知って、ゆりの想い人が離れてしまったら仕方がない。ゆりと佳奈が恋愛をする上で、これは避けては通れない道。相手が受け入れてくれるのなら、そのまま関係を続ければ良い。


「うん…わかった」


 ゆりは嬉しいような、けれども少し寂しげな笑顔を浮かべて答えた。


 佳奈は、そんなゆりが早くいつも通りに笑ってくれる未来が来ることをひっそり願った。



 その後、あっさり秘密を打ち明け、想い人との仲が深まったと惚気け話を綴るゆりに、流石に早すぎるだろうと佳奈が面食らったのは、それからたった一週間後の話だった。




*****


 青年はどこにでもいる男子大学生だった。ひとつだけ周囲と違うところは、彼の恋人が多重人格者の人格の一人であるということ。しかし、彼にとってそれは些細なことであり、主人格の少女とは違う仕草や考え方、笑い方をする彼女を愛していた。


 最初に彼女から事情を打ち明けられた時には驚いたが、確かに思い返してみると、自分が知っている彼女と、周囲が見る彼女は違っていた。周囲の、落ち着いた大人っぽい少女という評価は、おっとりとした口調でいつもにこにこと笑っている彼女とはかけ離れているように感じた。


 青年は、普段「ゆり」と名乗るときの彼女としか話していなかったため、主人格である佳奈に初めて会った時は、顔が同じでも言動だけでこれだけ雰囲気が変わるのかと感心さえしたものだ。


 青年は当初、自分は本当に「ゆり」を好きになれているのか不安に思っていたが、佳奈とも関わるうちにそれは杞憂だったと思い知る。


 佳奈は青年にとっても良き友人になった。しかしそれは、大切な「ゆり」を護る同志のような関係だった。



「私、もし貴方がゆりを泣かせたら許さないから」


 佳奈に口酸っぱく言われた言葉。当のゆりは「あたしは、イチ君と居られれば幸せだから大丈夫だよお」と、いつもの柔らかな口調で微笑むばかりだったのだが。



「それなら、ルールをつくりましょう」


「ルール?」


 突然の佳奈の提案に青年は戸惑った。ゆりがこの提案の意味を知っているかどうか確認する術もなく、佳奈の独断なのかどうかも分からなかった。考えても分からないことを悟った青年は佳奈に言葉の続きを促す。


「そう、ルール。貴方とゆりが交際する上での約束」


「…ああ、そうだよな。俺が好きなのはゆりでも、その身体は佳奈さんや和也君のものでもあるんだもんな」


「ええ。まあ、私達は記憶の共有ができないから、ゆりが表に出てるときはゆりの好きにしていいんだけどね。あ、恋人のスキンシップをするときだけは一言いってよ?流石に私もそれは把握しておきたいから」


「できるだけ清い交際をするつもりだから大丈夫。ゆり達の大切な身体なんだから変なことはしない。和也君もいるし」


「それは有難いけど…貴方、男としてそれでいいの?」


「ゆりの隣に居られればそれでいい」


「あらそう」



 佳奈はしらけた顔をして青年を見やると、こほんと咳払いをして話を続けた。


「貴方とゆりが会う度に、必ずどの人格が出てきているのか貴方が当てるの」


「人格は自由に入れ替われないからか?」


「そうよ。貴方が付き合うのはゆりなのだから、私と和也との違いをきちんと理解してもらう必要があるの」


「そんなの、もう分かって……」


「出会って数週間の人間に理解されるほど私達は簡単ではないわ。これはゆりの為でもあるの。貴方は、うっかり私と和也にゆりとの秘密を話してしまう可能性を考えたことはある?」


「そう、だな。同じ身体でもプライバシーはあるもんな。……わかった。毎回俺がゆりや佳奈さん達の質問に答えればいいんだな」


「理解が早くて助かるわ」



 そうして、青年は少女の一人格と交際する条件を飲んだ。



*****




「ねえ、イチ君っ!今日はどこに行くの?まだ内緒?」


「うん、まだ内緒。着いてからのお楽しみ」



 ゆりとデートに行く時、青年は必ずどこに行くのかを伝えていた。佳奈やその両親、和也に心配をかけないためだ。


 だが、今回は特別だ。佳奈にだけは事前にどこに行くか伝えているが、ゆりには内緒にしておくようにお願いした。



 青年は、ゆりにサプライズをしてみたかったのだ。ゆりだけのためのサプライズ。誕生日などのイベント事は佳奈と和也とゆりのどの人格が出るのか分からないため、毎年事前に欲しいもの、やりたいこと等を聞かれていたそうだ。


「えー、何だかドキドキするなあ。」


 むむう、と唸りながらゆりは胸を手で押さえた。その仕草が可愛くて、思わず青年はゆりの頭を撫でる。


「わっ、もう〜せっかく髪の毛可愛くしたのにぃ!」


 文句を言いつつも、嬉しそうに笑うゆりを見て、青年はほっとした。良かった、今日は始まりから終わりまで笑顔でいたかったから。


「どこに行くのかなあ〜」


 ゆりは胸で組んでいた手を解いて、青年の指にするりと絡ませる。


「さあ、どこだろうな。多分、ゆりが行きたいところだよ」


「それは楽しみだあ。ふふっ」


 ゆりは本当に嬉しそうに笑った。




 電車に乗って、バスに乗り換えて。そうしてたどり着いた場所は、近頃出来たばかりの大型テーマパークだった。



「いっ…イチ君、ここって!」


「ゆり、前にここが出来たってニュース観て、羨ましげにしてただろ?だから、今日のデートはここ」


「嬉しい、すっごく嬉しい!ありがとうイチ君っ!」


「お礼を言うにはまだ早いだろ」


「そ…そうだよねっ!今からいっぱい遊ぶんだもんねっ!!」



 ゆりは興奮気味に繋いだ手をぶんぶんと振った。青年は少し恥ずかしそうに頭を搔いたが、ゆりの楽しげな表情に顔を綻ばせた。



「まずはどこに行きたい?」


「じゃっ、じゃあ、ジェットコースター!」


「うぐ…うん、行こうか……」


 青年が僅かに顔を歪めたことにゆりは気づかず、喜び勇んで園内を進んで行った。




「きゃあ〜!」


「ゔああああ!」


 隣で上がる可愛らしい悲鳴をかき消してしまう程の低く大きな声が響く。


 青年は絶叫系アトラクションが大の苦手だった。初めて青年とテーマパークに来たゆりがそのことを知る訳もなく、ベンチでぐったりと項垂れた青年に、ゆりは苦笑しながら冷たい水を手渡した。



「はい、お水」


「……ありがとう」


「ねえ、どうしてジェットコースター苦手だって教えてくれなかったの?」


「…だって、ゆりが喜びそうだったから」


「あのねー、あたしはイチ君と一緒に楽しみたいの!だから…イチ君が我慢するのは嫌。」


 しょんぼりと肩を落としたゆりを見て、青年は猛省した。サプライズは成功したのに、ゆりを悲しませてしまった。


「わかった。これから苦手なアトラクションは言うようにする。」


「そうだよ。嫌なものは嫌って言わないと。あたしはイチ君のこと、これからももっと知りたいんだか……あっ」


「……今日で俺のこと、もっと知ってよ。教えられることは何でも言うから。その代わりゆりも隠し事は無しだからな?」


「うん。……よーし、今日でイチ君の正体を暴くぞおー!」


「いや、正体ってなんだよ」


「うふふー」


 ゆりは少しだけ寂しげに微笑んだ。



*****



「あー!楽しかった!」


「ああ、ゆったり乗れるアトラクションはいいな」


「ふふっ、楽しんでもらえて何より」


「次はどこに行こうか?」


「うーん…あ、お化け屋敷入ってない!」


「ゆりは怖いの苦手じゃないもんな」


「えー、ちゃんと『きゃーこわーい!』ってやってあげるよ?」


「そこで気を遣われてもなあ…」


 いくつかのアトラクションを回り、次に行くところを相談した2人は、お化け屋敷に向けて歩き出した。


「お化け屋敷以外で回れるのはあと一つくらいかなあ」


「そうだな。最後は何にしようか」


「もちろん観覧車!」


「ちょうど夕焼けが綺麗に見えるかもな」


「おおー!ロマンチックだねえ」


「カップルゴンドラにでも乗るか?」


「えへへ、もっとロマンチックだあ」


「いいだろ、たまには」


「最後、だもんね」


「……うん」



 2人で手を繋ぎ、不気味な洋館風の建物に入っていく。意外と本格的で怖そうだ。青年は、ここで格好悪いところは見せられないと気を引き締めた。




 そのときだった。



「や、やだああああ!!何ここ、暗いっ!怖いよぉ!佳奈ちゃんゆりちゃん助けてぇ!」



 青年の隣から大きな悲鳴が上がる。傍から見れば、青年の恋人が怖がっているだけの光景だ。しかし、青年にとっては違った。



「え…もしかして、和也君?」


「お、お兄ちゃあああん!うわーん、早くここから出ようよお…!!」


「わっ…わかった!今すぐ出るから!ほら、俺に着いて……」


「ふぇ、歩けないよおおお…」


「じゃあおぶってやるから、な?」


「…ゔん」



 少女の姿で子供のように泣きじゃくっている和也に、周囲は好奇の目を向ける。実際、和也は小学生なのだが。


 えぐえぐと泣きわめく少女をおぶって、青年はスタッフに事情を説明し、洋館の外に出た。


「ねえお兄ちゃん、ここどこ?」


 青年は、少女の見た目にはそぐわない幼い口調に問われる。


「遊園地」


「えっ、ゆうえんち!?」


「そうだよ」


 青年が答えると、和也は目を輝かせた。


「ぼっ…僕ね、ゆうえんちでね、じぇっとこーすたーにのりたいの!!」


「ジェットコースターは…十二歳からじゃないか?」


「からだはもう大人だもん!」


「それはそうだけど…」


 先程まで大泣きしていた小学生に丸め込まれそうになるなんて、と青年は情けなくなった。それと同時に、今日だけはどうしても「ゆり」のままでいて欲しかったと行き場のなくなった想いが募る。


「ゆりちゃんはいいなあ、お兄ちゃんとゆうえんちで遊べてー」


「ゆりも…今日が初めての遊園地だったんだ……」


「なあんだ、そっか!!ゆりちゃんとおそろいだった!」



「そう…だな……」


 屈託のない笑顔で和也はそう言ったが、青年は同じ笑顔で返すことが出来なかった。元々の無表情が原因なのではなく、ゆりが今まで遊園地に行けなかったという事実を悔やんでいたからだ。


「……お兄ちゃん?」


「あ…ああ、ごめんな和也くん。なんだ?」


「お兄ちゃん…本当は今日一日ゆりちゃんの方が良かった……?」


「いや、そういうわけじゃ……」


「僕、知ってるよ」


「え」


「ゆりちゃん、最近出てこないことが多いんだって。僕はもともと少ないけど、佳奈ちゃんと同じぐらい出てきてたゆりちゃんがほとんど出てこれなくなったって。佳奈ちゃんは教えてくれないけどね、ゆりちゃんがひらがなで交換ノートに書いてくれたの。だから…ゆりちゃんが出てこなくなっちゃう日も近いんだって……」


「うん……」



 青年は力なく頷いた。和也の言ったことは推測とはいえ、ほとんど事実と言ってもいいものだ。佳奈曰く、原因はよく分からないということだった。確実ではないことを信じたくない気持ちが強かったが、青年とゆりは何度も話し合い、このデートを最後にしようという結論に至った。


 それは、いつ消えるか分からないゆりのひとつの区切りでもあり、彼女が消えたあとに青年が前を向けるようにするためでもあった。



「僕、やっぱりじぇっとこーすたーはいいや」


「え、乗りたかったんじゃないのか……?」


「うん。でもそれよりもやりたいことができたの」


「やりたいこと?」


「お兄ちゃん、ゆりちゃんと次はどこ行くつもりだったの?」


「…最後に、カップルゴンドラで観覧車を……」


「わかった!それなら早く行こっ!あのぴんくのやつ、かんらんしゃにひとつしかないから早く並ばなきゃ!」


「あ、ああ……」


 青年は和也に手を引かれながら、観覧車のある方に向かった。



「わああ、きれい!!」


 観覧車の列の前に着いた時には、空が青と橙のグラデーションに染まり始め、太陽がゆっくりと沈もうとしていた。


「お兄ちゃん、乗ろう!」


 和也がすでにスタッフに言っていたようで、すぐにカップルゴンドラに通して貰えた。青年は観覧車にはカップルがこぞって乗るイメージを持っていたので、少し面食らった。


 ゆっくりとゴンドラが上昇していく。それに合わせて今まで大きく見えていたテーマパークの建物がだんだん小さくなっていった。



「あのね、ゆりちゃんね」


 ゴンドラに乗ってからは黙っていた和也が突然話し始めたので、青年は首を傾げる。


「ん?どうした?」


「ゆりちゃん、お兄ちゃんのこと、本当に大好きなんだよ。交換ノートにね、いっつもお兄ちゃんのことが書いてあるの」


「えっ…何書いてんだ、ゆり……」


「んーとね、なんか、かっこいいとか、かわいいとか、いっぱい書いてあったよ。漢字は僕にはむずかしくてよめなかったけど…」


「そ…そうか……」


 格好良いはいいとして、可愛いってなんだ。佳奈も読むであろうそのノートの内容が恐ろしくなって、青年は耳まで赤くなりながら頭を抱えた。


「ゆりちゃん…今日はもう出てこないのかな……」


「どうだろうな……」


 青年は曖昧な返事で和也の言葉に返す。


 青年達の乗ったゴンドラは、あと半分で頂上というところまで昇っていた。このままでは、ゆりと一緒に夕焼けを見ることは叶わないだろう。


「あ…夕焼け……」


 和也がぽつりと呟いた。青年が上を見るとそろそろ頂上に着きそうだった。


「もう…無理かな」



「……わたしはだあれだ」


「え」


「ほら、早く答えないと頂上に着いちゃうよ?」


「ゆり……?」


「おおー、よく出来ました」


「ゆり…良かった。間に合ったっ……」


「気がついたら観覧車に乗って夕焼けを見てたからびっくりしたよお。ふふっ、まさかこれもサプライズだったの?」


 ゆりはいつもの調子で笑いながら、軽口を叩いた。どうやら先程の呟きはゆりのものだったらしい。


 そしてゆりはサプライズだと言ったが、これは立派なアクシデントだ。仕込んでいたわけがない。


 しかし、せっかくゆりが場を和ませようとしてくれたので、青年もそれに乗ることにする。


「そうだよ。ゆりを驚かせたくて」


「えぇー、じゃああたしもお返ししようかな」


 そう言うが早いか、ゆりは青年の隣に座り、ずいっと顔を近づけた。


「ねえ、イチ君。あたし、イチ君のことを好きになれて本当に幸せだよ。だから……」


 そこで言葉を切ったゆりの、淡い桃色の唇が、青年のそれに重なる。


 大学1年生から4年間も付き合っていた2人にとって、それは初めての感触だった。


「ゆり……」




「……イチ君。こんなジンクスは知ってる?」


「ジンクス…?」


「そう、ここの観覧車にまつわるジンクス。観覧車の頂上でキスをしたカップルは別れないってよく聞かない?」


「聞いたことはあるな……」


「ここにもそんなジンクスがあるんだけどね。逆なの。」


「何が?」


「ここの観覧車の頂上でキスをすると、絶対に別れちゃうんだって」


「え……」


「ふふっ。あたしたち、みたいだね」


 ゆりはまた寂しそうに笑った。もうお終いだと言うように。これが最後だとでも言うように。


「なっ…そんなわけないだろう!」


 青年は声を荒らげる。それは、ゆりの前で初めて出した怒号だった。



「イチ君。きいて?」


 ゆりは静かにそう言った。何かを決意したかのような、それでいて穏やかな表情をしている。


「あたし、イチ君が好き。イチ君が彼氏でほんっとうに幸せ。だからこそ、イチ君にも幸せになって欲しいんだあ」


「俺はもう幸せだよっ……!!」


「じゃあ、あたしが消えちゃったら?あたしが消えたら、イチ君なら悲しんでくれるでしょ?もういないあたしのことを、一生懸命想おうとしてくれるでしょう」


「そんなの当たり前で……」


「それじゃだめなの」


「イチ君には、前を向いて新しい幸せを見つけてもらわなくちゃいけないの」


「ゆり……」


「今までたくさんの幸せをありがとう。イチ君…ううん、はじめ君。あたしはずっと、君の幸せを祈っているから」


「……ばいばいっ」


 ゆりはすくっと立ち上がった。青年がおもむろに窓の外を見ると、観覧車はもうすぐ1周を回り終えるところだった。



「ゆりっ…!!」


 ゆりは観覧車を下りると、すぐに走り出した。慌てて青年も後を追うが、人が多く、入り組んだパーク内でひとりの少女を見つけることは困難だった。




*****



 ───数日後。


 佳奈から連絡を受けた青年は、指定されたカフェに向かった。



 あのデートの後、青年は慌てて少女のスマートフォンに連絡を入れた。程なくして返事が返ってきたが、それをくれたのは佳奈だった。佳奈が言うには、気付いた時には自室にいたのだそうだ。ひとまず安心したが、それ以降、青年は「ゆり」と話せていない。


「なんだか久しぶりね」


「そう、だな」


 佳奈はいつもの調子でそう言うと、コーヒーを一口飲んだ。


 青年は、これからされる話への不安で飲み物さえ喉を通りそうにない。佳奈が同じものを注文しようとしてくれていたようだが、それをやんわりと断り、早く話を始めるように促した。



「ゆりのことなんだけどね」


「うん」


「ここ数日、全く出てきてないようなの」


「そっか」


「それで、もう出てくることはないんじゃないかと思うの。私の中にいるはずの『ゆり』の気配が全然なくて……」


 そこまで言うと、佳奈は鞄から何やら封筒のようなものを取り出して、青年に手渡した。


「これは……?」


「私との交換ノートに挟んであったの。貴方に渡してって。あ、中身は見てないから安心して」


「……ありがとう」


 青年はその場で封を切った。中身が破けてしまわないように気をつけながら。


 中には手紙ではなく、一枚のメッセージカードが入っていた。



『イチ君へ。あたしはずっと佳奈ちゃんの三分の一の存在だったの。でも、イチ君に出会って、をあたしとして大切にしてくれる喜びを知ったんだよ。イチ君といる時だけはあたしは一人の人間だった。ねえ、あたしはイチ君の何分の一かにはなれたかな?少しだけでいいから、イチ君の一部にになれてたら嬉しいな。どうか幸せになってね。ゆり。』



 筆まめなゆりの手紙にしては短いものだったけれど、青年にはこれで十分だった。


「ゆりは俺の全てだ…だから、俺の中のゆりと一緒に幸せを掴むからっ!ちゃんと先に進むからっ…だから……」



「大丈夫よ。ゆりは貴方のこと、本当に大好きだったんだから」


 佳奈の手が、涙を零す青年の背をさする。


 ゆりと同じ顔、同じ手の大きさ、同じ温かさ。しかし、ゆりとは違うのだとわかる。


 ゆりはもう、佳奈の中にはいないのだ。だが、自分の中にはどうだろう。彼女との思い出がたくさん詰まったこの身体には、ゆりはいるだろうか。きっといるだろうと青年は思った。




 青年の涙で滲んだ視界の先には、夕焼け色に染まった空が、キラキラと輝いていた。

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三分の一の彼女 こんぺい糖** @konpeitou87

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