問題変更:彼女は事故に遭ったのか 別解の可能性を示せ②

「え、妊娠!?」榛菜は思わず声に出した。


 男子二人も流石にびっくりしたようだ。晶は目をつぶって右手を顎に当てて、何か考えている様子だった。凛太郎も腕組みして今の言葉を吟味ぎんみしていた。さくらだけがじっと耳を傾けている。


「その、妊娠って、あの、赤ちゃんの?」


「そう。その赤ちゃんの。びっくりするでしょ」


「しました」


 榛菜は考える。なるほど。赤ちゃん。しかしあまりに意外な言葉だったので、そのまま思考は止まってしまう。


「その……何で?」


「なんでって……そういうことでしょ」


「わからないです」


 榛菜があまりに真面目にそうこたえるので、凛太郎が笑ってしまった。


「やっぱり榛菜ちゃんは天然だな。つまり、子供ができるような何かをした相手がいたってことだろ」


 凛太郎が言っても、まだピンと来ていない。


「でも、中学2年だったんでしょ? 変じゃない?」


「だからだろ」流石の凛太郎も真面目な顔になった。「中学生を妊娠させるなんて、普通じゃない。だから、理由になるんだろ」


 榛菜もやっと気付いた。その先の言葉は、言われなくてもわかる。


「殺人の理由に」


 凛太郎の言葉で、場が静かになった。


 さくらは、この事実を他ならぬ花田知世の母親から聞いた。残酷な話だった。娘が殺されたかもしれない。その事実を再確認させてしまった。妊娠していた、それ以上のことは聞く勇気がなかった。だからと言って黙っているわけにもいかないし、いよいよ事件の可能性を感じてしまう。居ても立っても居られずに、再び幽霊となって響子の前へ現れようとしたのだろう。


「でもね、彼女のお腹の中に赤ちゃんはいなかったの」


 響子が視線を下へ落としながら苦しげに言った。静かな口調以上に、彼女は緊張しているようだった。


「私、あの事故があった時には言い出せなかった。すごく個人的なことだったし……。でも、どうしてもそのことが気になって、ともちゃんのお母さんに相談した。花田さんはすごくショックを受けて。そのまま警察に相談したんだけど、司法解剖の結果は『胎児の存在は認められない』だった」


 息を大きく吸い込んで、さくらを見た。


「もしかしたら妊娠していたと言うのは彼女の思い込みだったのかもしれない。それでも相手はいる。相手がともちゃんが妊娠していると思い込んでいたなら、動機になり得る。でも、その相手が誰だかわからないの。あの時は私もびっくりして……。彼女に相手は誰なのと聞いたけど、知らない、わからないって言ってた。まさか彼女が不特定多数の相手がいたとは思えないけど、もしかしたら……そうだったのかも知れない」


 もし特定の相手がいるなら『知らない』とは言わないだろう。父親候補が複数人いたとしたら、彼女は何をしていたのか。もしくは、されていたのか。


 榛菜はまだ混乱していて何も口に出せない。晶も凛太郎も黙ったままだ。さくらは、じっと耐えている様子だった。


「私にはわからなかった。でも、あの子、どういうわけかすごく楽しそうにその話をしてたのよ。『私もとうとうお母さんだー』って。登校中だったか下校中だったか、話をしていたら突然。……正直、そのときは冗談だと思ってた」


 再び、響子は目を閉じ、顔を伏せた。大きく息を吸った。


「ごめんね、山岸さん」言葉を絞り出した。いよいよ彼女が緊張しているのがわかる。

「気になって、私も調べてたの。こんなの絶対におかしい、こんなの事故なんかじゃない。彼女は殺されたんだ、いったい相手は誰なのかって。もしかしたら同級生かもしれないし、学校の先生かも知れない。怪しい人がいないか、ともちゃんと仲が良かった異性の人がいなかったのか、聞いて回ってた。下級生も、上級生も、学内はもちろん、学外の演奏会でも」


 ゆっくり息を吸って、肩が大きく動いた。


「私が犯人を見つけるんだって、絶対これは事件なんだ、私が彼女の魂を助けるんだって。そしたら、いつの間にか……」


 また大きく息を吸った。何度か呼吸を止め、吸って、吐いた。


「……ともちゃんは、幽霊にされてた。寂しげに一人で校舎を歩く女の子の幽霊が出ると、いつの間にか噂になってた」


 肩を震わせながら、花田知世の血の繋がらない妹を見た。榛菜は響子の目が潤んでいるのに気付いた。


「私が聞き回ってたことに尾鰭おひれがついて、本当は失恋の自殺だったとか、殺人鬼に殺されたとか。わ、私、そんなつもり、なかったのに」


 響子は顔を両手で覆った。「ごめんなさい」指の隙間から雫がこぼれるのが見えた。誰も声を出せない。響子の、嗚咽おえつこらえる呼吸音だけが聞こえる。彼女は後悔している。何も言わなければ、花田おばさんは現実を受け入れることができたかも知れない。友達も安らかに眠っていたかも知れない。


 響子は両手を離した。赤くなった目が見える。震える唇から、やっと、言葉が出てきた。


「ごめんなさい、山岸さん。あなたのおねえさんを幽霊にしてしまったのは、私なの」


 さくらは響子の告白を聞き終えると、何も言わず俯いた。彼女も震えていた。不幸な事故だったのか、凶悪な犯罪だったのか分からないまま、少女は幽霊にされてしまった。


 榛菜は何と声をかければいいのかわからなかった。


 凛太郎も押し黙ったままだ。


 榛菜が晶をみると、彼はずっと考えている。右手は口元に当てたままだ。目も瞑っている。彼の中では、響子の話はどのように聞こえているのだろうか。


 榛菜には見当もつかない。果たして、となりに立つ少女は本当に事故で亡くなったのだろうか。妊娠が疑われる状態で、たまたま偶然階段から落ちてしまって、後頭部を強打したのだろうか。それとも、都合の悪くなった何者かが彼女を階段から突き落としたのか。そうして、どちらだったのかが分かったところで、花田おばさんや家斉先生、さくらちゃん、花田知世さんは救われるのだろうか?


 重苦しい沈黙を破ったのは晶だった。


「家斉先生。自分はデリカシーがない、無粋で無遠慮な人間です。僕なんかに真相など分かりはしないし、そんなことを判断するのはおこがましい。でも、僕は彼女たちを助けたい。だから、できることをしなければならない」


 響子は力無く彼を見た。告白を終えて、まるで抜け殻になったかのように見えた。


「家斉先生、僕から質問をしたい」


 目を開き、顔をしっかり見て、はっきりした声で言った。


「あなたは、階段で花田知世さんが倒れているところを見た。間違いないですか?」


 響子はゆっくり頷いた。


「彼女は記事に書かれていた通り、仰向けだった?」


 同様に、ゆっくり頷く。


「階段に足を向けていた?」


 頷く。


「印象だけで構わないので。外傷は後頭部だけだった?」


 考えて、頷く。


「全身が踊り場に寝ていて、階段に足がかかっていなかった?」


 頷く。


「ケースに入った重たい楽器ユーフォニアムを持っていた?」


 頷く。


「壊れているのを確認しましたか?」


 首を振る。


「ケースはリュックの様に背負えるタイプだった? 事故に遭う前、彼女はそのケースを背負っていた?」


 頷く。


「倒れていた彼女は、ケースを背中に背負ったままだった?」


 首を振る。


「では、彼女に近くに落ちていましたか?」


 首を振る。


「脇に抱えていた? もしくは肩にかけていた?」


 首を振る。


「体の前方に、抱えるような姿勢で持っていた?」


 頷く。


「他に荷物はあった?」


 首を振る。


「ふむ」


 晶はいったん目を瞑って情景を思い浮かべている様子だった。ややあって質問を再開する。


「彼女が教室へ行った理由を知っている?」


 頷く。


「教えてもらえますか」


 晶の質問攻めに少し気が紛れたのか、ようやく響子は口を開いた。


「マウスピース……ユーフォの……忘れ物だと……」


「彼女が持っていたユーフォニアムに、マウスピースがついていたのを確認したか?」


 首を振る。


「教室にそれは残っていた?」


 首を振る。


「どうしてわかるんですか?」


「彼女の机……整理したの私だから……」


「ふむ」


 彼はまた目を瞑った。榛菜には、彼がこれまでになくエンジンを回転させているように見えた。


「当時は夏休みに入って数日経っていた。教室には鍵がかかっていた?」


 晶の質問に、響子が頷く。


「なるほど」椅子から立ち上がった。

「現場を見てくる」


 凛太郎は頷き、行ってこいのジェスチャーをした。彼は残るつもりらしい。


 榛菜は、まだ俯いているさくらが気になったが晶の後を追った。学校を案内する人間が必要だろうと思ったのだ。


「灰野くん、ちょっと待って。場所、案内するよ」


「ありがとう。ではよろしく」


 そう言いつつも、彼はどんどん歩いていく。結局立ち止まらずに、2階と3階の踊り場、つまり事故現場まできてしまった。


「え、どゆこと、場所知ってたの?」


「いや、知らなかった。けれど花田さんは2年生だったから、建物の構造上3階が彼女の学年だと思った。あとは、昇降口から職員室を抜けた方向の階段らしいから、ここかなと」


 言いつつ、メジャーを取り出して階段の高さ(15センチ)、奥行き(27センチ)、幅(280センチ)を計り出した。段数は10。階段角の滑り止めの効き具合も確認している。そのあとは3階から踊り場へ飛び降りたり、2段跳びで登ったり、忙しく上り下りする。横向きに降りたり後ろ向きに登ったり、階段に寝て転がって降りようとする。滑り止めがよく効いていて滑り降りるのは難しいようだ。それを真っ暗な階段でやっているのだから、事情を知らなければなおのこと奇妙な行動に見えただろう。最終的には踊り場で寝っ転がってしまった。


「その、取り込んでいるところごめんなさいだけど、何やってるの?」


「うん」晶は起き上がり、榛菜を見た。

「マーフィーの法則って知ってる?」


「マー……あ、食パンを落とすやつ? 人生はだいたい思い通りにいかないみたいな内容だったような」


「そう。トーストを床に落とした時、バターを塗った面が下になる確率は絨毯の価格に比例するってやつ。ただのジョークに思えるかも知れないが、あれ、実はイグノーベル賞も取ったユニークな関連研究があるんだ。それによると、実際にバターを塗った面の方が下になる確率は相当高くなるんだよ。トーストを落とす高さと回転を考慮すれば科学的にそうなる。つまり、。白崎さん、ちょっとここから後ろ向きに倒れてくれないか」


 と、階段を指差す。


「嫌だよ! 怪我しちゃうじゃん!」


「ちゃんと受け止めるから。それに5段以上はやらなくていい。それ以上だと体勢が崩れて、階段に対してまっすぐに倒れられない。横になったり、うつ伏せになったり、階段に対して頭を向けることになる。1段目から4段目まででいい」


「ええー……」


 考えてみれば、さっきも階段から転がり落ちそうになったのだ。正直に言ってあんまりやりくない。かといって話の流れ的にとても協力を断れそうにもない。


「仕方ないなー」ぼやきながら階段を一段上がった。


「よし。後ろに倒れてくれ」


「ちゃんと受け止めてよね!?」


「安心してくれ」


 榛菜はゆっくりと後ろに倒れた。少し傾いたところで約束通り晶が榛菜を受け止める。月明かりに照らされた横顔がすぐ近くにあって、怖さとは別にどきりとした。細く見えて、意外に固くてしっかりしているような気がした。


「ありがとう。それくらいで繰り返してくれればいい。初速と角度の見当がついたらあとは概算で考える」


 2段目。彼はまだ思案顔だ。1段目よりも勢いが出るから、深く抱き止める必要がある。


 3段目。暗い中で後ろ向きに倒れるのは流石に躊躇ちゅうちょする高さだ。腕だけでは無理だから、体全体で受け止めなくてはならない。


 4段目。


「ちょ。ちょっとまって」


 さっきもこれくらいの高さで足を踏み外したような気がする。いよいよ怖くなってきたし、別の意味でも心臓に悪い。


「ね、もう3段まででよくない?」


「すまない。ここまでは確認しておきたい」


「んー……」もし私がジャムを塗ったトーストみたいになったらどうするつもりなんだ、と文句を言いたかったがここまできたら止むを得ない。覚悟を決めて後ろ向きにゆっくり、最悪でもお尻から地面に当たるように膝を柔らかくして後ろに倒れ込んだ。


 が、これがよくなかった。膝を曲げたために重心が変わったのだ。榛菜はバランスを崩して、これまでよりもずっと勢いがついてしまった。


 階段下で待機していた晶は榛菜を抱き止めたが、勢い余って二人で尻餅をついてしまった。


「あ、ごめん!」


 榛菜はすぐに起き上がって、下敷きになった晶を慌てて助けおこす。


「大丈夫だ、僕は問題ない。そっちは?」


「私も大丈夫」


「無理を言ってすまない」


 謝りながら彼がチラリと自分の手のひらを見たのを、彼女は見逃さなかった。


「手、怪我したんじゃない?」


「大したものじゃない。だいたいの結論が出たから戻ろう」


「だめだよ、ちゃんと消毒しよう」


 榛菜は階段横の『みんなのトイレ』へ彼を案内した。バリアフリーのため、段差がない吊り下げ式の扉だった。スムーズに横へスライドしてくれるが、風で煽られたり強く押したりすると、壁にぶつかって昼間でもびっくりするような大きな音が出る。誰に迷惑をかけるでもないが、音を出さないようにゆっくりドアを開けた。


 明かりをつけて傷口を見ると、擦れた傷からうっすらと血が滲んでいる。彼女はハンカチを渡して、彼が手を洗うのを待った。


 晶を待ちながら、それにしても、と榛菜は思う。自分が通う学校で、こんなことがあったなんて。


 階段で転んだ。たったそれだけで友達が、姉がいなくなるなんて。しかも、もしかしたら事件だったかも知れないなんて。


 自分の家族や友達がそれで亡くなってしまったら、きっと納得なんてできないんだろうな、と漠然と思った。まだ彼女はそんな喪失を経験したことはない。信じられないくらい日常的な事故で大事な人がいなくなってしまったら?


 さくらや家成先生はどんな気持ちでこの学校に来ているのだろう。


「行こう」


 晶の言葉に、榛菜は体が震えるのを感じた。彼女は改めて、この学校で大事な人を失った二人に会わなければならないのだと思った。


「さっきの結論が出たっていうの、事故か事件かわかったってこと?」


「うん。職員室に戻ろう」


 榛菜は思う。この少年探偵がそう言うのなら、実際に分かったのだろう。しかし、これが事故であれ事件であれ、果たして残された彼女たちは救われるのだろうか。

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