八 出会い
そういえば、あの女は偉い人になったんだっけ。
どういうつもりか、私に文字の読み方を吹き込んだ女。
いつの間にか見なくなって・・・いや、確か以前「所長」とか大事にされているのを見かけたような。
あの女もたった一度冗談混じりに読み聞かせたそれを、私が大事に覚えていたとは、思ってもいなかったのだろう。
ついぞあの施設で、口を利かない私に文字で説明するように要求されたことはなかった。
だから、いまだに誰も私が文字を読み書きできることを知らないはずだ。
そのはず。
目の前では、ガッチリとした男が、壁に据えられた黒い分厚い板に何やら白い文字を書き込んでいく。
それを飛鳥の横や前に並ぶ子供たちが、読み上げていく。
どうやら男は子供たちに文字を教えているらしい。
飛鳥にとって、聞き覚えこそあれ、見覚えがない文字。
飛鳥は半目になった。
あまりにも不親切だ。
私が読んでいたような本は文字が少なかった。
おそらく、この教えより、簡単なんだ。
つまり、この場で、私が最も物知らずだ。
「あれ? 飛鳥ちゃん?
前住んでたところではまだやってないところだった?
言えるかな。さん、はい」
「『慈悲深き代々国王陛下方は、”災禍”のことを、預言の魔女と呼んでいらっしゃいます』」
文字は読めない。
けれど、先ほど聞いたばかりのセリフは覚えていた。
それをそのまま声に出すと、教え役の男が「よくできました」と笑む。
間違いなく、この男は知らされていない側。
「この文は、ここにこの言葉が入っているから———」
教え役が、黒壁に白い文字や線を入れながら、説明していく。
私が文字を読み書きできないと想定されていて、これ。
なんて、考えが足りない奴らなんだろう。
それとも、書き文字の練習紙が見つかってしまったんだろうか。
まるでわからない授業をさも理解しているかのようなふりをして、飛鳥はその日を終えた。
弱みは見せられない。
たとえ、バレバレだったとしても。
そうして、飛鳥はおとなしく学園に編入し、図書室通いを始めた。
淡々と、日々は過ぎていった。
飛鳥は誰にも話しかけなかったし、同級生たちが話しかけてくることも多くはなかった。
飛鳥の排他的な雰囲気に気後れしているようだった。
ある日、校舎を出ようとした飛鳥は、雨が降っていることに気がついて、足を止めた。
古城を改修して再利用したらしい校舎は広く、エントランスホールの大きさは一般家庭の家が丸ごと入るほどだった。
重厚な扉はいつでも開放されており、その両脇には国の兵士が常駐して警備している。
正面の広大な階段や、玄関ホールには、まだ生徒たちが数多くおり、飛鳥のことを遠巻きにしている。
衛士と談笑する生徒、飛鳥に視線を送りこそこそと噂する生徒、友人と楽しそうに内緒話をする生徒。
思い思いに過ごす同級生や、年上の先輩たちなど一切合切気にせず、飛鳥は玄関先から、空を見上げた。
傘は持ってきていない。
なんて不運。
女子寮への道はそう遠くないが、好き好んで濡れたくはない。
その一瞬のためらい故に、私は玄関先で佇んでいた。
「ねえ、」
彼女が声をかけてきたのは、そんな時だった。
「君、転校生?」
いつの間にか私の隣には、黒髪の少女が立っていた。
黒。色のないそれは、北の国特有のものだったはず。
この国の仮想敵国の。
混血だろうか? 移民?
黒髪黒目の彼女は、どこか怯えを孕んだ目で、飛鳥を見ている。
「だったら何」
短い嘆息とともに、答える。
突き放すような冷たい声があたりに響いた。
少女は飛鳥の不機嫌な声に、何故だか破顔した。
その顔に滲むのは、安堵。もう不安の色はない。
?
普通余計に怖がるところじゃないの?
飛鳥は顔に出さずに困惑する。
「やっぱり! 見慣れない子だから、そうじゃないかと思ったんだ。
君すごい噂になってるよ。
僕、皆川恭。君は?」
肩までの短い髪を揺らして、少女が笑う。
「玖珂飛鳥」
飛鳥は眉間に皺を寄せて、しかし律儀に答えた。
まだ馴染みのない名前が思いのほかするりと口から滑り出る。
まだ自分の名前だと思えないのに。
皆川恭は楽しげに続けた。
「いい名前だね。ねえ、飛鳥。僕と友達になろうよ」
「ならない」
即座に切り捨てるように言った私に、彼女は呆けた顔を晒した。
「え?」
「私は誰とも友達になったりなんてしない」重ねて言う。
そうだ。大事な人は作らない。
そう決めたから。
私は固まっている少女を置き去りに、雨の中走り出した。
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