一 再誕
がらんどうの心が寒かった。
白い金属の壁、石造りの床、狭苦しい部屋のほぼ中央に水色の髪の少女が座り込んでいる。
少女の手には言語理解のための絵本。
十歳ほどの彼女にはいささか幼すぎる不釣り合いな本を、彼女は手持ち無沙汰にパラパラと捲っていた。
四面ある壁のうち、一面には等間隔の鉄の棒が並んでいる。
彼女は牢に閉じ込められていた。
部屋のあちこちには、絵本が小山となって、本来それなりに広いだろう部屋を狭くしている。
少女の隣には、丁寧にシーツが敷かれたベッドがあり、部屋の奥には衝立が置かれ、その向こうには洗面台など最低限の水回りがあった。
牢の格子の向こうには階段があるばかりで、他の牢はない。
この施設には彼女だけが囚われている。
ふと少女が絵本から薄青い目を外し、天窓を見上げる。
大人が二人がかりでようやく届くような高い天井に、小さな明かり取りの窓が取り付けられており、少女をほの明るく照らしている。
窓枠に切り取られた空では、鳥が飛んでいた。
天窓の遥か上空を飛んでいて、手のひらで抱えられる大きさに見えたが、それでも美しい鳥だとわかった。
白い羽毛は汚れひとつなく、陽に照らされて輝いて見える。
青空によく映えていた。
うまく風に乗ったのか、あっという間にさらに高く舞い上がり、白い鳥は四角い空から出て行ってしまった。
少女はゆっくり目を閉じた。
ガラスを通した日の光が暖かい。
瞼の裏には、先ほどの白い鳥が浮かんでいた。広い空を悠々と飛ぶ彼の姿が、目に焼き付いている。
まさに自由そのもの。
私とは大違い。
少女は自分と彼ら鳥を比較して、自嘲の笑みをこぼす。
覚えている限り、少女は施設の外に出たことがない。
牢に捕えられるような罪にも心当たりはなく———いや、己の得意な能力を思えば、今のモルモット扱いにも、一応の理由はつく。
世界は光で溢れている。
少女の眼には、他の人が見えないらしいエネルギーの塊がほのかに光って見えていた。
空気中に漂う糸のような細い光の流動。
人々や動植物の内から発光する炎のような美しいゆらめき。
呼吸や光合成などの生き物の生命活動によって生まれるらしいそれらのエネルギーを、少女はそれぞれ『魔素』と『魔力』と呼んでいた。
そして、少女はそれらを扱う術———彼女はひっそり『魔術』と呼んでいる———を生まれ持っていたのだ。
おそらくは世界でただ一人だけ。
生まれた時から不思議な能力を持つ彼女に、彼女の両親は恐れをなしたのだろう。
彼女がまだ赤子の頃に売りに出したらしい。
彼女の何番目かの世話役が教えてくれた。
売りに出された彼女を国が買い取って、少女はこんなところにいると。
がらんどうの心が寒い。
いつだって私を愛してくれる人はいなかった。
いつだって私を恐れる人しかいなかった。
そんな中にいて、まともな心が育つわけもなくて、少女は空っぽの心を持て余していた。
牢に捕えられて、常に枷を嵌められて、検査と称して行われる、私に痛みを与えるばかりのモルモット扱いの人体実験。
こんな状況が普通ではありえないこと、異常な環境に身を置いていることなんて、いくら世間知らずな私でも気づいていた。
けれど、普通の子が羨ましいなんて、外に出たいなんて思わなかった。
たとえ出たところで何になるっていうんだろう?
やりたいことも想像できないし、会いたい人だっていない。
もちろん、痛みや苦しみから逃げたい気持ちはあるけれど、私が逃げられるところが何処にあるってあるっていうんだろう?
外の世界に私を知っている人はどこにもいない。
どこにも私を受け入れてくれるところはきっとなくて。
私は国の所有物だから、逃げれば探されるだろうことは簡単に想像できるから。
どうでもいい。全て意味なんてないから。
私は一生施設の中で暮らし、そしていつか実験の途中でいつかあっけなく死んでしまうのだろう。
少女は最早目立った反抗すら気力を無くし、成り行きに身を任せていた。
彼女には何もない。なかったのだ。
愛も慈しみも憧れも、悲嘆も、怒りすら。
今日、その日までは。
***
少女の一日は実験に連れ出されることから始まり、気絶したところで牢に戻され、そのあとは世話役がその日のご飯を運んでくるまで放置、もしくは三日おきくらいにお風呂に入れさせてもらえる。
その日はお風呂のある日ではなかったらしい。
階段を誰かが登ってくる音が聞こえて、少女は振り返った。
実験はすでに終わり、気絶から目を覚ましたら牢に戻されていた。
やがて、ボロボロでヨレヨレの男が現れる。
体格だけは良いが、しわの寄った白衣に、濃い隈が目立つ。
私より余程顔色が悪いし、ハッキリ言って死に体のようにしか見えない。
私も少し痩せてはいるけれど、この施設で一番小綺麗で睡眠がとれているのは私だろう。
鍵の擦れる音を響かせながら、手慣れたように男は牢の鍵を開け、左手に持っていた盆を牢に滑り込ませる。
盆の上には、小さな黒パンと残り物のスープが入った器がある。
「おい、”災禍”。餌の時間だ」
牢の向こうで乱暴に男が言う。愛想のかけらもない低い声だった。
さらにイライラと舌打ちをしている。
どうも機嫌が良くないらしいと見えて、少女はまじまじと男の顔を見上げた。
いつもの世話役の男だ。確か以前にアヤセと呼ばれていた。
下の名前か、上の名前かは知らない。
呼びかけることもないから覚える必要はないし、興味もなかった。
・・・もう何年も人前で口をきいていない。
ずっと以前に魔術のことを聞かれて、その時は全てに反発していたから喋らなかった。
それがきっかけ。
以来、水責めのような拷問紛いのことをされようと、何も言わなかった。
半ば意地で、私なりの反抗の証だった。
けれど、今はもうわからない。
ただの成り行き任せ。
不満があった生活も、向こうが諦めたのか、何故かマシになって、もうどうなりたいのかわからなくなって、ただ今まで通り、声も出さず、文字も読めないふりをして過ごしていた。
ゆったりと立ち上がり、食事を手に取ろうと近づいて、気づいた。
いつもなら、食事をおいて早々に去るアヤセが、何故だかまだ残っている。
牢の向こうでこちらを見ている。
少女は足を止めて、首を傾げる。鎖の立てる耳障りな音が止む。
このアヤセという男も不思議な男だった。
いつも乱雑な口調で、私を見下してくる。
だと言うのに、言動の端々に他の研究者たちと同じ恐怖心が窺える。
私が怖いなら、大人しくしておけば良いのに、どうして下手な虚勢を張るのか。
そして、時々見せる私を憐れむような、いつもの乱暴を後悔しているような態度。あれは何のつもりだろう?
「お前も可哀想になあ・・・」
一瞬、少女は、彼がこちらを見下して嘲っての発言と誤解した。
しかし、その眉尻の垂れ下がった眼差し、声の柔らかさに、すぐに理解する。
この男は今本当に私を憐れんでいるのかもしれない。
それはそれで釈然としなかったが、聞くだけ聞いてやろうとは思った。
余裕があったのだ、まだ。
「預言の魔女に生まれたばっかりに、こうしてここに閉じ込められて、その上・・・」
アヤセは暗い顔をして黙り込んだ。
預言の魔女?なんのことだろう?
彼女は、———”災禍”と呼ばれる少女は、弾かれたように顔を上げて、アヤセを見上げた。
それが私がこんなところにいる理由なんだとしたら・・・。
そう思ったら、黙ったままではいられなかった。
「よげん、って、なんのこと?」
本当に久々に出した声は酷く掠れていた。
長い年月、ほとんど口をきいてこなかったのに、幸運なことに私の体は声の出し方を忘れていなかったらしい。
聞き苦しいが、なんとか聞き取ることはできるだろう。
アヤセは私が口をきいたことに目を丸くし、ぶるりと肩を震わせた。
「ねえ、預言って、なに?」
もう一度重ねて問う。先ほどより滑らかに話せた。掠れもマシになる。
アヤセに目を合わせる。
怯えているようだったけれど、それでもじっとアヤセを見る。
どうしても知りたかった。
私がこんなところにいる理由なんて、あったの?
私だけが知らなかったの?
私が怖がられるのは、魔術が使えるからじゃないの?
「カ、カナタ様の最期の預言だ! お前は何も知らないんだな。この国を災厄が襲う時、類稀なる力を持った魔女が命をもって救ってくれるって話だ。カナタ様の預言は外れたことがないらしい。確かに預言通りお前は生まれた・・・なら、災厄も起こる。だから、お前は生きてなきゃいけないんだよ、いつか俺らを救うんだから!」
苦しげな様子はどこへやら、アヤセはすっかりいつもの調子を取り戻し、私を恐れながらも嘲るように言う。
「は?」
我ながら冷たい声だった。
アヤセが言っていることが理解できない。
言葉はわかる。意味もわかる。そこに込められた思いがわからない。
受け付けない。
何を言っているんだ、この男は!
どう言うつもりなら、そんなことを私に平然と言えるのか。
ありえない!
ふざけないで!
カナタ様とやらの預言がなんだって言うの!?
そんなことで私はこんなところにいるの?
実験されなきゃいけないの?
虐げておきながら、なお当然のように救われようというの?
私の方が助けて貰いたいぐらいなのに!!
渇望した温もりをとうに通り越して、焼け落ちるかと思うほどの業火が身を焦がす。
それぐらいの怒りが、憎しみが、少女の中で暴れ狂っていた。
少女が激しすぎる憤怒によって言葉を失っているというのに、アヤセはその様子に気づいていないのか、常のように虚勢を張って、少女を煽った。
「感謝しろよ。お前のような不気味で、災厄を呼ぶような奴を生かしてやってるんだから。なあ、”災禍”? 嬉しいだろう?」
目の前の男がただただ憎たらしくて、思わず私を手近にあったものを掴んで、振りかぶって投げつけた。
魔術を使う気も起こらなかった。
私の頭は血が上ってドクドクと煮えたぎっていて、そんな発想が湧いてくる余裕さえなかった。
偶然にも投げつけたそれは、するりと格子を抜け、うまくアヤセの額に当たってくれた。
男はずるずると床に蹲る。
痛がっているのを見ていると、ほんの少し胸のすく思いをした。
怒りと興奮で息が荒れ、瞳孔が開く。
ふと投げたものに目をやれば、それなりに分厚い本だった。
ああ、あれは痛いだろうが。よく柵を抜けたものだ。偶然ってすごい。
まだ脈は疾いまま。
長い間静まっていた反発心はすっかり復活した。
私は衝動のままに立ち上がって、格子の向こうで蹲っているアヤセを見下ろした。
アヤセが恐怖に満ちた目で私を見上げる。
視線が絡まり合い、アヤセは固い顔をして、私から視線を外せないでいるようだ。
獣のように必死に呼吸しながら、少女は怒りを制御しようとした。
しかし、それ以上に、ふつふつと憎悪が湧き上がってくる。
これに比べれば、不条理に反発していた頃だって、何も感じていなかったのと同じだ。
今の今まで職員たちに大して思うところがなかったのが嘘のよう。
私は結局こいつらを恨んでいたらしい。
何もかもがひどく馬鹿らしく、身の内で荒れ狂う激情も言葉にはならない。
今の私はさぞかし暗い澱んだ目をしているだろう。いや、逆に獰猛に輝いているのかもしれない。
どちらにせよ前までの空っぽの目より、よほど生き物然としているだろう。
生まれ変わった気分だ。
長い悪夢を見ていたように、最悪の目覚めだった。
私はアヤセを冷たく睨み据える。
「こんな国滅んでしまえばいい」
誰が助けてなんぞやるものか。
詰まるところ、それが私の本心の全てだった。
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