8話 小笠原遥 エピローグ

 好きな人の話をしよう。

 その子の名前を、諏訪原蜜音という。


 彼女は僕にとって、子どものころからの友達だ。幼馴染って言い換えてもいい。

 初めて彼女とちゃんと知り合ってからの印象は、小動物の一言に尽きる。

 いつもビクビクおどおどしていて、いつも誰かの陰にいたがる子だったという記憶がある。


 彼女とは、ふつうに会話するということがそもそも至難の業で、小学校時代を通してその栄転に浴していたのはわずかに僕ともう一人だけだった。

 そうでない他人が蜜音に気まぐれで接しようなどと考えても、ひきつった顔して逃げられるのが関の山だ。


 小学生なんていうものは通常、そんな子どもは面倒くさがって相手しない。そういう相手とも我慢して付き合おう、というような社会性の訓練は終わってない。

 だから小学生のころの同級生による蜜音の評価は、だるいやつ、うぜえやつ、となる。


 仲良くなって話す分には、真面目すぎて融通がきかない部分がある以外は、本当にどこにでもいる女の子でしかなかったんだけれども。

 むしろ、同年代より思慮深くて、話すと楽しい相手だったと思う。

 自分が口にする言葉に、なにか重大な価値を感じていて、一言を発するまでにそれに纏わる百倍の思考を終えている。小学校のころから、そんな子だったなと今になると思う。


 さて。


 あけすけで、無遠慮で、距離感の把握がおかしかろうとも、とにかく他人と関わる積極性のみが友達を呼び寄せる、そんな幼獣の季節は去った。

 僕たちは第二次性徴を越えて、獣から人へと脱皮する過渡期を迎えた。


 そうなってくると、他人への評価基準も変わる。それも革命的にだ。

 ビクビクした態度は遠慮深さと取られるようになり、人の顔色を見る姿勢はこちらの気持ちを推し量ってくれるやさしさとして変換される。

 いや。子どものころは臆病の顕れでしかなかったはずの蜜音のそういった性向は、このころには実際に、やさしくて物静かで他人を思い遣るという、美徳としての実質を備えはじめていたように思う。


 どうしてかといえば話は簡単で、蜜音が自信を持ち始めたからだろう。


 誰より傷つきやすく、みるからに脆い少女だった蜜音は、きっとあの小学校時代のままであれば人と上手く付き合うこともできなくて、孤独のうちに自傷の青春にたどり着いていた。

 そうはさせなかった奴がいる。

 村上瞬。

 名前の字面だけ見たら男子みたいな、僕のもう一人の幼馴染。


 一言でいって美少女だ。僕らの田舎町の中学じゃ、その美形は隔絶していたとさえいえる。鼻が高くて目元が怜悧で、顎の形が小さい。

 作られた人形のようでさえある美を誇っていた。

 その美を磨くことにも抜かりはなくて、例えば小さな子どもが床屋さんではなくて美容室へ行くようになることは、その子が色気に目覚めたというひとつの指針だろうけれども、その時期が仲間内で一番早かったのも瞬だった。

 瞬の家はそんなにお金があるほうでもない。だけど彼女の母親は瞬が美しい少女であることがとにかく自慢で、それを伸ばすためなら手間もお金も惜しくないという人だった。


 その外面に反して、ひどく性格が悪い。

 物言いがキツくて大方の他人を無価値と見下していた。それを面と向かって本人へいうほど愚かではなかったけれども、瞬と接する人はみんな自然と彼女を恐怖するようになっていた。違うな、畏怖か。

 誰もが瞬を立てて、敬った。そうしなければ学校という狭い世界でたちまち立場を喪失させられるだろうとみんな思っていた。そしてそれは、たぶん事実だ。


 なんだったら、僕だってその一人に過ぎない。

 一応の幼馴染ではあるからよく遊んだりもした。しかし逆をいえばそれだけのことで、瞬にとっての僕という人間は、その他大勢に朱塗りの一筆を加えた程度のものでしかなかった。


 そういう瞬は、蜜音にべったりだった。

 まさに文字通りの意味でだ。僕は、授業など除く自由な行動の時間に、この二人のどちらかが一人でいるシーンというものを見たことがない。嘘じゃない。本当にだ。


 蜜音のなにがそんなに瞬の琴線に触れたのかはわからない。

 ただ、他人を見るとき、美しいだけのガラス玉のようにすら感じられる無機質な瞬の目が、蜜音と一緒にいる場合だけ、明確に熱を持っていた。

 瞬はそんな目で蜜音を見ていた。小学校のころから、ずっとだ。


 だから蜜音は守られていた。いじめなんてとんでもない。悪意あるものは彼女に近寄ることさえできなかった。

 瞬にとっての蜜音は誰の目にも明らかに特別な存在だったから、瞬の前で蜜音についてとやかくいう人なんて一人もいなかった。村上瞬という少女と自分から敵対したがる勇気の持ち主は、絶無だった。


 蜜音はそんな強固な、ひよこの成長を守る卵の殻じみたバリケードに守られながら、ゆっくりと心を育てていた。

 ただ臆病であったはずの小動物は、知らぬ間に他人への思いやりが深いやさしい少女になっていた。

 そうなると、みんな蜜音に注目しはじめる。


 瞬のそばに侍ることは辛いことだ。みんな、瞬の前では自分を奴隷にしてしまう。いつも瞬の機嫌を伺って、言いたいことも言えない。

 そこに蜜音がいると話が変わる。他人を簡単に否定したりせず、自分の自慢話などもまったくしない。一度聞いた話はそれが誰のものでも忘れることなく、いつでも相手の心に寄り添った答えを与える。そんな蜜音がいると、途端にその場の空気がやわらいだ。


 遠慮深くておとなしく、そしてやさしい蜜音は、控えめにいってそのうえ可愛いらしい。

 二人の姉がともに美人だから、顔かたちが整っているということはもちろんとして、体つきが折れそうにほっそりしていて、肌が透き通るように白い。

 小動物めいて見えていた大き目の瞳は、あまり多弁でない口を補うように、くりくりとよく動く。

 本人としてはやたらとそばかすがあることを気にしていたけど、僕たちの年代ではそんな特徴は珍しいことですらない。彼女の外見的魅力を損なうにしても、影響は極めて小さかった。


 そんな風に、諏訪原蜜音という人はいつしかとても魅力的な人になっていた。

 かくいう僕も、このころにはもうはっきりと蜜音に惹かれていた。

 男子も女子も、みんなもっと蜜音と仲良くしたがっていたけど、村上瞬という女のハードルの高さは尋常じゃない。


 女子でさえ蜜音と友達になるには瞬の選別を受けていた。

 具体的にいえば、他人に対して攻撃的な性質を持っていたり、口を開けば何かの否定から始まったり、そういう『性格の悪い』女子は最初から蜜音のそばにいることを許されなかった。

 とはいっても、中学生だ。コミュニケーション能力はまだまだ拙い。自分を高く見せるために人を貶めるようなことを言ってしまうのは、普通のことでもあったはずだ。

 それでも瞬は排斥した。瞬が排除の対象とした女子というのは、僕が見るに実は彼女とよく似た内面の持ち主ばかりだったように思うが。要するに、キツくて嫌なやつだ。自分以外のそんな女が蜜音の近くにあることを、瞬は許容しなかった。


 男子に至ってはもっとひどい。門前払いというやつだ。性格云々なんて一切関係ない。蜜音に色目を使うどころか、その可能性があるというだけで、瞬の意向を受けた女子たちに睨まれた。

 中学生男子なんて、たぶん人生で一番、女子のことが怖い時期だ。みんな、指をくわえて蜜音を見ているしかできなかった。

 僕はその時期でも唯一、蜜音と友達付き合いができていた男ではあった。それが幼馴染という特別枠で、まだ瞬による選別が激化する以前にたまたま滑り込めていたという幸運の産物に過ぎないことを、僕はよく自覚していた。


 ところで、僕たちのクラスの男子は、中学生としてはとてもお上品だったように思う。

 学校で猥談なんてもっての他だった。

 それはなぜかといえば、瞬を中心としたクラスの女子の結束が、蜜音の前でそんな話をさせない空気を醸成していたからだ。


 蜜音は相変わらず守られていた。その気運は、ある程度の時期からはもう瞬だけが発するものではなくなっていて、クラス女子の共有意識だったように思う。諏訪原蜜音というお姫様を守るナイトは当初、瞬ひとりだった。それがいつのまにか騎士団のようになっていた。


 自然と、男子は蜜音の前でおかしな言動は取れなくなる。

 そうでなくたって、蜜音はひどい恥ずかしがりで、そういうことにまったく耐性がない潔癖な少女とみられていたから、彼女の前で性的なものを匂わせる振る舞いをすることは、僕たち男子にはとても憚られた。


 諏訪原蜜音が好きだという男子は多い。

 だけれども、告白などしてはいけないという暗黙の了解が、出来上がってもいた。彼女はそういう人ではないのだ。そんな風に考えてはいけない相手だった。


 高校になると僕は野球部に入った。

 それまで野球経験はなかったけど、とにかくスポーツに打ち込んでみようかと思ったのは、ひとえにはもっと男性っぽくなってみたいという欲求があったからで、蜜音や瞬にもそのように伝えていた。まあ、自分でも自分をなよなよしていると思っていたのは事実だが。

 しかし実際のところは、蜜音への想いを振り切って忘れたかったからだ。なんでもいいから没頭していたかった。


 ある時期から、僕は気づいていたことがある。


 蜜音は、瞬のことが好きだ。

 それも明白に恋愛感情として。


 蜜音のことばかり見ていた中学時代だったから、いやでも気づかされた。

 ふとした瞬間に、気づかれないように瞬の横顔を見る目が濡れていた。極端な湿度と熱を伴うその視線が、ほかの誰にも向けないものであることはすぐにわかった。


 それと明らかに肉体的な接触が増えていた。本人としてはさりげないつもりだったのだろうが。

 先生と話すときなんかに、瞬のやや斜め後ろに控えて、彼女の服の裾を掴んだり、その手を触ったりしていた。

 そんな甘えたような行動を蜜音がするのは小学校低学年のころ以来で、蜜音の心境に何かしらの変化が生じたことは明らかだった。


 女子同士なのに。

 と、思ったことは否定できない。

 しかし、同時に納得もいっていた。

 瞬が蜜音にしていたように、あんなにも全力で大事にされたら、誰だってその相手に特別な気持ちを抱かされざるを得ないだろう。


 蜜音の恋を育てたものが、長い時間と熱意を傾けて瞬の注いだ栄養だとしたら、もうすべては手遅れで、いまさら誰も追随できない。

 ああ、諦めないといけないんだなと、自然と思わされたものだ。


 だから僕は野球を頑張った。というより、いまだに疼く自分の恋心に蓋をするために、そのことを考えないで済む時間が必要だった。

 高校から始めた野球だったが、僕はどうやら適正があったようで、1年生だけど補欠になれた。

 まあ、田舎の高校の弱小野球部だからってことも大きいけれども。そのまま頑張っていたら、2年でレギュラーを取れた。


 どうしてそんなことを思いついてしまったのか、自分でよくわからない。

 ただ、伝えられることなく僕のなかで腐って果てようとしているその気持ちが、せめて顔だけでも彼女に見せてくれと呪いの声をあげたのか。


 僕はあるとき、次の夏大会でもしも県予選まで進めたら、蜜音に告白してみようと思う、と言った。

 瞬に。

 どうしてか、蜜音に対してそんな行動を起こす場合には、まず瞬の許可が必要であるように思えたからだけど。


 瞬はといえば理由はわからないが、ものすごく驚いた顔をしていた。

 僕が告白まで踏み切るとは夢にも思わなかったからなのか、それとも、僕のことなどどうでもよすぎて、そもそも僕が蜜音を好きだってことに気づいてすらなかったからなのか。いや、まさかいくらなんでもそれはないよな?


 告白成功の可能性は1ミリもない。蜜音の気持ちが誰に向いていて、それがいかに強固なものか僕は重々承知している。

 幼馴染としての僕は男子のなかではわずかなアドバンテージを得ているが、その『わずか』というものが自分で哀れになるくらい微々たる上積みでしかないことも、よくわかっている。

 だから、これは告白というより玉砕に近い。


 そして自分でも姑息だなと思うけど、目標設定が県予選のベスト〇〇とかではなく、あくまで出場なところが志が低い。

 うちの高校は弱小ではあるけど、どこの学校と戦っても必ず負けるというほど弱くもない。団栗の背比べな地区大会を突破して県予選までコマを進めるだけなら、僕の見立てで勝率50%というところだ。


 あらかじめ敗北が約束されている告白という儀式をするための条件としては、ちょうどいいと思った。

 こんな根性だから、たぶん僕の恋は死んだのだ。


 僕の言葉を聞いて、瞬は顎に手をあて、しばらく何か考え込んだあと、とんでもないことを言い出した。


「告白するのはいいんだけど。遥って、彼女作ったことないでしょ? 私で練習してみない?」


 僕がどんなに驚いたかわかるだろうか。

 僕が蜜音に告白するという話が、どう巡り廻れば瞬と付き合うなんて話に落着するのか、全然意味がわからなかった。


 誰の目から見ても明らかなこととして、瞬は蜜音が好きだ。

 学校では無論のこととして片時も離れることなく、他の誰にも向けないやさしく熱い眼差しでいつも蜜音を見ていて、その思いやりは蜜音に対してだけ重々しく振舞われていた。

 土日休みや祝日という通常なら学校の友達と会うこともない時間を、幼馴染をいいことに必ず二人きりで逢瀬している。


 あれが愛情でなければいったいなんだというのか。いまはまだ意識的に付き合うという段階にまで進めてはいないようだったけど、ただ付き合うという形式をとっていないだけで、この二人はどうみても両想いだ。

 そんな瞬が、僕と付き合う?

 なんで?

 本当に、なんで? って感想しか持てない発言だった。


 だけど僕は了承した。なんとなく、なんで瞬がそんなことを言い出したのかってことに興味を持ったから。

 クラスでも交際を宣言した。何度か手をつないだりもしたし、二人で遊びに行ったりもしてみた。それこそ儀式的なこととして。

 僕の感情は瞬に対しては少しも揺れることがなくて、瞬は僕以上にいつもつまらなそうだった。


 それから一ヵ月ほど付き合ってみて、ある日突然、「別れようか。つまんないし」と言われた。そうだろうな、と僕も思った。僕もつまらないし、くだらないと思ってた。その際、こんなことも言われた。


「……あー。一応、遥には言っとくか。なんか私、蜜音のこと好きっぽいんだよね」


 知ってるよそんなの。と返せばよかったのか。

 まさか自分で気づいてなかったのか!? と、率直なそのときの感情を伝えたらよかったのか。

 いや、本当に驚いたんだ。人生であんなにびっくりしたことはなかった。たぶん、もう一生ないと思う。


 あんな態度で一人の相手に執着し、尽くし続けておいて、自分の気持ちを自覚してなかったって、そんなこと有り得るのか?

 もともとよくわからない女だったけど、本格的に村上瞬というのが何者なのか正体不明に思えたものだ。


 とはいえ、これはもう本当に終わったと思った。

 この実行力の塊のような女が恋を自覚したのだ。諏訪原蜜音は必ず絡めとられる。ばかばかしくて、告白しようという気持ちさえ消し飛ばされた。

 僕の恋は、芽が出るどころか言葉にされる暇もなく、ひっそり葬られた。


 僕の夏大会も不甲斐ない結果に終わって、夏休みも瞬く間に過ぎ、指折り数えるまでもなく修学旅行の時期がきた。

 その間、僕たちの村では信じられないことが起き続けていて、どこにでもある山間集落だったはずのものが、やたらに浮ついたピンク色のオーラに包まれたいかがわしい村になったりしてたけど。僕には特に関係のない話だ。


 移住者ラッシュがあって、寂れた村が異様に賑やかになったりもした。というか、村がピンク色になったのはこの人たちのせいだ。

 一ヵ月以内の短期間に40人以上も転入者がある村なんて、日本でここだけだと思う。たぶん日本記録だし、以後破られることもない。

 もちろんそれは異常も異常の事態であって、村の年よりたちは大騒ぎしていた。諏訪原のとこの娘のせいだ、なんて言ってた人もいた。論拠がスピリチュアルに過ぎて、ほとんど相手されてなかったけど。


 そんな異常事態の発端を作ったのは、夏休み前くらいにいきなりこの村へ来た嵯峨野芽衣だろう。

 最初は村での番組撮影で来ていたはずの彼女は、なぜだかそのまま居残って、蜜音の姉である一花さんと内縁の妻状態になってしまった。


 うちの親や瞬のところのお母さんはそれに対して結構な陰口を叩いていたらしいけど、移住者たちによって村のムードが染め上げられるに従って、まるで何事もなかったようにすわはらさんちに通うようになっていた。

 瞬のお母さんなんか、もともとそんなでもなかったはずが、嵯峨野芽衣の大ファンになっていた。もともと、芸能人みたいな特別な存在に目がない人だったんだろうな。瞬への扱い方でわかってはいたことだ。


 そんなわけで、そろそろ秋だというのに、うちの村はいま半年早い春の気配だ。傷心の僕をよそにして。

 もう、村のなかを歩いてるだけできつい。


 母校である小学校の前を通りかかる。

 僕らのころよりさらに生徒数が減少してしまって、廃校が検討されていたようだけど、今の村の気配だと近々にベビーラッシュが起きそうなので、生徒数が戻るかもしれない。僕らの時代よりたぶん1学年あたりの人数は多くなる。


 ……思えばここで初めて蜜音を見たとき、もう僕は彼女のことが気になっていた気がする。自覚なく、この子を守ってあげたいって感情を持ってもいた。

 しかしそんな小学1年生のあやふやな気持ちがなにか形になる前に、異様な行動力で蜜音に関わるすべての席を一人で埋めてしまったやつがいて、だから僕もそのほかの人も、蜜音にとっての何者かになるための隙間を見つけられなかった。


 もうすべては過ぎた話だ。





 修学旅行って、今だと公立でも韓国なんかの海外に行くことがそんなに珍しくないし、そうでなくても沖縄とか北海道とか、とにかくふつうにはなかなか行けない遠隔地へ連れてってもらえるイメージだけど、うちの学校はお金がないのか京都旅行になった。

 初日の目的地である嵐山へと向かうバスの座席は、僕のすぐ後ろが蜜音と瞬だった。

 冗談だろ、やめてくれよと思わざるを得ない。


 僕と瞬が付き合ったときのように、あえての宣言なんてわざわざしたわけでもないが、ふたりがもはやただならぬ関係に進展したことはイチャイチャを隠しもしなくなったことで公然となっている。

 それに対するクラスの反応は、女子たちがお祝いムードで、男子たちは諦めとか納得が半々。瞬や蜜音のことが好きだった男子は引きずるだろうな。僕みたいに。

 女子同士であることに驚いてるのは一人もいなかった。そうだよな。今更すぎる。


 そういうわけで、いま僕の後ろの席で、二人はずっといちゃついている。ずーっと、ずっとだ。

 仮にも学校行事なんだから止めたほうがいいんじゃないかと思うけれども、引率の担任は見ないフリをしてる。たぶん瞬が怖いからだろう。気づいてないってことはないはずだ。


 僕がずっと好きだった女の子が、一瞬だけ僕の彼女だった女に構われて、女の声ではしゃいでる。

 こんな地獄の責め苦めいた修学旅行があるだろうか。

 泣くな、泣くな。男だろ。

 そんな時代錯誤な気持ちを自分に強制しながら、上を向いていないと本当にうっかり泣いてしまいそうだった。


「そういえば蜜音」

「なに? ちょっと、やだって、こんなとこで触るなっ……もう」

「あんたの名前の意味、私は最近しみじみわかったんだけど」

「……はあ? なにいきなり」

「いや、あんたのあのときの声って甘すぎて。マジで蜜の音って感じ。脳みそとろける。この名前好きだなあ私」

「……しんじらんないっ、アホ瞬っ、みんなの前でそんなこという!? ほんとにばかっ」


 いやほんと信じられないよ。小声だから、前の席に座る僕とその隣の女子にしか聞こえてないだろうけど。修学旅行バスのなかでその会話する?

 あ、もうしちゃってるんだなとか。

 めまいするほどオッサンくさい瞬の物言いだとか。

 抵抗の素振りをみせつつ、素振りだけで実際は上ずってうれしそうな蜜音の声色だとか。

 『みんなの前』でさえなければ、それを言ってるのが瞬だから、このオッサンくささも蜜音的にはアリなんだ、とか。


 筆舌に尽くしがたいって、きっとこういう心境だ。


 という概念がある。

 中学のときに蜜音と同じクラスだった男子連中は、いまだに女子の前で浮ついたことや下品なことを決して言わないようになっている。その戒めはほとんど習慣として彼らに染みついているんだけど、そのことが紳士的でやさしく映るらしくて、蜜音とクラスが別れたあとの彼らはみんな、今ではそれぞれ彼女持ちになっている。

 僕はといえば、たぶん10年前に始まった初恋にいまだに縛り付けられていて、いまはこんな思いをしている。


 あー。

 ダメだ。

 やっぱ涙出る。


「はあ。……彼女、ほしー」


 僕は、泣き笑いで車窓の外を見た。

 何を祝ってるんだか知らないけれど、抜けるような青空がどこまでも広がっていた。

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恋はすべてをぶち壊す 海山馬骨 @bakatsu

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