7話 その感傷に名前をつけるとしたら、しあわせでしかない

 あたしの手にかかったカップルが、そろそろ50組目という節目に差し掛かろうかというころ。

 あたしが学校へ行かないうちに夏休みも過ぎて、日没が早くなりはじめた、それでもまだまだ暑い、晩夏の夕暮れだった。


 瞬によって破壊された窓ガラスはきちんと修復されて元通り。ただしいちねえは、瞬にもその親にも支払いをさせなかった。あまり裕福でない彼女の家庭に負担を持たせたくなかった、って一因もあるだろうけど、何よりいちねえ自身が一連の出来事を自分の責任で終息させることにこだわったから。瞬は黙ってそれを受け入れた。


 いまその窓は全開に開け放たれ、あの日のように風を部屋へ引き込んでいる。

 その風にときおり髪をはためかせながら、あたしのベッドに座ってあたしの枕を抱きしめた瞬が、その匂いを嗅ぎつつ言った。


「じゃあそろそろいいよね?」

「なにが」


 と、返しながら、その主語も何もかもをすっ飛ばした問いかけの意味を、あたしはちゃんとわかっている。

 どうしても勇気が持てなくて、逃げ出したくて、知らないフリをしたいだけだ。


「もうあんたのばっくれに付き合う気ないから。証明も、もう十分。データは揃った。あんたの能力は触った人に『即日』で運命の人を引き合わせることで、例外は一個もなかった。翌々日にずれこむって程度の遅れすらひとつもなかった。証明終了ってやつ」


 待って。と言っていまだにあがきたいあたしは、その見苦しい抵抗に反して、瞬のすぐ横で同じくベッドに体育座りしている。

 すでにして距離が近い。

 だいたいにして、外で会うという障壁をなくし、当たり前のようにこいつを部屋に上げてしまっている時点で、何をかいわんや。


 瞬がこの家に近づくことを止めていたはずの瞬のおかあさんは、自分自身が目をハートにしながら毎日のように芽衣さん詣でをしに来ているので、もはや瞬のストッパーにはなり得ない。まあ、自分の娘があたしと付き合ってるとまでは思ってないだろうけど。


 もう何もかもが無駄な抵抗であることを悟りながらも、あたしはいまだ脳裏に引っかかるものを引き寄せて、最後の反抗作戦に打って出た。


「あ。そうだ。本当に待って。思い出した。ねえ聞いて瞬」

「なに」


 あたしのほうへ身を乗り出して、肩へ手をかけようとしていた瞬の動きが一応止まる。

 声だけに若干の不快をにじませながら、しかしその顔は明らかに面白がっている。

 こんなのがあたしの悪あがきであることも、あたしがもう死に体であることも、完全に見抜いてるって顔だった。頭くる。


「こ、幸太くん。ほら、瞬も覚えてるでしょ。ふたねえの旦那さんの」

「うん、それが?」


 余裕たっぷりの表情でにやにやと、瞬があたしに続きを促す。

 もうすぐあたしが手に入ることがわかってて、それまでの引き延ばしを楽しんでやろうって感情を隠す気もない。このやろう。


「あの人。ふたねえが『運命の人』に会った当日は、何もなかった。同じ日にあたしと接触してたのにだよ? 確かに、たぶん幸太くんも『運命の人』には会ってたと思う。それらしいとこは見たから。でもそれって、ふたねえの次の日のことで」


 言いながら、あの日に幸太くんに刻まれていたキスマークをあたしは思い浮かべていた。

 ……ああいうことを、いまからあたしも瞬にされるんだろうか。

 つい、そんな連想をして、背筋にぞわぞわと、なにかが駆け抜ける。それが期待に似ていることを認めたくない。


「だから、タイムラグがある。ね?」

「なるほど。それはゆゆしき懸念だわ」


 逆に。能力の発動が『即日』である証拠がこんなにも積み重ねられてしまった今となっては。

 幸太くんのほうこそ、なにかしらの事情があってのレアケースに過ぎないと証明されてしまっているようなものであり。

 それを十分にわかっている瞬は、一見あたしの意見を認めてくれているようなことを言いつつ、さっきからの余裕の表情が少しも崩れない。


「じゃあ幸太さんでも二葉さんでもいいから、電話して詳細を聞いてみようか」

「い、いやあ。あっちのお宅もいまはデリケートな時期だろうから、聞けないってそんなの」


 そのとき、あたしの部屋のドアがノックされた。


「みつねー? ごめん。邪魔する気はないんだけど、これはすぐに教えたほうがいいなってことができたから、ちょっと出てきてくれる?」


 最近めっきり明るくなったいちねえの声だ。

 あたしは、とりあえずでも瞬から逃げられることを感謝して、すぐに出た。


「全然そんなの気にしなくっていいよ! どうしたの?」

「これ見て。ちょっともう、あたし意味わかんなくって」


 そう言いつついちねえがあたしに渡してきたのは、一枚の絵ハガキだった。

 ちょっと高級そうな質感の紙には、写真が印刷されている。そこには真っ黄色かつとにかく可愛いポップな字体で、こう記されていた。


『わたしたち、離婚しました!』


 逆だろ。それは結婚報告のノリだろ。

 写真に写ってるのは四人の人物。そのうち二人は満面の笑顔でピースサインをくっつけているふたねえと小雪さんで、あとの二人は見たことのないホスト風のイケメンと、そのイケメンに肩を抱かれて頬にキスをされながら、顔を赤くしてそっぽを向いている幸太くん。

 なんだこれは。なんだこれは。どういうことだ。


「へー。離婚したんだってさ。デリケートな時期終わったね。じゃ、電話しようか」


 その冒涜的なほどインモラルなハガキを、わなわなと震えながら見ていたあたしに、後ろから絡みついて抱き着いてきた瞬が、あたしの手にあるハガキを見るなり言い放った。

 ああ神様。あなたって人は、ほんとうにくそったれです。どうか地獄へ落ちてください。




            ※   ※   ※




『あ、みっちゃん? ひさしぶりね! ごめんね、そっちも大変だろうに電話もできなくて。こっちもすごかったのよ。聞いて聞いて!』


 実際久しぶりに話したふたねえはちょっとこっちが引くくらいのハイテンションだった。

 そんなに幸太くんと離婚したのがうれしいのかよぉ……。


 ふたねえと小雪さんの進展は、いいや。もう甘ったるい惚気話のオンパレードだったし。砂糖吐きそうってこういうことだな。

 あたしが聞きたくないけど聞かなきゃいけないのは幸太くんの話のほうだ。


 ふたねえが語られた、ホスト風イケメンさんのお話をまとめると、こんな感じ。


 あのホスト風イケメンは木曾旭さん。ちなみに源氏名はアキラらしい。どうでもいい。まあ、見たまんまホストだそうだ。

 ふたねえが小雪さんと運命的な出会いを果たしていたあの日、実は旭さんは、それよりよっぽど早く幸太くんに出会っていたのだ。

 

 幸太くんは出勤が早い仕事だ。ほとんど未明といっていい時間に家を出る。真夏だから今時期なら日が昇りかけているけど、基本的には真っ暗なうちに出勤して明るいうちに家に帰る仕事である。

 そんな時間帯はホストにとっては仕事納めのタイミング。その日、所属するお店でナンバーツーである旭さんは、月間売り上げでナンバーワンに勝利するため、かなり無茶な飲みかたをしていたという。


 満を持しての勝負だったにも関わらず、結局は売上で届かなかったうえ、飲みすぎで前後不覚に陥った。

 路上でゲロを吐きながら、こんな新人のぺーぺーみたいな無様晒して、何をやってるんだ俺はと自己嫌悪と敗北感に苛まれていたとき、「大丈夫か? あんた」と、そっとミネラルウォーターのペットボトルを差し渡された。そのひとが幸太くん。


 自分がホストとして見られた状態じゃなくなっていることを自覚していた旭さんは、礼をいいながらも自分の顔を隠してた。

 しかし幸太くんのことはガン見していた。地上に舞い降りた天使に見えたという。ああ、はいはい。いつものやつ。


 そのあと家に戻って昼過ぎまで寝た旭さんは、目覚めたあとに、どうにかもう一度彼に会えないかと願った。

 高級マンションのベランダに立って、そんなことを考えていると、退勤してきたらしい幸太くんを見つけた。運命だと思ったらしい。それはそう。


 そこから鬼のような速度で部屋を走り出た旭さんは、向かったほうへ見当つけて、幸太くんのあとを尾行した。

 ストーカーされたことは死ぬほどあっても、他人をつけたのは人生で初めての経験だったらしい。

 そこで、小娘の出迎えを受けてボロアパートに入る彼を目撃して、大変なショックを受けたという。それあたしだ。ごめんね。


 そのままお店に今日は休むことを連絡した旭さんは、そこから張り込みの刑事よろしく、幸太くんの部屋の監視を始めた。夜職だけあって夜は得意中の得意だ。何時間でも見張っていられた。あんなに早い帰宅だったんだから、一度は出かけるかもしれないし、そのときに何らかの接触を持てはしないかとの期待を持って。


 結果的にはその日のうちにアパートのドアが開くことは二度となかった。あの日の幸太くんはあたしとゲームで遊んでくれたりご飯作ってくれたりで、その日一日が終わってたからなあ。


 部屋のなかであの小娘と彼が何をしているのか、それを想像するだけでギリギリと締め付けられるほど胸が痛む嫉妬心に、旭さんは非常に戸惑ったんだそうな。彼は幸太くんに会うまで自分がゲイである認識などなかったし、むしろ極度の女好きだと思っていたからこそホストという職業を選択していたから。


 翌朝、というには早すぎる時間帯に思い人と小娘が連れ立って部屋を出てきたところまで旭さんは確認している。そこから彼は、迷わず幸太くんのあとをつけていった。幸太くんは、出社途中で多目的トイレに入った。もちろんまだ薄暗い時間帯のことだ。車社会な田舎町で、車を持っていない幸太くんは歩いて通える範囲の会社に行っている。逆をいうと、出勤時間に関しては交通機関の事情に左右されないので融通がきく。


 旭さんは当然のように、幸太くんのあとに続いてそのトイレへ入った。こんな時間に田舎都市の公衆トイレで他人とニアミスすることなんてない。本当なら少しは驚くような出来事にも幸太くんは無反応で、じっと手洗い場の鏡を見つめていた。

 その鏡ごしに見た表情は、昨日見た幸太くんと別人に思えるくらい、暗く暗く沈み込んだ目をしていたという。


 ひどく傷ついて、いまにも死んでしまいそうな幸太くんを見ていられなかった旭さんは、その日そのまま、そのトイレで思いを遂げてしまったのであった。え。いまだいぶ一足飛びに話飛んだ。マジで? この展開でしちゃうの?

 はじめは嫌がって暴れていた幸太くんも、旭さんに熱い思いを告げられると、なにもかも諦めたように力を抜いて受け入れてくれたとか。……それ、レ……。

 まあ、つまり……あのキスマーク、トイレでつけられたんだなあ。


 幸太くんにとってはひっっっっっっっどい話なんだけど。このひどい出来事の事後である、離婚報告写真の幸太くんがどう見ても恥ずかしがってるだけで幸せそうだから、こんな惨事をわりと冷静にあたしは聞けてしまった。


 つまるところいうと、実質的には幸太くんと旭さんはちゃんと予定日に出会っていて、ただあたしのせいで実際に関係を結ぶタイミングがズレてしまっていただけなのだった。

 なんということのない結論だった。やっぱり、幸太くんも例外ではなかった。


「えー……。なんていうか、うわー。……すごい話。というか、そこまであたしに言っていいの、ふたねえ」

「もちろん誰かれには言わないわよ。……ただ、あんまりにもBLコミックすぎて現実離れしてるから、本当は誰かに言いたくてしょうがなかったのは否定しないわ。そういうわけだから、幸太は疑問の余地なく思ってくれる人と出会えたわけ」


 ごめんよふたねえ。

 瞬に命令されて途中からスピーカーモードにしていたから、少なくとも「うわーうわー」とか小声でいいながら口元を抑えて顔を赤らめてるいちねえと、なに由来の感情だか知れないニヤニヤ笑いしっぱなしの瞬には聞かせちゃったよ……。


「それじゃ、いまはもう一緒に住んでないの?」

「ええ。私は小雪の部屋に転がり込んだし、あのアパートは引き払って、幸太は旭さんの部屋に住むことになったから。荷物の整理と引っ越しが終わったことだし、記念にみんなで写真撮影しましょうということになって、写真屋さん行ってあれを撮ってもらったわけ」


 ふつうだったら、世間の良識に喧嘩でも売っているようなあの写真。

 でも、引きずるものと時間が大きすぎるふたねえと幸太くんが、新しい一歩を踏み出すためにあれは必要なものだったんだろうなと思えた。思えたが、あれを写真屋さんで撮った事実にはちょっと引いた。ごめんよ。

 まあ、でも。


「そっか。…………ねえ。よかったね、ふたねえ。小雪さんとのことも、おめでとう。幸太くんにもイイ人できて、おめでとう」

「……ありがとうね。みっちゃんならそう言ってくれるって思ったから、あなたに真っ先に報告したかったんだ。本当にありがとう」


 あの写真。ふたねえと小雪さんはニコニコと満面の笑顔に見えるけど、ずっと一緒に育ってふたねえの顔を見慣れてるあたしには、それがものすごく頑張った作り笑いであることがわかってしまった。

 幸太くんと過ごした時間とか、まだ彼に残っているだろう愛情とか、だからこそ小雪さんとのことがありつつ幸太くんの存在も受け入れようとした決意とか、それが急に現れた旭さんのおかげでいっぺんに無にされてしまった混乱とか、でもそのことに安堵している自分とか。

 そんな、一言ではとても表現できない様々な感情を、努力で飲み下して浮かべた、強くてきれいな笑顔だった。あたしが見たことのない笑顔だった。


「……しあわせに、なってね」

「うん」


 通話を切った。

 心の底から、よかったなあ。そんな気持ちが浮かんでくる。

 幸太くんはあたしのこのクソッタレな能力なんかで苦しんでいい人じゃない。それに、そうなったらふたねえが傷つく。

 これからもっともっと、ふたりが、いや四人ともがしあわせになれたらいい。素直にそう思えた。


 そんな風にしんみりしてるあたしの耳を噛んでくるやつがいる。痛痒い。ぞわぞわする。……感傷が台無しだった。

 そしてこんなことを言いやがる。


「一花さん。今から、ちょっとこの部屋でうるさくしちゃうかもしれませんけど、お目こぼしをお願いします」

「え!? わ、わかった。あたしは店行ってるから! 芽衣にもしばらく2階あがらないように言っておくし! ご、ごゆっくり!」

「ちょ……ま、まっていちね」


 ほわほわした感じで赤面しながらいちねえが立ち去った。あたしの制止にまったく耳を貸さず。

 ……この姉、役にたたねーーーーーーーー!

 これから妹が変なことされるって宣言されてんのに、なにを当たり前に聞き入れてんの!?


「……じゃあさ、ベッドに戻ろうか?」


 ひときわ熱い吐息をあたしの耳に吹き込みながら、瞬がいう。その熱が伝染するみたいにあたしの体も変になる。

 待ってよ。待って。もうない? もう逃げる材料ってなにもないの? 必死に思考するあたしの手を引きながら、瞬の口から無情な判決がおりた。


「もう逃げられないし。逃がさない。……だってあんた、もうしっかりゲームオーバーじゃん?」


 蕩けた笑顔でそんなことを言う瞬に、あたしはその通りだと思うしかないのだった。




            ※   ※   ※




 あたしがとうとう陥落した日。

 というか、すでに瞬に落ちている事実を追認した結果として、それに伴う屈辱や快楽を無理矢理に飲まされた日。


 それからも、なんとなくの惰性で、あたしと瞬は闇のキューピッド活動を続けてはいた。

 とはいっても、すでに目的を遂げてしまった瞬にモチベーションはない。

 あたしのほうから、配偶者や近親者にだけ『運命の人』が現れて、なんとなく取り残された感がある人をどうにかしよう、という極めて消極的な動機で動いていて。瞬がそれに付き添ってくれるだけという感じだったのだが。




 そんなあるとき、こんな夢を見た。

 ふわふわしておぼつかない足元、空の上かのような光溢れる空間。

 あたしは夢を見ながら、「あ、これ夢じゃないわ」と確信していた。

 

『素晴らしいですううううううーーーーー!! ねえ、蜜音さんったら! いまやあなたの周りには恋が! 愛が! 溢れてますよぉ!』

『あ、やっと会えた』


 あたしがずっと会いたくて会いたくて、ある意味では瞬よりもっと再会を待ちわびていたその人、というかそいつに、特になんの予兆もなく再会できてしまった。

 ほんとに、いまさら、なんの感慨もないなあ。

 なんか、こっちの精神がボロボロでどうしても救われたかった時期を過ぎてるから、感覚としては永遠に呼び出し中にしといた電話に、待つのがだるくなって昼寝したタイミングで出られたって感じだった。


『あなたが100人の人に運命の恋を届けたから! こうしてまたお会いできたわけです!』


 はあ、なるほど。そういうシステムだったんですか。

 先に言えよ。


『でもこんなものじゃ終わりませんよ! まだまだ蜜音さんには真実の愛の伝道者として』


 なにやら勝手に不穏な二の句を繋げようとするそいつの言葉をあたしは遮った。


『とりあえず、また会えたら絶対しないといけないと思ってたことするね』

『はい?』


 ずっと前に見た夢のとおり神々しいまでに美しい、その夜間照明みたいに発光している間抜け面に向かって、あたしは思いっきり右手を振り上げる。

 人生で最初で、そしてたぶん最後になるだろう暴力だ。

 そのぶん全体重を乗せきった全力で、優勝がかかってる試合のピッチャーみたいに振りかぶって、一生分を込めてぶったたいた。

 女神?はそのあまりの勢いに、その場で横に一回転した。

 そのほっぺがみるみるうちに膨れ上がっていく。


『????????』


 なんでこんなことされたのか、それ以前に何をされたのか、わかりませんって顔してるそいつに向かって、


『あー。これダメだな。爽快すぎてクセになりそう』


 と言いながらもう一度腕を振り上げる。

 いやほんと。この一ヵ月ちょっとの地獄めいた悩み苦しみが一発で全部吹き飛んでくみたいだった。こんなにスカッとすること、ほかにそうそうないだろうな。困ったことがあると力で解決を図ろうとしてしまう、世の一部男性の気持ちがちょっとだけわかっちゃうな。


『ひっ!? な、なななななな! 私神様ですよ! なんてことするんです!』

『神様だかなんだか知らないよ。もう一回ぶたれたいの?』

『ぶ、ぶたれたくないです』

『そう。じゃあ、いっぺんしか言わないからちゃんと聞いてね』

『は。はい』


 あたしはそいつを気が抜けてぬるくなったコーラを見るように冷めた目で見て、死刑を言い渡す裁判長の心持でこう言った。


『いい加減にしろ』




「ということがあってさ」

「はー。それで、人に触ってもあのへんな現象起きなくなったんだ」

「そうみたい。不思議なもので、夢なのに夢じゃないって確信あったんだよね」

「なるほどねえ。……漫画のシナリオとしても面白くないな」


 そんな夢を見てからも、一応で継続していた邪悪なキューピッド活動。

 しかし、夢の後からは誰にどんなに触っても、その人に『運命の人』が訪れることはなくなっていた。


「実はさ。あの現象が起きなくなったときちょっと焦ってたんだよね。やばいぞ、運命が即日じゃないケースが出ちゃったって。……はーああああああ……よかった」


 深いため息をついて、やっと安心できたといった風情で瞬が言った。

 いつかのように神社の境内で並んで腰かけ、瞬は口にくわえていたアイスバーを片手で持ってうなだれていた。そしてあたしは瞬の新作を読ませてもらっている。かれこれ一ヵ月以上前には完成していて、それからいろいろバタバタしてたからなんとなく読む暇も得られなかったものだ。

 最新作は、制作期間としては瞬が自分の気持ちに気づいたっていう時期より以前に描かれたもののはずなのに、あたしたちの代役である主役ふたりのどっちも女子だった。……感想は、まあ、置く。


 とりあえず。

 あたしが能力をなくして、これまでのパターンを踏襲できなくなったことで、「あれ? あれ?」とガラにもなくちょっと焦ってる瞬に、なんとなく言わないでおこうかなと思っていた二度目の夢の話をしてしまった自分の心理はなんだろうか。

 隠すってほどでもないけど言わないことにした意味もよくわからないし、それで結局は教えることにしたのはもっと謎だ。

 ……瞬が本気で困ってるのを見たくなかったのかも?


 彼女が困った理由は、まあわかる。

 瞬があたしを完全に手に入れるための理論武装は、自分こそがあたしの運命の人である論。

 その理論の根本原理は『運命の人』は即日で現れる、だから瞬の運命の人はあたしである、という推論が確定的事実であることなのだから、それに反した結果がぽこぽこと表れだしたら、実は『運命の人』の即日デリバリーはたまたまの上振れを引けていただけで、実際にはそうでないケースもたくさんあるかもしれない、ということになる。


 そうなったら、瞬は証明が済んでもいない理論を盾にして、あたしという報酬を虚偽で得たことになってしまう。

 まあ、ということを思ってるんだろうな、こいつは。

 ……べつにいいじゃないか。あたしが自分の運命の人であること自体は、こいつは全然疑ってないんだろうし。

 それに、もう与えてしまった報酬は返品不可能だ。いまさら理屈が間違ってましたなんて言われても、元に戻せるものは何もない。


 だいたいにして。

 あたしを物言わず何も感じないトロフィーのように扱っていることが本当に気に食わない。


「いへえ。はにふんほ」


 あたしにほっぺを引っ張られながら、間抜けな顔で間抜けな声を出す瞬をあたしは睨む。


「うるさいよ。たまにほっぺくらいつねらせろ。おばか」


 あたしを手に入れてくれるためになりふり構わず動きまくる瞬を見ていて、実はどんなにうれしくてドキドキしていたかとか。

 とうとう追い詰められたときには、あたしに犬のしっぽがあったなら、ちぎれるくらい振りたくってた気持ちだったとか。

 それでも一線を越えられることがやはり怖くて、悩みに悩んで覚悟を決めた決断だったこととか。


 瞬は動く人で、あたしは動かない人だから、こいつは気持ちの矢印が自分からの一方通行であるようにすぐ錯覚する。

 あたしも選んで、あたしも欲しがった結果としてつながったんだってことを、すぐ忘れる。


 だからあたしは、心を決めてこうなったことを何も後悔してないし。

 なにか条件を変えて選びなおせるとしたって、瞬と付き合って、結ばれもしたこの結果以外は選ばないんだってことを、どうやってこいつに思い知らせればいいんだろうかと。そんな風に思うのだ。


 ところで、ひとつ聞きたいことがあった。


「瞬はさ。本当は、もっとゆっくり自然に、あたしと付き合いたかったんじゃないの」


 気が強くておしゃべりで明るくて、ちょっとエキセントリックな傾向さえある彼女。

 でも、彼女が描いてきた世界観は、変哲もない日常から何気ないきっかけで、静かに音もなく心が動き出すようなものばかりで。


 あたしは彼女の最新作をめくりながら、考える。

 主役の二人がどっちも女子だけど、特別な大事件なんて起きなくて、これまでの作品同様に彼女たちは小さな出来事をきっかけとして心を動かし始める。そしてもともと秘めていた本当の気持ちに気づいて、相手の手を取った。

 ふだんの彼女とはかけ離れたこの漫画の空気感が、瞬が本当に憧れていたものだとしたら、これこそがきっと彼女の理想の恋愛でもあったのだ。


 瞬があの日、窓から侵入してきて始まった一連の出来事は、彼女の性格とは合致しているけれど、そのこととは矛盾している。


 瞬はいつかのように青いアイスバーを口にくわえたまま、遠くを見ている。

 その様子は、もう手に入らなくなったものを懐かしんでいるようにも思えたけれど、惜しいとか悲しいとか、そんな感情はない気がした。

 

「……それであんたと付き合えたんならそれがよかったけど。……まあ。もともと、私には無理だったんじゃない。付き合えた途端に舞い上がって、あんたにああしたいこうしたいって頭のなかそれ一色になってたもん。我慢なんて無理だったし、我慢してあんたを彼女にできないほうがよっぽど嫌だ」


 もう小さくなったアイスのひとかけを嚙み砕いて、にへらと瞬が笑った。


「だいたいさ。どんなやり方でもあんたが選んでくれた今が、しあわせすぎてどうしょうもないくらいなんだから。結局のところ、これが正解ってことなんじゃないの」


 その笑顔に、あたしのなかにあったちょっとの悔いが溶かされる。

 秋の空は澄んでて高い。そのぶんおひさまが遠くて肌寒い。

 とりあえず、今日も手をつないで帰ろう。

 その手はきっと、これからもっと深くつながれる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る