6話 大迷惑

「痛いってば! 離してよ!」


 それは本当にすごい力だった。女子同士なんだから、こっちが本気で抵抗してたら無理に引っ張り続けるなんてできないはずなのに、現実にはあたしは瞬の思うがままで引きずられていた。運動部でもないくせに、彼女がなぜこんなに力があるのか信じられない。

 よろけるように足を進めさせられながら、あたしは言葉で抵抗するしかない。


「なに考えてんの!? あたし、陸斗さんとこなんて絶対行かないからね!?」


 喚くあたしの言葉を瞬は無視する。

 こわかった。このときはじめて、瞬のことを心の底から怖いと思った。

 いつでもあたしの手を無理に引っ張る瞬だけど、こんなに嫌だって意思表示してるのに、それでも無理を通されたことなんてない。


 瞬がなにを考えてるのかわからない。

 絶対にあたしにとってろくでもないことだって確信だけが膨れ上がった。


 通りをひとつ過ぎふたつ過ぎ、このままだと本当に、陸斗さんのところまで引きずられてしまう。

 もういっそ駄々っ子みたいに地べたに座り込んでやろうか、そうしたらいくら瞬だってどうにもできないはずだ。

 そんな発想は、今日の自分の服が芽衣さんからの借り物であることを思い出したら実行に移せなかった。


 どうしよう、どうしよう。

 あたしのせいであんなに苦しめた陸斗さんに、またひどいことが起きたりしたら、償いようがない。

 自分の目尻が熱くなって涙がこみ上げるのがわかる。


 ほんとうに、あの日からの瞬はおかしい。どうしてこんなにあたしを追い詰めることばかりするようになってしまったんだろう。


 あたしが踏みとどまることも瞬の手を振り払うこともできずにまごついているうちに、絶望が向こうのほうからやってきた。

 角を曲がって、急に陸斗さんの姿が現れたのだ。


 なんで? なんで?

 いまは一番会いたくない人が、どうしてそっちから近づいてくるの!?

 こんな力を持たされてしまってから、あたしは偶然ってものに何度となく踏みにじられてきたけど、この『偶然』はあたしに対する明らかな悪意を持っている。


 久しぶりに見た陸斗さんは、最後に見たときとは打って変わって、髭も剃って髪も切って、こざっぱりした姿に戻っていた。

 そんな彼は、あたしたちを見てあっけに取られている。

 よく知る元妻の妹が、その友達に無理矢理引っ張られて、しかもそれに全力で抵抗しようとしているのだ。

 それは驚くだろう。何事かと思ったはずだ。


「瞬ちゃん、蜜音ちゃん。なにしてるんだ」


 だから陸斗さんの口から出たのも、やあとかこんにちわって挨拶ではなくて、不審を正す疑問の言葉だった。


「あ、陸斗さん。こんにちわー。……ちょうどいいところに来てくれましたね」


 この異常な状況で、まるで何事もなく知り合いに会った風に挨拶できる瞬は頭がおかしい。

 陸斗さんが「え?」と口ごもるのを無視して、瞬はあたしを全体重で引っ張って、陸斗さんのほうへ投げ飛ばした。


 触っちゃうじゃん!! そんなのいやだ!!


 たたらを踏みながらも、一瞬とはいえ踏みとどまったあたしの腰を、トドメをさすような無情な瞬の足が蹴り飛ばした。

 あたしは自分の意思にまったく反して、陸斗さんに抱き着く形になってしまった。


「あああ……」


 自分の顔から血の気が引いてくのがわかる。

 あたしは腰からへたりこんでしまった。汚すわけにいかなかったはずの芽衣さんのワンピースは、いまや瞬の足型と地面の土よごれがついただろう。


「なんだよこれ。何してるんだいったい。説明してくれ、瞬ちゃん」


 絶望して呆然と見上げるあたしを覗き込みながら、陸斗さんは瞬に声をかけた。

 ひどい裏切りを受けたのに、その妻の妹をこんな風に心配できるこの元義兄は、やはりとてもやさしい人だ。だからもう変なことに巻き込みたくなかったのに。瞬の勝手さに腹が立って泣きたくなる。


「なあ、いじめじゃないのかこれは」


 そのとき瞬から怒気が膨れ上がるのがわかった。


「はい? 私が蜜音をいじめるわけないでしょ? ……むしろいじめられてるのはこっちなんですけど。泣きたいくらい辛いのに、さんざおあずけ食わされて」


 あたしのそばにしゃがみこんで、あたしの耳元に口を近づけ、瞬はあたしにだけ聞こえるように言葉の後半を言った。

 そういうことを陸斗さんの前では言わないでほしかった。あたしたちの関係を、異性でもはや家族ですらない人に知られることは、とてもとても厭わしい。

 あたしは懇願するように、すがりつくように瞬の肩にしがみついてしまった。

 願いの中身は秘密にしてほしいということだったけど、陸斗さんにはきっと別の意味に見えている。

 それに構う余裕はあたしにはない。


「……ね?」


 だから、もうこれ以上自分たちに関わるな。

 そんな言外の圧迫を込めて言うような瞬の声色に、陸斗さんがなにを思ったのかわからないけれど。

 あたしも、いまだけは陸斗さんが目の前にいることが辛くて、それに同調させられた。


「……ほんとに大丈夫だよ、陸斗さん。変なところみせてごめん。遊んでただけだから」


 とてもじゃないけど自分でだって、それが楽しく遊んでる子の様子じゃないことくらいわかる。

 それでも陸斗さんはあたしの意を汲んでくれたようだった。


「……聖也を迎えに行かないといけなくて、急いでる。でも、何かあるなら相談してくれ。俺は今でも蜜音ちゃんを妹だと思ってるからな」

「……ありがとうございます」


 振り返り振り返りしながら去っていく陸斗さんの姿を見送ってから、瞬があたしの頭を撫でてきた。

 あたしはその手を振り払って、瞬の胸をたたいた。怒りとか悔しさとか悲しさとかがないまぜになって、涙があとからあとから溢れでてくる。


「ばかっ! なんでこんなことさせた!? 陸斗さんが変なことになったら、あたしどうやって謝ったらいいの!?」

「変なことってなに? ただ目茶苦茶相性いい人が陸斗さんとこに来るってだけでしょ。いいじゃん。陸斗さん、もう独り身なんだし。一花さんとヨリ戻せることだけは二度とないんだから、むしろいいことなんじゃない? 聖也くんにもいいお母さんができるかも。まあお父さんかもしれないけど」


 ひどく酷薄な調子でいう瞬を、あたしは信じられないものを見る目で見た。


「そういう問題じゃない! それに、説明したじゃん、あたしの能力! 陸斗さんだけの問題じゃない、もし陸斗さんの『運命の人』に恋人がいたり、既婚者だったり、子持ちだったりしたらどうすんの!? その人の家庭を壊すってことになるんだよ!」


 そうなったらいちねえたちの再現だ。

 そんなことだけは二度と起こしたくなかったから引きこもってるのに、あたしの気持ちがどうしてわからないんだ。 


「やさしいね、蜜音は。よくそんな会ったこともない人の心配できるな」


 ぜんぜん違う。これは優しさだとかそんな話じゃない。罪を犯すかどうかっていう話なんだ。

 興奮しすぎたあたしは、それをうまく言葉にできなくて、力なくいやいやする子どもみたいに首を横に振るしかできなかった。

 そんなあたしに、瞬はそれこそやさしい声音で、ぞっとするくらい染み入るような調子で語りかけた。


「ほんとうに大好きだよ。そんなあんたを手に入れるためだったら、私はなにを犠牲にしても惜しくないし後悔もしない。ましてやどうでもいい他人のことなんてなんにも思わない」

「やさしいのは瞬でしょ……なんで、こんなにひどいことばっかりすんの。やさしい瞬に戻って、お願いだから」

「ははは。ウケる。私の何がやさしいって? そういう風に見えてたんだったら、あんた限定で必死こいてそう振舞ってたからそう見えてただけだよ。私は最初から性格悪いって。でも、もしほんとにやさしさがあったとしたら」 


 続く瞬の言葉はあたしを失意のどん底に突き落とし、彼女への抵抗力のすべてを奪い去った。


「けど、それを踏みにじってくれてるのも蜜音だよね」


 次の日、うちの村に新しい部外者がやってきた。




            ※   ※   ※




 芽衣さんのことがあるから、いまのこの村にとってよそ者の来訪は厄介ごとという扱いでしかない。

 もともとろくに店もなくて観光地でもなんでもない土地柄だ。

 それでも『なぜか』この村を選んで観光に来たその人は、シングルマザーだという子連れの女性だった。


 紹子さんというちょっと古風な名前の彼女は、すれ違う村民に険しい目で見られることに戸惑いながらも、4歳になる娘の茜ちゃんを連れてぶらぶらと村を散策して、導かれるようにして、会うべき人に見事に出会った。要するに、陸斗さんだ。

 街のハローワークに通って求職中である陸斗さんは、その日の求職活動を終えて村へ戻ったタイミングで、自分より5歳上の紹子さんに出会い、これまでの例に漏れることなくきれいすっぱりと恋に落ちた。


 ただ、そこからちょっと意外な展開になった。

 紹子さんがすぐに茜ちゃんともどもこの村へ引っ越してきて、陸斗さんの実家で暮らすことを決めてしまったのは、さすが運命の恋って感じだったけど。

 彼女がそうすると決めてから最初にしたことは、うちに来ることだったのだ。そう、諏訪原商店に。


 いきなり来店した彼女は、これから夫とする人の元妻へ一言挨拶を終えると、おもむろにその元妻の頬を打ち抜いた。

 そして、「どういう理由があってもあなたのしたことは許されません。聖也くんは私の子どもになりますから、あなたはもう一生、彼と関わらないで」と言い放ち、それからいちねえを抱きしめて、こう結んだのだ。


「ずっと、こうされたかったんですよね。お疲れ様でした。もう、泣いて暮らさないで。陸斗くんがあなたを心配してるわ」


 紹子さんにあやされながら号泣するいちねえを見て、芽衣さんがおいおいと泣いていた。

 あたしもその光景を見ていて、ものすごく複雑な胸中になったことを白状せざるを得ない。


 確かにこれは、いちねえにとってこれ以上もない救いだっただろう。


 いちねえが欲しかったのは慰められることでも庇われることでもなく、はっきりと叱って罰されることだったはずで。

 そしてそれは、優しすぎる陸斗さんにも、共犯者である芽衣さんにも、いまや同罪のふたねえにも、まして秘密の加害者であるあたしにも、決して与えてあげられないものだったのだ。


 考えてみたら当たり前の話、べつにこの能力は人の人格を変える洗脳ではないのだから、恋に落ちて、その愛の表明の仕方は人によって全員違う。

 いちねえにとってそれは自分のすべてを芽衣さんに捧げきることであり、紹子さんにとっては陸斗さんの家族と過去と、すべてひっくるめて受け入れることだったわけだ。


 だからこれは本当によかったことで、素晴らしい最高の落としどころに、物事がまるっと落ち着いたと。

 そういうことでは、あるのだが。




「全部丸く収まってよかったね。とりあえず、陸斗さんは最高に幸せになれそうでよかったよかった」


 それを聞いたこいつが絶対そういうこと言うと確信していたことを、確信通りに言うものだから、あたしは全然すなおに喜べない。


「……結果論もいいところじゃん。これでもし紹子さんがふつうに旦那さんいる人妻だったらどうしてたの」

「そしたらその旦那さんに触りに行ったらいいんじゃない? 旅費は嵯峨野芽衣に出してもらおう。蜜音と小旅行だ。いえーい」

「……バカじゃないの! 馬鹿じゃないの!? その旦那さんの『運命の人』がまた既婚者とかならどうするの!?」

「またその次も触りに行くだけだろ。そんなん。連鎖先がぜんぶ配偶者アリなわけないし、どっかで止まるんだから。連鎖止まるまで全員触ったら全員ハッピーになるんだから、なにも問題なくね?」


 それはそうかもしれないけど、なんて一瞬でも思わされたことがとても腹立たしい。あたしは反論をひねりだす。


「その間に何人も泣かせて何人も不幸にするかもしれないのに、なんでそんな遊びみたいにいえるの……もう瞬のことがわかんないよ……頭おかしい」


 村はずれ。最近は会うといつもこんな風に喧嘩になる。一方的にあたしが激高して、それを瞬がいなす。

 絶対そうなるとわかっていても、瞬に呼び出されるとあたしは必ずのこのこと家を出るのだ。

 わかんないといえば、この自分の心理ほどわかんないこともない。頭がおかしいのはあたしのほうだ。


「私をおかしくさせてんのは、あんただけどね」


 そしてあたしのボルテージが一定水準を越えると、瞬はこうして鋭い刃をあたしに突きさす。

 DVから逃げられない女の人の気持ちが最近うっすらとわかりかけてきてる気がする。わりと真剣な話だ。


「ほんとに、なんでこんなことさせたの」

「なんでって。あんたが一生、私を信じてくれないから、実証実験だよ」

「……はい?」

「あんたの話を総合すると、『運命の人』は明らかに即日で到来してるわけでしょ。例外なく。なのに、触れ合って付き合いだして10日以上たってもあんたは自分が私の『運命の人』だって受け入れない。そしたら実例積み重ねまくって証明するしかなくない? 何百件これやったらあんたは信じるのかな」

「……え? ほんとに? そんなことのために?」

「あのさあ」


 瞬があたしの顔を挟んでじっと見つめる。

 いつからだろうか、そうされると、あたしは反射的に目を閉じて、キスを待つようになってしまっていた。もう、調教だこんなの。

 唇が重ねられ、舌があたしの唇を割り開いて口のなかへ入ってくる。すぐに舌が絡めとられて、ひとつの物体のように混ざり合う。舌の表も裏側も彼女の舌でくすぐられながら、気が付くとあたしのほうからも求めるように、彼女の舌を味わって動いてしまう。


 こんないやらしいキスもいつのまにか普通にするようになってしまっていて、最初はちょっとでも瞬の欲求をそらすためなんて言い訳していたけれども、この行為から明らかに性的興奮と少しの快楽を得てしまっているあたしは、どう考えてもキスだけの関係で踏みとどまれていなかった。転落はもう間近で、それを我慢する意志力などあたしは持っていそうにない。


「私にとって『そんなこと』より大事なことないって、とっくのとうでわかってるでしょ? あんまり煽るんならもう無理矢理このさきのことしちゃうよ? 私がいまどんだけ我慢してるかわかってないって言わせないんだけど」


 理性に関係なくそうなってしまう日が遠くない予感に苛まれるあたしは、もう自分に残ったわずかな倫理観ごと彼女へ差し出すしかないのだった。




            ※   ※   ※




 それからのあたしは、瞬に指示されるがまま、それはもうあちこちの人を触りに行った。



 まずは山の手で果樹園やってる穴山さん。あまり人付き合いがよくなくて、いつもムスリと怒ってるおじいちゃん。

 村内の催事への参加率もよろしくなくて、子どもがいないから奥さんに先立たれたあとは一人暮らし。偏屈をこじらせてるってよくいわれてた。瞬は「手ごろだ」とか言ってた。手ごろって。

 農作業中にそっと近づいて、背中に触って走って逃げた。「なにするんだ! 危ないじゃないか!」って怒られたけど、すみません。あたしの意思じゃないんです。



 板垣さんは駐在さん。うちが村八分になったあとも普通に接してくれるありがたい存在だ。35過ぎの男性で婚活中らしい。

 これ落とし物なんですけど、って実際は使ってない財布を家から持ち出して、偽装でちょっとだけお金入れてから瞬といっしょに駐在所へ。

 拾得物の証明書類を渡されるときに手を触れた。



 小幡さんの奥さんは、働き者でいい奥さんだって評判の人だった。

 ただし瞬情報によると、井戸端会議ではもう20年もレスだって、旦那さんにキレまくってるらしい。あたしから見ても、奥さんへの扱いがぞんざいだなあこの人、ってちょっと引くような旦那さんだった。

 それでも家庭がある人を対象にするのはだいぶ抵抗あったけど、「いやこれはもう人助けじゃない?」っていう瞬の意味不明な理屈に押し切られた。このへんで、あたしのなかのブレーキの最後の一線が壊れた気がする。



 あたしと瞬の5個上で、現役女子大生の飯富さやかさんは、ご両親が街のほうに新築の家を建てて引っ越したのに、なぜかそれについていかず古い家を守ってる変わり者。人が誰もいないような静かな田舎で、ひなが小さい畑をいじって暮らすようなことが性に合うらしい。その気持ちはあたしにもちょっとわかる。実はアニメ好き。あと、本棚に悪役令嬢ものの書籍がめちゃくちゃある。


 同じ小学校に通ってたときから瞬にとっては仲良しのお姉さんで、その縁で実はあたしも何度か遊びに行ったことがある。

 ちょっと最近ネット小説にハマってるので、書籍借りれませんかって会いに行ったら、ものすごく熱っぽく何十冊も布教的に押し付けられたので、ついでに手を触るのもすごい簡単だった。




 こんな風に、一日10人以上のペースで触りに触りまくった。学校に行ってない暇人のなせる業といわれそうだが、あたし一人でそんなに村のそこかしこに出没するのはどう考えても不自然といって、大抵は瞬がついてきた。

 平日なのに学校どうすんのと聞くと、学校よりあんたが優先とごく自然に言ってくる。ほんと腹立つ、この女。


「それに、そろそろ夏休みだし。そしたら、私の時間は全部あんたに使う」


 うれしいな。って気持ちが当たり前に湧き出して、いまこんな状況でなければもっと喜べたのに、とも思う。


 だってそうだろう。こんな人道に反するどころか蹂躙するような真似をあたしに強要する瞬も瞬だけど、そんな恋人に結局のところ従ってしまってるあたしもあたしだ。もっともらしく人倫道徳を並べ立ててはいたけれど、やっぱりあたしは瞬と似たもの同士で、同じ穴の狢なのだった。


 だからもう白状してしまおう。

 もう途中からあたしの儚い倫理観などぶっ壊れていて、正直いえば、途中からちょっと楽しくなってしまっていたことを。




 穴山さんには相棒ができた。穴山さんに負けず劣らずの偏屈ものかつ無口な木工細工職人さんで、誰にも邪魔されない環境を探してあちこち見て回ってたという30過ぎの小山田さんは、男性。なぜか穴山さんの家がいたくお気に召したらしく、これまたなぜか穴山さんもそれを拒絶しなかった。ほどなく一緒に暮らしはじめて、いまでは穴山さんの家から日中トンテンカンテン木彫りの音が響いてる。

 誰にも理解されなかった穴山さんを見る小山田さんの目には、深い信頼と尊敬があって、かなり年の離れた相方を得た穴山さんは毎日楽しそうだ。



 何年もやってる婚活が不発続きで、もうやめようかな一生独身でいようかなと愚痴ってた板垣さんは、婚活会場へ向かう途中でひったくりに遭っていた女性を助けた。職務に真面目で体力作りの早朝ジョギングに余念がなかったから、見事ひったくり犯を捕まえてのけ、大変に感激した女性との交際を始めることになったらしい。

 婚活中と言ったらば、それなら私はどうですか? と熱っぽく迫られて、彼女の身辺整理が終わったらこの冬にでもこの村へきて同居を始めるんだとか。



 小幡さんの奥さん。農作業が少ない時期や雨の日を選んで、友達作りのために街のヨガスクールに通ってたんだけど、そこで友達どころかちょっと仲が良すぎる同性のお相手ができたとか。どのくらい仲がいいかというと、休みなどないはずの農繁期でも無理矢理に日曜休みというのを設定してしまって、彼女と会うために街へ行くようになった。もちろん、雨で農作業できない日も当然のように街へ行く。


 これまで全然奥さんを相手してなかった負い目から旦那さんは何もいえない。でも裏ではだいぶ愚痴ってると聞く。田舎の噂は止められない。隠したつもりでもすぐにみんなの耳に届く。ちなみに、彼女さんのほうから奥さんに会いにも来てる。真面目でそのぶん表情が険しい奥さんを癒すような、ちょっとだけふくよかで優しそうな女性だった。

 これは家庭を壊したことになるのか? ……うーん。グレー判定で。



 あんまり隠れてない隠れオタクの飯富さやかさんは、同好の士が集うSNSで完全に趣味が一致する人を見つけて意気投合。

 あまりにも気が合いすぎるものだから他人の気がしなくて、ふつうなら有り得ない判断だけどすぐ会うことにしたらしい。

 東京から飯富さんに会いたくてわざわざこの田舎へ来た彼は、実は高校生にしてプロ作家。それどころか中学時代から悪役令嬢もの小説専門でネットに投稿してた、男性にして女性向け作家でもある。


 ここまでいえばわかるだろうけど、飯富さやかさんにとって彼は最推しの作家だった。彼女がこの道にはまりこんだきっかけらしい。彼がスランプに落ち込んで何も書けなくなりSNSに逃避したところを、飯富さやかさんの真剣極まるファン熱意にほだされて立ち直ったんだとか。そうとは知らずに交流していた彼女の驚きたるや。小説ならどこでも書けるということで、高校を卒業したら自宅に彼が来るらしい。なんかそんな設定の漫画見たことあるなあ、みたいな話だ……。




 ……だあれも不幸になってないんだよなあ。

 思えば、あたしが最初に運命を変えた人がいちねえで、その人がよりにもよってのレアケース過ぎたともいえた。

 瞬の曰く、「めちゃくちゃ相性のいい人ができるだけ」の話。それって、当人にとっては幸せな出来事に決まってる。

 あたしの不安は、なにもかも瞬の思惑通りに物事が進んでるように思えることだけだ。




 で。瞬はこれを実験だと称しているけど、ある段階から接触対象に明らかな指向性が生まれ始めた。


 高坂さんと秋山さんと山県さん、それぞれの奥さんが場を仕切りたがるタイプの人たちで、学校的にいうとスクールカースト最上位って感じの人たち。

 彼女たちが集会所でダベっているとき、瞬に連れられお邪魔した。「うちがあんなことになっちゃって、学校も行きづらいし家にもいづらいんですよぉ。たまにここにお邪魔していいですぁ?」とあたしが発言したのは、もちろん瞬のシナリオだ。


 あらあら、そうなのかわいそうねえ。一花さんも、もうちょっと蜜音ちゃんに気を遣ってあげれないのかしら、なんてあたしをネタにしていちねえをこバカにするのは、いっそありがたいくらいに性格が悪い。この人たちが家庭もあれば子どももある人妻であり母親である、という事実を無視するための助走をつけてくれた。

 大人の社会、それも村社会では夫の立場が妻の権力とイコールだ。このひとたちがこういう意見ということは、旦那さんたちもおおかたうちに対しての態度が透けて見えるというもの。人を呪わば穴二つというんだ。たまに呪われる立場になってみればいいさ。


 50過ぎの高坂おばさんには、65を過ぎたので先立たれた夫を偲びながら定年旅行中だというおばあちゃんが。

 46歳の秋山おばさんには、35歳で単身で田舎移住を計画しているという脱サラおばさんが。

 37歳の山県おばさんには、旦那の遠縁の親戚で、たまたま山県家に泊まりに来ることになったという15歳の美少年が。


 それぞれすぐに現れて、もちろんすぐにお互いメロメロになった。


 いやいや。まあまあ。

 うえ二つは完全に不倫じゃん。だとか。

 下に至っては、それ犯罪じゃ……とか。

 あたしだって思ったよ。

 でも、みんな愛し合っててこのうえなく輝いてるんだよ。逆に、会えなかったほうが灰色の人生じゃないか。

 ……って、瞬が言ってた。


 ああ、もちろん高坂さんと秋山さんと山県さんの旦那さんのほうにもテロは敢行してある。20歳下の愛人ゲットした秋山さんは、奥さんと母屋と別邸で別居することになったらしい。子どもがなくてよかったとかなんとか。




 この愛のキューピッドテロとでもいうしかないような地獄行を始めて、5日がたつころにはあたしは30人切りを達成していた。

 そして、諏訪原の末っ子に近づかれるとおかしなことが起こる、と村中の噂になってるみたいだ。

 ええ、起こしてますとも。おかしなこと。


 村の古老のなかには、あたしを本気で妖怪変化だと思い込んで、有名な神社にお祓いを頼もうとか大騒ぎしてる人もいるとか。

 ……そんなんでこの能力が消えてくれれば、あたしとしては大歓迎だけども。




 そんな進展がありつつも、あたしの歩みは止まらない。というか、瞬がずっと後ろから押し相撲してくるので、足が止まってくれないというほうが正確な表現だけど。


 原さんはうちの村で長老的な地位にいるおばあちゃんだ。旦那さんとは20年以上前に死別してるとか。

 いくつになっても口うるさい人で、すぐに人を常識がないとか慎みがないとか叱る人。

 みんなこの人のいうことに辟易してるけど、逆をいうと辟易させられるくらいにこの人の『常識』を押し付けられ続けてるってことでもある。


 まあこの村の歳よりは多かれ少なかれ原さんみたいな考えの人ばかりなんだけど、彼女がそのトップオブトップであることは疑いの余地がない。というわけで、夏の日差しが珍しく弱かった涼しく過ごしやすいある日、縁側でうたた寝してるところを触らせていただいた。


 翌日、このあたりの山に昔あった古代集落を研究しているという大学教授のナイスミドルが、フィールドワークの帰りに原さんの元へ現れた。はい、ご成婚。

 いい年をして恋だのなんだのみっともないとか、人間というのは家庭を持って子どもを育てるのが役目だとか、常々言っていた原さんは、教授と老いらくの恋に落ちたら借りてきた猫みたいにおとなしくなってしまった。



 傑作だったのは、いちねえたちを悪く言ってた筆頭らしい、口癖でザマスザマスっていいそうな、最強の噂好きである内藤さんの奥さんを触ったとき。

 次の日、たまたま夫に浮気されて、北海道から傷心旅行に来ていた人妻さんと恋に落ちてしまったのだ。

 旅行でこんな外れの村へ立ち寄るなんてどういう偶然だよと思うけど、このころにはそんなのさして珍しいケースでもなかったなとすぐ思い直すくらいには、あたしの感覚はイカれきっていた。


 内藤さんの奥さんはちょっとすごかった。

 口から先に生まれてきたような普段の姿はなりをひそめ、緊張も露わに口をつぐみながら、中学生のカップルみたいに人妻さんと手をつないで歩き、人目をはばかるように辺りを見渡してから、うっとりと瞳を閉じて人妻さんと口づけを交わしていた。

 問題は、その一連の行動を公道でやってたということだ。全然人目をはばかってないのだ。


 そんなだから一部始終をあたしと瞬に目撃されてしまうし、瞬にはそれを指さして目尻に涙浮かべながら痙攣するほど大爆笑されてしまうのだ。……やっぱこいつ芽衣さんにそっくりだな。性格わっるぅ……。


 女同士なんて汚らわしい、と口を極めて言いふらしていた根本である彼女が、このように宗旨替えしてしまったので、いちねえたちへの攻撃も同時にほとんどピタリと止んでしまった。

 もうこの村にいちねえたちを悪くいう人は、すっかりいなくなっていた。

 そうだった人たちはそれを言える立場でなくなるか、そもそも考えを変えてしまい、単に引きずられていた人たちは、汚染源がなくなった以上は同調する必要もなくなった。


 それから間もなく、ちょっと気まずそうにしながらも、ぽつぽつとうちの店にお客が戻り始めた。

 建前さえ取り除かれてしまえば、興味本位の田舎者の、有名人を間近で見てみたいという欲望だけが残る。『すわはらさん』が繁盛し始めるのにも時間はかからなかった。


 それを受けて芽衣さんは、「このまま閑古鳥でもよかったんだけどなぁ。そしたら一花連れて東京に行く口実ができたのに」と、冗談だか本気だか判別できないことを言ってたけど。

 またお店がお店として機能しはじめて、いちねえはうれしそうだった。それ見て芽衣さんも結局喜んでた。




 人口200人そこそこだったうちの村は、あたしのせいで移住者がどんどん来て、1.3倍くらいに村民が増えてしまった。働き盛り層かそれより下の世代が多いから、村の平均年齢が大幅に若返るというおまけ付き。あたしは高齢化と過疎化に陥りつつあった村を再生しようとしている。そんなこと、望んだときは一秒もないのだが。

 ところで、その増えた組み合わせのうち、同性カップルが7割以上だ。


「なんだろう……。ものすっごい偏りがあるような」


 少なくとも日本のカップルの7割が同性愛ってことはない。あからさまにこの村にだけ偏重が起きている。あるいは、それもあたしの能力のせいか。そう悩むあたしに、瞬はこともなげに言った。


「原のクソババアのいうことじゃないけどさあ。本来は婚姻って、それこそ子ども作りのためにする社会的で生物的なモンなわけじゃん。そういう制約取っ払ったら、同性のほうが一緒にいて最高に居心地いい相手になりやすくて当たり前じゃね?」


 あらゆる障害をなぎ倒してでも同性のあたしを獲得しようとしている女のいうことは含蓄があるなあ。




 で。これだけ実験を繰り返したら、それはもう様々な人間模様が見えてくる。

 みんなが恋に落ちてはいたけど、その現れ方は本当に千差万別だった。

 肉欲にまみれてしまう人、ただ静かにそばにある人、望む未来へ向けて計画的に行動する人。


 いずれにしても、いちねえみたいに、すべてを擲ってしまう人は一人もいなかった。

 理性が愛に打ち負かされて現状の生活をすぐさま捨ててしまう人もいなければ、しかもそのことを本気で悔やんでしまうなんて人ももちろんいない。


 あたしはひとつ知見を得た。

 うちの姉は、世にも稀なる恋情のモンスターだったのだ。そして規律規範の怪物でもあった。そんな相反する両属性を両方振り切ってひとつの心に潜めていた、感情おばけでもあったということだ。

 あたしはほんと、自分の姉のいったい何を見ていたのだろう。こんな人のどこが細かいことや昨日のことを気にしないサバサバ系なのか。あたしの目はどうやら節穴であるらしい。


 というわけで、あたしがあんなにも懊悩していたことはまったく無駄で、あたしの大暴れによって壊れた家庭などひとつもなく。

 むしろみんなが幸せになる一方で。

 ただ、あたしにとっての死刑宣告に似たXデイだけが着々と近づいてくる。

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