作者・朝田 さやか 読売新聞社賞『プロトコールが鳴り響く』の感想

プロトコールが鳴り響く

作者 朝田 さやか

https://kakuyomu.jp/works/1177354054896132849


 二〇二〇年夏、新型コロナウイルス蔓延によるインターハイ中止の中、バレー部三年生の引退試合を行うチームメイトの話。


 現代ドラマ。

 二〇二〇年の新型コロナウイルス蔓延により、様々な行事が自粛される中、インターハイ中止が発表された。作者はそのニュースを聞いて書いたという。

 この年でなければ書けなかったものだし、描く価値のあった作品。

 主人公の動きの描写や心情がよく書けており、当時のコロナ禍の状況が思い出されるだけでなく、あの夏、どこかの体育館で行われた光景だと思わされる。


 主人公はバレー部に所蔵する高校三年生の菜乃。一人称、私で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。

 現在過去未来の順番で書かれている。

 本作は泣ける話なので、「喪失→絶望→救済」の順で書かれている。

 

 女性神話の中心軌道に沿って書かれている。

 主人公の菜乃の父は、スポーツ完成が趣味で、小さい頃から一緒に様々な競技の試合中継を見ていた。小学生の時、インターハイ中継のバレーボールの試合を見て、目の前で繰り広げられる一進一退の攻防に興味を惹かれ、ルールもわかららなあったがドキドキ・ワクワクして夢中になってみた。プロやオリンピック、世界バレーの試合でもなく、街を歩けばすれ違うような身近な存在の高校生が、必死にボールに食らいついては点を取って笑顔でガッツポーズする姿が眩しかった。気づけば「バレー、してみたい」と呟いていた。

 小学二年生のときにバレー部に入ってから、バレー漬けの日々を七年過ごしてきた。

 二〇二〇年二月に新型コロナウイルスの世界的大流行が起きる。世界規模で自粛が求められ、日本も例外なく、各イベントの自粛が発表されていく。四月、インターハイ中止が発表。その日の夜、バレー部の三年生四人だけでリモート通話をする。目標としてきた大会が消え、画面越しに鳴き声が聞こえる。主人公は、いまだ状況を受け入れられないまま、画面を呆然と見つめていたが、いつしか視界がぼやけて涙を流しているのに気づく。翌朝、パンパンに腫れた目をした自分がいた。

 一週間後、キャプテンの紗夜から引退を持ちかけられる。一月に開催される「春の高校バレー全日本バレーボール高等学校選手権大会」まで残ればいいと拒むも、「後輩のためにも、自分達のためにも、ここで引退するべきだと思う」「亜紀や遥は国公立狙ってるし、次のチームの方が強いのは目に見えてるから」と告げられる。すでに他の二人とは引退する方向で話し、菜乃への説得を任されたといわれる。「チームのためを思えば引退した方がいいんだと思うよ、けど、けどさ、私は……。紗夜と亜紀と遥と、今のチームで、みんなで戦いたい」「なんで、中止なのよ。なんで、今年なのよ。ふざっけんな」

 それでも受け入れるしかないといわれ、悔し涙を流す。

 夏。受験生として追い込みの時期にあるものの、暑さに頭が湧きそうでイライラし、髪をかき回し、赤ペンでノートに罰を書きまくってはノート一ページを無駄にする。

 バレーしたい、インターハイ出場したかった、と思うほどにため息をつく回数が増えていく。

 勉強漬けの毎日を送りながらも燃焼しきっていない気持ちが邪魔をして、受験勉強は滞っていた。そんなときバレー部の後輩、新キャプテンの愛菜から「先輩方、引退試合しませんか?」メールが届く。懐かしさに顔が緩み返事に困っていると詳細日時が送られ、「ご都合が合えば、是非やりたいです」と送られてくる。困惑しながらも答えは決まっていた。

 引退試合当日。三年生含め、チーム総勢十四人が久しぶりに一堂に会す。贅沢にも体育館を貸し切り、中央に一面だけ張られたコート。所々傷の入る白帯、色褪せたアンテナ、錆びついたポール。いつもと同じ景色のはずなのに、どことなくインハイ決勝のセンターコートのような雰囲気を醸し出していた。

 チームメイトを七人ずつ、二チームに割り振って戦う。三年生全員と組めるよう、チームを二回組み替えての三戦。三セットマッチ、デュースありの真剣勝負。ボールを使わないと禁断症状が出てしまうのはどうやらみんな同じで、三年生は数カ月のブランクを感じさせない動きを見せていた。

 叶からの一人時間差のサインがきて、やってやろうとニッと悪巧みするように笑う。勝ってやると闘志を燃え上がらせるのはいつぶりだろうか。ふつふつと燃え上がる青い炎は勢いを増していた。

 様々な指示が飛び交う中、先生の鳴らす笛がコート全体に鳴り響く。最初のラリーが始まる。一点目、体育館全体に一瞬の静寂が訪れた後、サーバーがその手からボールを放つ。

 着地した瞬間、すぐさまアタックを打つ準備のために数歩下がりながら、絶対決めるからとボールを呼ぶ。

 Bクイックを相手に見せ、警戒させてから一人時間差をするのがセオリー。相手を騙すために一度、Bクイックを打って相手の印象に残す。が、Bクイックが主人公の武器と知るチームメイトが相手だからこそ、セオリーを無視した立ち回りをし、先制点を取る。

 最高のトスを上げてくれた叶へ駆け寄り、もう一度ハイタッチを交わしながら、二人とも満面の笑みを浮かべる。叶とは時間ができれば、トスを合わせてきた。その一回ずつの積み重ねで今がある。叶との最高のコンビネーションは全国の誰にも負けやしない。

 バレーボールは一人では絶対にできないスポーツ。チームメイトとの協力なしにはラリーすら成り立たない、まさに究極の団体競技。ワンプレーワンプレーの繋がりを大事にするからこそ、ボールを介した仲間との対話はどうしようもないくらい、楽しい。

 ここはインハイの憧れたコートじゃない。夢見た景色とも違う。あの日テレビ越しにコートに立っていた選手よりも、チーム全員が輝いてみえる。

 たった一つのニュースで無に帰したようにみえたが、決して無駄ではなかった。今まで続けてこられたのは、チームメイトがいたから。バレーボールの魅力に取り憑かれたから。出し切れなかった悔しさを全てぶつけ、また新たな一ページを埋めていくために、目の前の一球に三年間の全てを懸ける。

 そして、次のラリーがまた始まるのだった。


 三幕八場の構成で書かれている。

 一幕一場のはじまりは、昼食後、夏の暑さに受験勉強に集中できず、イライラしなが赤ペンでノートにバツを付けては落ち着き、バレーがしたいとつぶやく。

 二場の主人公の目的では、小学二年生からずっと、バレーのことを考えプレーしてきた。本来なら今日がインターハイの開会式が行われるはずだったのにと考えると一層、やる気が出なくなる。バレーを知った小学生のとき、憧れたのはプロでもオリンピック選手でもなく、インターハイで活躍する、身近な高校生の姿だった。テレビを前に、お姉さんたちのようになりたい、バレーがしたいと思った。

 二幕三場の最初の課題では、あれから七年が経つ。バレーのおかげで濃密な日々を過ごしてきたが、この数ヶ月を除いて。

 朝からパジャマ姿のまま、ノートを捲ると真っ白な一ページを見て、「何も書いてないようにみえるでしょ? 先生、でも白には無限の可能性が広がっているからこれでいいんですよ!」宿題をやらない男子の言い訳を思い出す。目の前の空虚なノートは、次の一歩を踏み出さない限り、ずっと白いままだった。

 四場の重い課題では、今年四月。インターハイ中止のニュースを聞いた夜、三年生の四人でリモート通話をして泣き合ってから一週間後、バレー部キャプテンの紗夜から、三年生の引退を促される。

 五場の状況の再整備、転換点では、菜乃は一月に開催される「春の高校バレー全日本バレーボール高等学校選手権大会」まで続けようと口にする。勝ち上がれば全国で戦え、テレビの向こうにいたあの人達のようになれる。だがキャプテンの「それで推薦で大学にいくの?」に逡巡する。それほどの才能がないことはわかっていたし、一月まで部活に残るとは、受験勉強を捨てるのと同義だった。

 六場の最大の課題では、残り二人は国立を狙っているし、すでに引退する方向で話をしていた。自分の説得を任されたとキャプテンに言われ、返す言葉がなかった。インターハイのコートで全国の強豪と戦うのはきっと楽しくて仕方ないだろう。こんなプレーやあんな戦術も試してみたいと部室で何度も話し、絶対あそこに経つんだと信じて疑わなかったのに中止になる。しかも今年。引退したくないけれど、しなければならない。受け入れるしかなかった。

 家に閉じこもっては捗らない勉強漬けの夏を過ごしていると、バレー部の後輩である新キャプテンの愛菜からメールが届き、引退試合の詳細日時持ちかけられる。

 三幕七場の最後の課題、どんでん返しでは、体育館を貸し切り、インターハイ結晶のセンターコートのような雰囲気の中、三年生含め、チーム総勢十四人が久しぶりに一堂に会し、引退試合が行われる。

 円陣を組むとき、セッターの叶から一人時間差の指サインを出される。女子で打てるのはお前くらいだと顧問の戦士エからのお墨付きを頂いていた。やってやろうと悪巧みする笑みを浮かべ、投資を燃え上がらせる。じゃんけんの結果、菜乃のチーム空となり、様々な指示が飛び交う中、先生の笛が体育館に鳴り響く。

 最初のラリー開始、サーブはコート中央へ飛んでいく。速攻はなくなったと、セッターを見極め、レフトに走り飛び上がる。ワンタッチでボールの軌道を変え、チャンスボールに変わる。着地してボールを呼ぶ。そのとき向こうのコートから「Bマーク」の声。セッターの手にボールが入った瞬間、全速力でアタクに家に入り、今にもジャンプする膝を曲げるも飛ばない。相手を引き付けてジャンプさせることに成功。セッターの叶は、ワンテンポずらしたセットアップで、菜乃にトスを上げる。ノーブロック状態で放たれたスパイクは、相手コートへ突き刺さり、先制点を取る。最高のトスを上げてくれた叶へ駆け寄り。もう一度ハイタッチを交わしながら、二人とも満面の笑を浮かべる。

 八場のエピローグでは、菜乃と叶のコンビネーションは、全国の誰にも負けはしなかった。トスだけではない。チームメイトとの協力なしではラリーすら成り立たない。ワンプレーのつながりを大事にするからこそ、ボールを介した仲間との会話を感じられるからこそ楽しい。憧れたインターハイのオートではないけれど、あの日テレビ越しで見た選手よりも、チームの全員が輝いていた。なにがあっても続けられたのはチームメートがいたから。バレーボールの魅力に取りつかれたから。また新たな一ページを埋めていくために、目の前の一球に高校三年間のすべてをかけていく。


 本作は新型コロナウイルス蔓延による自粛規制に直面した高校生の姿が描かれているものの、一度も新型コロナウイスルやパンデミック、自粛といった表現が使われていないのが特徴である。

 書かれた年が二〇二〇年だったこともあり、憧れていたインターハイが中止になって絶望し、後輩が引退試合を申し出てことで救われる姿を描くため、わかりきっている説明を省いてテンポよくする考えもあっただろう。

 歳月が経った現在、作品を読み直してみると、インターハイが中止となった理由が描かれていないことに気づく。

 コロナ禍を知らない、十年先に本作を読んだ場合、作品からはコロナ自粛でイベント中止が起き、インターハイも中止になったことに気づかないかもしれない。

 だが冒頭で、「二〇二〇年、夏。高校三年生、受験生の私たちにとって大事な時期に差し掛かった」という一文がある。

 この一文から後世の読者も、コロナ禍だからインターハイが中止になったのかと気づく助けとなるのはと考える。

 なにより、インターハイが突如中止となり、憧れていた目標が失われて絶望する悔しさが良く描けており、主人公たちの思いが十分感じられる。

 二〇二〇年に受賞した意義は大きい。

 まさに、この年に選ばれるべき作品だったといえる。


 書き出し「ミーンミンミン……」のカギカッコは、なくていいかもしれない。


 冒頭の書き方が上手い。

 夏の書き出しでは、セミの鳴き声のうるささを体験した主人公が「暑い」に気づいてから、自分は受験本番前の追い込みである最後の夏にいるのだと、高校三年生なら共通する普遍的な意味あいに落とし込んでいく。

 ラストスパートをかける時期だから必死に勉強しないといけないよねと、かつて高校生だった読み手は自分の昔を思い出し、これから受験を迎える読み手なら、そういう時期なのかといずれ訪れる心構えを持てる。

 そうして作品に共感し、読み進めていける。


 本作全体に言えることは、いつ、だれが、どこで、なにを、どのように、どうしたかが書かれているのはもちろん、主人公の心の声、感情の言葉、表情や声の大きさなど、読み手が想像できる描写がなされているので、感情移入できるところがいい。


 暑さとともに、遅々として捗らない勉強の様子が具体的であり、「有名大の生協で買ったシャーペンは指の上でいとも容易く回るのに、私の頭はちっとも回転してくれない」と、くすっと笑えるところもさり気なく入れている。

 暑い描写と説明をして、「頭沸きそう」と心の声である感想を書き、そのあとで、「ああぁああぁぁあ、もういや」と声を上げる。

 このとき、「ついにシャーペンを放り投げ、奇声を発しながら髪の毛を両手でかき回してぐちゃぐちゃにした。大して手入れもしていないベリーショートの髪の毛は爆発したかのように悲惨な状態となった」どういう行動を取り、どんな声を上げ、どうなったのかがさり気なく、それでいてわかりやすく描かれている。

 おまけにこれでは終わらず、ノートに大きなバツを書きなぐり、破れてもかまわずくり返し、一ページ無駄にしたところで「はぁあ」とため息をつく。

 このため息も、どのようなため息で、どうなったのか、目に浮かぶような描写がされている。

 ここまでは、二十八度のクーラーをつけても暑い夏の昼間、勉強が手につかずにいらだっている様子の描写をひたすら描いている。

 むしゃくしゃする説明をしてから、「バレー、したいなぁ」と感想を漏らしたあと、主人公の心の中、回想へと入っていく。

 説明と感想。

 このくり返しを描きながら、なぜバレーがしたいのか、主人公にとってバレーがどんなものなのか、真っ白なノートをみて、なぜ空虚に思うのかにたどり着く。


 怒りには種類がある。

 頭にくるは浅く、突発的であり、表層な怒り。

 ムカつくは、ムカムカするというように怒りが胸のあたりまできている。

 腹が立つとは怒りを飲み込み、腹に収めた上で怒っている。

 百年くらい前の人々は、腹で物事を考えていたという。質問に答える際も即答ではなく、一カ月かけて熟考して答えるのが普通だった。

 夏の暑さの怒りと、バレーができない怒り、引退を受け入れなければならなかった怒りという具合に、話が進むごとに怒りの度合いも変化して描かれているところにこだわりを感じる。

 頭にきて、ムカつき、腹を立てる。

 怒りの書き方は素晴らしい。

 

 コロナ禍を知らずにここまで読むと、高校三年生になると部活も引退しないといけないし、受験勉強もあるから、大好きなバレーができなくてフラストレーションが溜まっているのだろうなと読み取るかもしれない。

 事実、この次の展開では、キャプテンの紗夜から「菜乃、私達引退しよう」と電話がかかってきたところからはじまっている。

 夏の大会を最後に引退するのが一般的だが、引退しようと持ちかけられたのは四月であり、ニュースでインターハイ中止の発表がされたことも明らかになっている。

 こうした、情報の開示の見せ方が上手い。


 本作は、現在過去未来の順番で書かれているが、各話もおなじく、現在過去未来の順番になっているのも特徴である。

 夏の暑さに苛立っていた場面もそうだし、キャプテンの紗夜と電話をしている場面もまた然り。

 電話で話している状態から、インターハイ中止が発表された夜に四人でリモートしたことを思い出し、それから一週間後に電話がかかってきて引退を持ちかけられた現在につながる。

 引退を促すキャプテンと、引退せずに一月に開催される「春の高校バレー全日本バレーボール高等学校選手権大会」まで大会出場に期待をつなげようとする主人公の菜乃。

 部活を取れば受験を捨てることを意味し、国公立を狙っている仲間や、対戦する相手チームの実力と比較すると、自分たちのチームよりも強く、勝ち進むのは難しい状況。

 チームを思えば引退した方がいいけど、みんなで戦いたいと吐露すると、キャプテンも「うん。私も、私たちも」と答える。

 一年生のときは弱小だったが、二年生になって新人戦、優勝。これから全国へというところで、目標だったインターハイが中止になれば、「なんで、中止なのよ。なんで、今年なのよ。ふざっけんな」

 叫んで涙流しても、どうしようもない。

 したくないけれども、引退を受け入れるしかない。

 ここで、一人で意固地になって反対しないのは、ラストでも書かれているように、バレーボールは団体競技だから。

 いくらバレーが好きだからといって、ボールをくれる仲間が必要だし、なにより主人公は部活メンバーと一緒に全国で戦いたかったのだ。

 だれも納得してないけれども、自分たちではどうすることもできなくて、苦渋の選択をせざるえなかった。

 この辺りのやり取りは、コロナ禍で同じような体験をした人は身につまされるかもしれない。

 体験していなくても似たようなこと、たとえば親の都合で引っ越さなくてはならなくなったり、勤務先が突然倒産になったり、親が急死したり病気になったり、戦争が起きるなどなど。昨日までは当たり前だった日々が一変、自分の力では覆すことができない場面に直面することは、生きていると必ず、誰にも訪れる。

 抗うか、挑むか、受け入れるのか、諦めるか。

 葛藤する主人公の内面描写の中で書かれている、「何かに当たりたいのに、この悔しさとやるせなさをぶつけられる相手がいない。それが余計に私たちを苦しめる」が、コロナ禍で苦しんだ誰もが感じ、共通する感情だと思われる。

「バレーに対する意識が低いというかもしれない。(中略) だけど、そんなこと言わせないよ。私達がどれほどの思いでやってきたか、どれほどこの決断を下したくなかったか、目指してきたものがなくなるってどんな気持ちか。……それは、私達四人にしか分からないんだから」と、主人公は納得できないながらも受け入れる。

 状況を受け入れるときは、誰だって納得なんかできない。

 

 本作の一番いいところは、主人公の熱い想いがクライマックスで強く描かれている点である。

 これができているから、作品として面白いのだ。

 インターハイ中止によりキャプテンからの言葉で引退を受け入れるしかなく涙した。が、まだ中盤。後半を理屈でなく感情的に読んでもらうための盛り上げであり、クライマックスはこの後の、後輩が持ちかけてくれた引退試合である。

 感動させるには登場人物を泣かせればいい、と安直に考えるかもしれない。が、そうではない。

 感動させるのに泣かせる必要はない。

 クライマックスを強く描くことが大切である。

 本作なら、主人公がバレーする中、必要な行動や表情から想いをより強く描くことで、読者を感動させる書き方がされている。その点が本作の素晴らしさである。

 

 作品から現実味を感じられることも、大切である。

 とくに本作は現代ドラマであり、二〇二〇年という時代性を活かす作品だからこそ、この時代らしさやプレーの真実味を感じられなくてはいえない。

 本作の場合、インターハイ中止や引退を受け入れる場面からも現実味を感じられる。さらに強く感じるのは、引退試合である。

 ここをおざなりにすると、これまで描いてきたものが一気に茶番劇に転じてしまう。

 バレーをしないものでも、思わず熱くなるプレーが描かれているところが素晴らしい。


 セッターの叶が出してきた、一人時間差のサイン。

「他の人には真似できない、私だけの武器。女子で打てるのはお前くらいだと、顧問の先生のお墨付きを頂いている」

 部内で、という意味なのか。

 それとも全国の女子バレーをしている高校生の中でなのかわからないけれど、そんな細かいことはどうでもいい。いまコートに立っている中で、できる人間は主人公しかいないところが大切なのだ。

 

「人差し指をぐにぐにと曲げ伸ばしするサイン」「ニッと悪巧みするように笑う」といった、さりげない仕草も、場面の臨場感を高めている。


 バレーに詳しくない人でもわかるように、サーブを相手コートの中央に打って速攻を無くし、大きなトスを待つ両サイドのアタッカーから、レフトかライト、どちらかから攻撃が来るのかを、セッターの動きを見てレフトへ走る判断を瞬時にこなし、ブロックに向かう。

 

「ワンチ」というのは、ワンタッチのことだと、くどくない説明をしているのも読む側にとってもありがたい。説明しすぎてテンポを崩さないような書き方がされている。

 

「Bマーク」とは、Bを警戒しろ、という意味。

 Bとは、Bクイックのことであり、速攻攻撃の一種で、レフト側とセッターの中間地点に上げる素早いトス。

 主人公がBクイックしてくるから気をつけてと、敵チームが仲間に声をかけているのだろう。

 そんなふうに長々と説明してはテンポが悪くなる。

 説明を最小限にしながら物語を展開させていく書き方がいい。


「Bクイックを打つのと全く同じタイミングで踏み出し、タン、タンと踏み込んで、今にもジャンプするように膝を曲げて――飛ばない」場面が目に浮かんでくる。

 とくに、バレーの試合を見たことがある人ならば、飛ぼうとして飛ばなくて、相手がつられてジャンプしてしまう場面を目撃したことがあるだろう。

 これが一人時間差かと、読んでいてもワクワクする。

 

 セッターの叶のトスは絶妙なタイミング。「私が欲しい高さ、欲しい位置ちょうどにボールが上がる。タイミングが合いすぎて、ボールが重力に抗って空中で停止したかのようにも見えた。その刹那、私の手の平に吸い込まれるボールを床へ叩きつけた」

 主人公にしかみえない景色が描かれてからの、相手の反応。「つられたことに気づいたブロッカーが慌てて跳び直すが、間に合わない。ノーブロック状態で放たれた私のスパイクは、相手コートへ突き刺さる」展開は気持ちいい。

 思惑が見事に成功し点を取る一連の様子を、丁寧かつテンポよく、描いていることで臨場感を感じられる。読者をも魅了するところが実にいい。

 

 プレーの描写説明をしたあとで、バレーは一人ではできないスポーツ、究極の団体競技であり、ボールを介した仲間との対話が同仕様もないくらいに楽しいと、主人公の感想が描かれていく。

 説明して感想を描くことで、読み手も自分のことのように思える。

 さらに心情が続き、子供のときテレビ越しでみて憧れたコートではないし、相手は強豪校でもないけれども、「あの日テレビ越しにコートに立っていた選手より輝いているよ。私一人だけじゃなく、このチーム全員で」と気付く。

 気づいた主人公は、それがどんな意味を持っているのかに思いを馳せると、「今立っているこのコートが、私達の過ごした日々の全てを知ってくれている。だから今は、恩返しをするように、出し切れなかった悔しさを全てぶつけるように、また新たな一ページを埋めていくために、目の前の一球に私の三年間を全て懸けるんだ」とやりきれなかった想いを今ここで全力を出し、次へむかっていくために。

 自身の体験から気づきを得て、普遍的な意味合いを見い出す主人公の姿をみて読者も、過ぎ去った日々にすがって動けないままではなく、明日をむかえるために、自分のいる場所で全力を出そうと自分ごとのように思えるだろう。


「また新たな一ページを埋めていくために」というオチがいい。

 オチの有無はどちらでもいいけれども、作中にあるものを使われていると、作品全体が上手くまとまった感じが出る。

 夏の暑い時期に勉強が捗らず、白いノートに赤ペンでバツを書いていたときの回想で、「白には無限の可能性が広がっているから」と男子が言い訳をしていたところに通じる。

 明日はまだ手つかず。

 無限の可能性を秘めている。

 すべてが終わったわけではない。

 悲観する必要はないことを意味しており、希望があるところがいい。おかげで読後感がすばらしい。


 タイトルにあるプロトコールとは、プロトコル。

 主に国の間の公式儀礼をさす。相手に敬意を表し好感を与え、迷惑や不快な思いをさせないルールのこと。コールではない。

 バレーボールのプロトコールとは、審判が試合開始の吹笛をする前に、試合の準備をする手順のこと。公式練習開始。チーム交代。練習終了後、選手はベンチに戻り、選手全員エンドラインに整列。相手チームと握手。スターティングメンバーがサーブ順に横一列に整列。主審がサーブ許可の吹笛、試合開始。といった必要な流れや手順をさす。

 作中には、「久々に聞いたプロトコールの音」とある。

「試合が始まるこの瞬間というのは、どんな相手との対戦でも少しだけ緊張する。だけど同時に、試合開始を告げるホイッスル、『プロトコール』はいつだって私に、これから何かが始まる期待とバレーボールの楽しさを運んで来てくれる」と書かれているところに、前回読んで感想を書いたときはモヤッとしたし、モヤッとする。

 コール音が鳴り響くものではないのだけれども、ルールにのっとる中で聞こえてくる審判の笛や、選手の声や息遣い、ボールや靴音など、体育館に響き渡るすべての音を表していると考える。

 タイトルは作品にあった、味わい深いつけ方をされていると思う。

 


 

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