作者・井桁沙凪 キリンレモン賞:『命がべったり』の感想

命がべったり

作者 井桁沙凪

https://kakuyomu.jp/works/1177354054886912065


 いのちを食べていることに気づいて以来泣きながら食べるひばりは、無下にされている東京の中で悲しんでいた山形のド田舎出身のみなと先輩から安心すると言われ、自分勝手でサイテーで自己満足に安心し愛してくれる人がいて救われなくても悪いことではないと思う話。


 文章の書き方は気にしない。でも、大学生は生徒でなく学生。

 私小説。

 浄土真宗の考えを思わせる、人と生まれたことの意味をたずね、はじめに帰ることに気づかせてくれる作品。

 オノマトペの表現が豊かで、自分と向き合っていく姿がよく描けている。出来が良い。


 主人公、女子大生のひばり。一人称、私で書かれた文体。自分語りの実況中継で綴られている。

 みなと先輩の人物描写はよく描かれている。


 二つの絡め取り話法と、女性神話とメロドラマに似た中心軌道に沿って書かれている。

 かつて飼っていたインコを眼の前で野良猫に食べられ、あっけなくしが訪れ、生きることの凶暴で勝手なことを知り、自身も平気で誰かのいのちを食べていることに気づいて恐ろしく感じて以来、何かを食べるときに泣くようになった主人公のひばり。

 東京の大学に通うひばりは友人の水樹に、みてるこっちがつらくなると指摘されてから、大学構内の芝生にあるベンチで一人、少し遅めの昼食を誰にもみられず食事するようになった。

 ある日、秋田出身で二つ年上のみなと先輩に悲しんだねと声をかけられ、一緒に食べてもいいかなと柔和な笑みで言われてからときどき一緒に食べるようになる。彼にどうして一緒に食べてくれるのか尋ねると、安心するからと答えた彼は、秋田のド田舎で育ち、自然の恵みや山の神、いのちを重んじ、いのちに感謝しながら食べるのが悲しくて自分が嫌になっても生きるため、罪悪感を持っても当たり前だと思った。殺したいのちに対するせめてもの礼儀だと感謝して食べていたが、東京では美味しいとだけいい、気に入らなければ平気で捨てるのをみて悲しくなった。だけど、主人公が当たり前に悲しんで食べているのを見て、ホッとしたという。

 だが、ひばりがなぜ泣くのかわからず彼から距離を取る。

 一週間後。彼と別れた水樹は「破局同盟だ」といって、お菓子を爆買いしてきたから二人で暴れようとベンチへ誘われる。水樹から彼を振った理由を聞く。自分を肯定してくれて嬉しかったが、別れるときに口論となって、彼がしてきたことは彼の願望で、彼が自分をみてくれていると思っていたのも自分の願望だったと気づき、優しさは自分勝手なものだと知り、自分勝手を棚に上げては相手を傷つけて人のせいにして怒って来た自分はサイテーでバカみたいだと話す。

 カルパスを食べる水樹をみながら、みなと先輩も優しさは自分勝手なものと信じているのかと考え、食べている時点で世の中は等しく自分勝手でサイテーであふれていることを彼は知っているのかと考える。また、彼の前から姿を消した自分も自分勝手でサイテーすぎる行為だと思って申し訳ない気持ちになる。

 水樹にどう思うか聞かれ、「水樹にサイテーなところなんて一つもないよ」と答えながら、本心で言っていないということに気づいていて、ひばりも気づいていないふりをする。どこまでいっても勝手なんだと思う。

 水樹に彼はひばりに惚れてるよと言われ、いつから泣くようになったのか大学構内を歩いているとカルガモの親子が野良猫に襲われるのを目撃。かつて飼っていたインコを野良猫に食べられたのを目撃したことを思い出し、泣く理由に気づく。

 泣きながら走ってベンチへ急ぐと彼を見つけ、涙の意味はわからなかったが、自分勝手だけど彼の言うとおり泣いているみたいだと告げた。彼は「確かにすごく自分勝手なことなのかもしれない。…でもさ、俺はひばりちゃんの涙を見て、すごく安心したんだよ。それにもし俺が食べられてしまうようなことがあったら、その時は、君に食べられたい。ひばりちゃんみたいに、ちゃんと悲しんで、泣いてくれるような人にさ……だからさ、そんなものでいいんだよ。意味なんていうのは」といわれる。

「私も、みなとさんに食べられたい。みなとさんみたいに優しくて、あったかい人に」と打ち明け、彼との信頼関係が復活。自分勝手でサイテーな自己満足に安心してくれる人がいて、愛してくれる人がいて、どうあがいても救われなくとも全然悪いことではないと思うのだった。


 三幕八場の構成になっている。

 一幕一場のはじまりは、食べながら泣くひばりは、友人おみずきの指摘を受けてから、構内の芝生にあるベンチで一人、遅めの中速を取っていると、悲しんだねとと中学生っぽい格好に大人びたみなと先輩に声をかけられ、一緒に食べることになる。

 二場の主人公の目的は、講義中に友人の水樹にときどき彼と昼食していると話すと心配される。泣いても引かないし深入りしてこないから大丈夫だと話しているうちに講義が終わり、教授から注意されるも、「乙女たちの秘密の会合ですっ!」と講堂を出る。

 二幕三場の最初の課題では、彼と食事をするとき、どうして一緒に食べてくれるのか尋ねる。

 四場の重い課題では、安心と答えた彼から、秋田のド田舎から上京してきた話をし、生きるために感謝しながら食べるのが悲しくて罪悪感を持っても当たり前だと思った。が、東京では無下にされているのを見て悲しくなったとき、当たり前に悲しんで泣きながら食べるひばりを見て安心したと告げられる。

 五場の状況の再整備、転換点では、あれから一週間ベンチに行かず距離を取っていると、彼と別れた水樹にボヤかれ、破局同名としてひさしぶりにお昼を一緒に食べようと誘われる。

 六場の最大の課題では、ベンチに連れてこられ、カルパスを食べながら互いに自分勝手でサイテーだったことに気づいたと話す水樹。ひばりは、世の中は誰も一つぃく自分勝手でサイテーでどうしようもない自分勝手にあふれていることを彼は知っているのだろうかと考え、知っているならとても辛く寂しいだろうと思ったし、自分が泣いて食べるのを見て安心といったのかと気づく。混乱していたとはいえ、彼から距離をおいたのは自分勝手でサイテーすぎる行為だと、申し訳ない気持ちになる。

 三幕七場の最後の課題、どんでん返しでは、彼はひばりに惚れていると告げた水樹と別れた後、カルガモの親子が猫に襲われたのを目撃し、以前飼っていたインコも野良猫の襲われ、生き死にを目の当たりにして以来、食べるとき泣くようになったことを思い出す。

 八場のエピローグは、泣きながら彼を探しにベンチへ行き、急に姿を得したことを謝り、涙の意味は分からなかったが泣いているみたいだと答える。もし自分が食べられることがあったら、ちゃんと悲しんで泣いてくれるひばりちゃんみたいな人がいいと話す彼に、自分もだと答え、身勝手でサイテーで悲しく、自己満的でどうしようもないほど苦しく救えない自分たちだけれどもぜんぜん悪いことではないと思う。


 涙とはなにかという大きな謎と、主人公ひばりに起こるさまざまな出来事の小さな謎が、絡み合うようにして最後一つの答えにたどり着く流れは非常にうまく、読み応えがある。

 本作の良さは、表現の素晴らしさに尽きる。

 もう少し文量を増やし表現力豊かに盛り込めば、芥川賞などを目指せるのではと思えてくる。


「ぷくぷくとどこまでも沈んでいきたい」「ちゃぽりちゃぽりと音をたてる」「ぽすりと芝生の上に降り立った」などのオノマトペが独特でいい。


「生ぬるい風がびゅうっと吹いて、もみの木をざかざかと激しく揺さぶる。正体不明の鳥がヴィーヨっと鳴き、それに呼応したように蝉がじじじと控えめに鳴いた。そして螺旋階段からはカンカンと、誰かの足音がする」

 この辺りの音の表現も状況を説明しながら、不安な気持ちが膨らんできて、誰かが迫ってくる様子が想像できる。


「なんだかお互い自分の心の内を暴かれないようにへたくそなかくれんぼをしているみたいで、私たちは本当にどこまでも、果てなんてないぐらい勝手なんだなあと思った」という書き方も、難しいことばをつかわず、わかりやすくて独特な表現が実にいい。

 こういうところが作者の作風、味である。

 

「服の露出度が高いんじゃないのと指摘したら、おまえはおじいちゃんか! とよく分からないつっこみをされた」とある。

 主人公のひばりは女子なので、「おばあちゃんか!」のツッコミが正しい気がする。が、きっと水樹は自分の服装に対して、おじいちゃんに指摘されたのだろう。

 だから主人公に「おじいちゃんか!」といったのではと推測する。


 視覚や聴覚を意識してよく書かれているけれど、こここぞというところは五感を意識した描き方がされている。

「子猫は私を見つめながら、ぺろりと煽るように口の周りについた血をなめる。私はそれを見てとうとう吐いてしまう。のどが酸で焼ける感覚と、彼から霧のように立ち昇る血の匂い」

 生の暴力さと死のあっけなさをはじめて目の当たりにした場面。

 主人公が恐怖し、ある意味トラウマとなった場面だからこそ、より実感を込めて描き伝えようとしている。しかも状況説明の後に主人公の感想たる心の声や考えが続くからこそ、より伝わり、読み手も感情移入できるのだ。

 こういったメリハリのある書き方が、作品をより良くしているのだろう。


 本作の主人公みたく、飼っていたインコを猫に食べられてしばらく鶏肉が食べられなくなった話を親に聞いたことがある。

 人がなくなった後、肉や魚を食べるのを控える風習もまだ残っている。

 私も幼馴染や友人、近親者をなくしたときは食べるのがつらくなり、肉や魚を避けたし吐いたし、泣きながら食べたり、食べる行為を受けつけられなかったりした時期があったのを思い出す。

 食は細くなるけど、空腹にはなる。

 食べると満たされることもあるものの、そうまでして生きたいのかと悩んでは胸が苦しくなったことも思い出される。

 

 主人公が「晴れて呪いが解けたら最近話題になっているあのおしゃれなカフェに行って、でっかいふわふわパンケーキを食べてやるんだ。涙が伴わない食事って、どんな感じなんだろう」と思いを馳せる部分は、ちょっとわかる。

 泣きながら食べていると、味はよくわからなくなる。

 味覚も薄く感じるし、食べること自体、作業になる。

 一人でもそもそ食べることが「これがここの大学での私のルーティーンだ」と書かれていて、ひばりにとっては食事は苦行だし、決まりきった作業なのだ。

 料理を撮影してから食べると美味しさが損なう話がある。

 料理とは、匂いや味だけでなく、見た目からくる感動も含まれている。だから、食べる前に撮影という作業を入れると感動が損ない、その分味覚が落ちてしまう。

 写真映えするからと、食べる前に撮影するのは損しているといっていい。

 食べる前に撮影している人は、泣きながら味覚を残って食べるひばりと同じだと思う。そう考えると、読み手の中にも共感しやすい人がいるのではと邪推したくなる。


 ひばりは、温かい感情から生まれた涙と、悲しい感情から生まれた涙の二つが存在し、自分の涙はどちらだろうと考えている。

 彼女の場合、悲しいから泣いていたのだけれども、涙には三種類ある。

 一つは、目の表面を保護したり酸素を供給したりするために基礎的に分泌される涙。

 二つめは、玉ねぎを切ったときや煙やゴミが目に入ったとき、ワサビを食べたときなどに出る刺激性の涙。

 三つめは、情動の起伏によって出る感情性の涙。

 温かい感情と悲しい感情、どちらも同じ情動の起伏からくる涙なのだ。


 わたしたちの日常は、うまくいったり行かなかったり、嬉しかったり悲しかったり様々。それを受け止めて生きているわけだけれども、うまくいったことは受け止められるのに、うまくいかなかったことは受け止めるのは難しい。しかも、損得や上下、優劣といった善悪で推し量ってしまう。

 その思いを、「煩悩」と呼ぶ。

 わたしたち生きている者は、いのちというはじめがあり、煩悩という心が覆った二重構造になっている。

 どんなに綺麗事をならべても、生きる以上、他の生物のいのちを食べなければならない。

 鳥や家畜、魚、野菜に果物、スーパーやコンビニの棚にならび、飲食店で提供される食べ物はすべて、他の生物の成れの果てである。

 繁殖して数を増やす以上、生物には人と同じく家族や仲間がある。

 すべてのいのちは尊く、上も下もない存在なのに、善悪を元にした自分の都合のいい考えを無意識に優先して生きている。

 ひばりは彼と出会い、忘れていたはじめに気付かされた。

 野良猫が鳥を食べる姿をひばりに見せることで、はじめに帰ることを促したのだ。


「死は一人では完結しない」という言葉がある。

 死者に関わらなければ、死を悲しみ、悼み、埋葬することもしない。悲しんで受け止めてくれる人がいて、はじめて死は完結する。

 人を含め、すべてのいのちは、決してはかることのできないかけがえのない存在、無量寿である。

 だからこそ、互いに助け、支え、補い合って生きている。

 それでも人は、いのちと煩悩を合わせ持ち、離れることができないからこそ、いつでもなにかに誰かに気付かされ、教えられながら、自分の生き方や考え方が問われる歩みをしていく。

 それが、今を生きるということなのだろう。


 身勝手で度し難く救われない行為かもしれないけれども、かといって煩悩や残酷さから離れることができず、仏教の南無阿弥陀仏が呼びかける「いのちに帰れ、はじめに帰れ」に通じた生き方に改めて気づかせてくれる本作は、仏教を意図してつくったわけではないと思うけれども、作者の中には無意識にそういった考えがどこかに溶け込んでいたから作品に表れ出たのだと考える。


 長くとも短かろうとも、はじめと終わりの間には、生きている時間に満ち満ちているからこそ、生き物の存在は輝いているのだ。


 読後、タイトルを見ながら考える。読む前は、どういう話か想像できなかった。

 べったりというのは、「血がべったり」「べったりくっつく」みたいに、何かと何かが付いている感じがする。

 命はなににベッタリとついているのか。

 食べ物はもちろん、食べて生きている人そのものに付いている。

 煩悩に、命がべったりくっついている。

 それこそが、生物であり人である。

 実に上手いタイトルの付け方であり、これ以外にない。

 食べられる側は、悲しみながらせめて自分の命を受け取ってくれた人が少しでも望む生き方をして長らえてくれるよう、無駄にしないでほしいと願っているかもしれない。

 無駄にはしたくないものである。 

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