学園編
三十三枚目『最悪の寝起き』
最初に感じたのは暑さだった。
目も耳も働いてないというのに、
──これは夢だ。
何より悪夢っぽいのがいい証拠だ。
夢なので証明のしようが無いが、僕は人生で悪夢しか見た事が無いのだ。
映画『ドクターストレンジ』のアメリカ・チャベス曰く、夢で見た光景は、
ミチカ風に言うなら、多次元銀河級に僕は不幸なのだ。
……ミチカ風に言ったことで、規模が下がった感じはあるが。
「───……?」
そんな事を考えていると、ガラスクリーナーの洗剤を拭き取るように、唐突に僕の視界が晴れる。
──否、これは、晴れたと言えるのか?
溶けている。
道行く人も、建物も、例外なく。日差しに当て続けた蝋人形のように、ドロドロに溶けて崩れている。
耳は未だ聞こえないが、それでも阿鼻叫喚が響き渡っているであろうことは想像に難くなかった。
「…………」
これは一体なんだと声に出したかったが、喉が震えない。
蝋人形のようどころか、蝋そのものである僕にとって熱は最大の弱点だ。だからきっと、瞼を閉じた訳でもないのに視界が塞がっていたのも、声が出ないのも、他同様に僕の肉体が溶けてしまっているからだろう。
そう推察したところで──何故、その他が僕の足元にあるのだろうか──という事に気付く。
まぁ、これは夢なのだから、自分の背丈が巨人並にデカくなる事くらいあるのだろう。そんな風に解釈しようとした、その時──ピクリとも動かなかった僕の腕が、ひとりでに動き出し始める。
「────ッ!!」
僕は何とか抵抗しようするが、これが夢の中だからか、奇妙な、もどかしい感覚に自由意志を奪われ、逃げ惑う人々を、子供が蟻に向かって無邪気でするように、指でゆっくりと押し潰していく。
「──……ッ」
ずっと感覚が奪われてればまだ救いがあるというのに、潰す度に皮膚に染みる肉の弾力と、柔らかい骨の軋む音。血と内臓が指の隙間から漏れ出て、僕の指紋にへばり付く感触。鼻腔を擽る焼け爛れた肉の匂い──それら全てが、潰す度、鮮明に取り戻されていく。
しかも、鮮明になったことで、溶けているように見えた建物や人は全く溶けておらず、僕の方こそが、視界が歪む程に溶けてしまっているのだと自覚する。
ここが、何処で、自分が何をしているかさえも。
──嗚呼、これは悪夢だ。
──そして、別の宇宙の話でもない。
これは僕の人生だ。
他の誰も、別宇宙の自分にだって奪われてはならないものだ。
全く、夢みたいな気分だ。
「ゔっ……ゔぉああぁぁぁ! あぁああああ! あああああああッ!!」
口から溶けた蝋や、暖かな命だったものを吐き出しながら、僕は空に向かって、怪物そのもののように
何もかもが、無様であった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
こういう時、悪夢への恐怖に飛び起きるなりすれば、それなりに様にはなるのだろうが、現実はそう上手いこと行かないもので、僕はレストランの床に敷いた布団の中で、寝汗びっしょりの状態で起きた為、感嘆符が付くほどはいかなかったが、不快感に「うっわぁ〜……」と呻き声を代わりに上げた。
「クソ〜ッ……新しい布団が合わなかったのかなぁ……日本人は床の上で寝るんじゃなかったのか……?」
僕の部屋はもう完全にチアカさんに譲り渡した状態に自然となってしまっているため、寝袋で寝るよりはマシに眠れそうとノエルさんから購入したのがこの敷布団だったが、使った初日で悪夢を見てしまうのは、正直言って想定出来てなかった不幸のパターンだった。体調管理に役立てる為、ミチカに作って貰った睡眠管理アプリも、僕の呻き声ばかり録音している。一つだけ、夢と全く関係なく「び、ビバ脱税……」って言ってる奴もあった。
ある意味、夢ではあるけど。
「ふぅ……」
兎に角、寝汗で濡れた下着が不愉快だったが、こんな事もあろうかと替えの下着を用意していた僕は、上衣だけ脱ぎ去ると、替えに用意していた黒のインナーシャツを手に取りながら、全員分の朝食を作りに厨房の扉を開き、
「あら兄様、おはようございますわ」
開くと同時に、キミエの裸エプロンが出迎える。
「来るのを心よりお待ちしておりましたわ。実際の所、待機時間は三十分ですが、一分が一時間に感じる程長く……このキミエ、精一杯御奉仕させて頂きます。ささっ、ご飯にしますか? シャワーでサッパリしてきまふか? それともわ・た・く・し?」
裸エプロン。
一説では、着の身着のままで押しかけ女房した女性が、下着を含む全ての衣服を洗濯する羽目になり『洗濯したはいいが、肝心の代わりとなる着替えが無く、仕方なく裸のままエプロンを着用した』というのが元になっているそれは、健全な男子諸君なら誰でも一度は妄想する定番シチュエーション。それはまさしく漢の浪漫、漢の夢、
「ああ、ったく……」
「『ああ、ったく、たまんねぇ〜』ですか? しかし、欲情してるにしては酷い顔色ですわね? どうしましたの?」
「欲情してないし、もし顔色が悪く見えたなら、きっと起き抜けにお前の裸見ちゃったからかな。それに、聞いてもどうせ意味わかんねぇだろうけど、一応聞いておこう──何してんだ朝っぱらから!!」
「朝食を作ってますの。兄様にしては起きるのが遅かったので、私が代わりに」
言われて僕が時計を見ると、確かにキミエの言う通り、いつもの起床時間より三十分寝坊してしまっていた。
目覚まし時計は、毎回使おうとする度に故障してたり、電池が切れていたり、時間がズレていたりするため、毎回起床には体内時計を用いている。訓練の甲斐あっていつもなら家族で一番早起きが出来るのだが、今朝は悪夢に気を取られ、上手く機能しなかったらしい。
「それは、まぁ助かるが……その格好の理由には全然なってないぞ」
「御安心を。処理は万全ですわ」
「何がだ、聞きたかねぇよ、妹のデリケートな事情なんざ」
「もぉ〜、ノリ悪いですわねぇ。これでも兄様の好きな旧大地のオタク趣味に合わせたんですわよ? それとも、チアカさんの裸を見て、目が肥えてしまいましたか?」
「理由一、お前が妹だから。理由二……目が肥えるってのもあながち間違いじゃないな。お前の裸はチアカさんのに比べて何遍も見てきたから安っぽいんだよ。通常衣装が水着みたいなキャラが、イベントで水着衣装とかを着てもあんまり露出が上がったように感じないのと一緒でな」
漏れなくサービス強制終了されてるから、実際に遊んだ事ないけど。
「相変わらずよく分からない喩えですが……──つまり、チアカさんの身体は私に比べて、どうだと言いたいのですか? もっとハッキリ仰って下さいまし」
「ハッ! 望みとあらば、特別に無料で言ってやろう。お前の体に比べれば、チアカさんの身体の方がスケベだね!!」
望み薄だろうが、少しでもキミエの意欲を削ぐべく、先程の台詞に掛けて僕がそう言った瞬間。
──ガシャンッ!
と、僕の背後で皿の割れる音が響く。
その盛大な音が、鳴らなかった目覚まし時計の代わりとなり、僕は冴えた頭で自分の発言の愚かさを自認しつつ、恐る恐ると、後ろを振り返る。
すると、そこには予想通り、食べ終えた朝食が載っていた皿を落っことし、目尻に涙を貯め、羞恥に肩を震わせるチアカさんの姿があった。
「あ〜っと……チアカさん? 先程の台詞はですねぇ……」
無意味なのが分かりきっていても、今際の際の命乞いくらい慎重に言葉を選んで自身の弁護しようとすると、チアカさんは耐えるように噛んでいた下唇から歯を離し、
「……──えっち」
と、蔑むように言った。
妹達に鼻をへし折られた時よりも、痛かった。
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