三十枚目『今際の際』

「うっ……クソッ……」


 がらんと広がった薄暗い空間にて、怪我を負い、息も絶え絶えとなったラウールのうめき声に重なるように──男の鼻歌が響く。


「リヴィンアーハーン♪ ラヴィンフリー♪ シーズンチケハラなんちゃら〜♪」


 それは、かつて大地があった時代に生きていた音楽家が作った『地獄のハイウェイ』として知られる楽曲だった。

 歌詞がうろ覚えで適当な癖に、やたらと上手い鼻歌を響かせるその男は、両足をだらしなく机の上に乗せながら、白色の甘いクリームを、二枚の黒いチョコレートクッキーで挟んだお菓子を缶から取り出し、中にあるクリームだけ舐め取り、残ったチョコクッキーを挟み直して缶に戻すを繰り返す。

 まるで幼児か、思春期に入った不良少年のような行儀の悪さだが、男は上流階層の晩餐会で着てくるような洒落た燕尾えんび服、渦巻状に巻かれたこけ色の髪に堀の入った端正な顔立ちなど、作法に目を瞑れば、男であっても惚れ惚れとする程に、優れた容姿をした紳士であった。

 だが同時に、目の前に居るこの男が人類の天敵、害蟲がいちゅうであると、視覚では無く、ラウールの右眼に眠るパキラが疼きで感じ取る。

 当然ながら、人蟲じんちゅう種に変化した事による擬態なのだろうが、このように全く見分けが付けない程、人間に化けれる個体に会ったことが無かったラウールは、生殺与奪を完全に握られている状況もあって、目の前の未知に只々恐怖していた。


「テーブルに足を乗せるのは百歩譲って許しますが。その舐めるの、辞めてくださいってボク言いましたよね? キウェテルさん」


 燕尾えんび服の紳士をキウェテルと呼び、ネチネチとした苛立ちを口いっぱいに含ませてそう叱責しっせきしたのは、ラウールではなく、その場にもう一人居た少年から、恐らく発されたものだった。

 恐らくと言うのも、少年はペパーミントのような明るい青緑色をした、ファー付きのダウンジャケットのフードを目深に被り、またジッパーも口元まで上がる仕様になっているため、口元は愚か、肌と呼べる部分の一切を確認する事が出来なかった。

 薄暗く、暖かいと呼べる場所ではないものの、それ程の防寒が必要と思える場所では無かった上、手をポケットに突っ込んで椅子に座っていることから、意図して肉体を秘匿しているのだろうと、ラウールは推察する。


「爽やかに言って、不快です」


 爽やかと言う割には、口調の苛立ちをまるで隠さず、寧ろ昂らせるように少年が続けてそう言うと、キウェテルは余裕ぶった笑みを零しつつ、返答する。


「いやなぁ、このサンド・クッキーは中のクリームだけ美味であるがクッキーの方は微妙でな? だから悪いのは吾輩ではなく、このサンド・クッキーのクッキー部分を疎かにした、企業の努力不足の方だ、違うか?」

「違います。貴方の味覚次第でしょうが。はぁ……そんなにクリームが好きなら、今度は中のクリームだけ買ってくればいいじゃないですか」

「なんと! 名案だな。何故今まで気が付かなかったのだろう……いや、やはり気付いていた気がする。昔吾輩が貴様に提案したんじゃなかったか?」

「チッ……糖尿病辺りにでもなって、爽やかに死ねばいいのに」

「お、お前ら一体……なんなんだ……?」


 最初からするべきだった至極真っ当な疑問を、二人に向かってラウールが投げ掛けると、二人は雑談も、クリームを舐めるのも止めて、ラウールに対し、養豚場の豚にでも向けるような、冷ややかな視線を向ける。


 ──しまった、殺されるか?


 よもや判断を誤ってしまったのかと、思わず失禁してしまいそうになるが、次の瞬間、キウェテルと呼ばれた紳士の方がニコリと笑みを浮かべ、クリーム抜きのサンド・クッキーの入った缶を脇に抱えて、ラウールの方へと歩み寄ってくる。


「おやおやおや、緊張しているのか? なぁに、案ずるな。確かに立場的に貴様は少々……適量……いや、致死量レベルに不味い事をやらかしてくれたが。メル友である吾輩が弁護してやろう」

「メル友? ……あっ、まさかアンタ……」


 一瞬何の事か分からず、困惑したラウールだったが、手紙と言えばで思い当たるものが、一つだけあった。

 あの紅桜の蟲狩むしかりによって船を破壊され、部下をミイラ化される前、依頼報酬の安さに愚痴ったあの手紙──推し量るに、目の前のこの男こそが、あの手紙を書いた主なのだろうと、ラウールは理解し、成程、確かにあの手紙の内容に相応しい人物像であると納得する。


「クフフ……察しがついたようでなにより。それで早速だが、依頼していた大量の花粉。加えて蛾の害蟲がいちゅうの損害について……貴様、どう落とし前を付けるつもりだ?」

「ッ!? ちょっと待てよ! それは──」


 と、ラウールが反論と同時に立ち上がろうとした瞬間。キウェテルは上昇しようとしたラウールの肩を掴み、抑え込む。


「ぐぁッ!?」


 細腕から出力されているとは思えぬ、万力のような握力が齎す激痛によって、堪らずラウールは声を上げる。


「コラコラ、動くな動くな。全く、乱暴な奴め」

「どっちがだ、クソッタレ……!!」

「なんだ、やめて欲しいのか? 空賊の長ともあろう男が情けない……しかし、こうしている方がお前の為なのだぞ?」

「あぁ?! 何言って──ッ!?」


 言いながら、肩を抑え込まれた姿勢ゆえに、自然と視線が下がった事で、ラウールはキウェテルが発した言葉の真意を理解する。

 氷だ。氷が張っていたのだ。

 高度を上昇させ過ぎた飛空挺が氷結してしまうように、地面に接着しているラウールの身体の部位が、雲母きららを浮かべたような氷によって凍りつき、無理に動かせば、あわや皮膚が破れてしまうという状態であった。


「なんだ、両手を爽やかに切り揃えてやろうと思ったんだがな」


 既に聞き慣れた口癖と共にそう言ったのは、あのペパーミントのダウンジャケットを着た少年だった。少年は、静止画の如く座った姿勢を維持したまま、足を伝い、全く気取らせる事無く、冷気をラウールの元に届かせていた。


「この能力……そうか、アンタがペトルトンで舞踏会に居る奴らを皆殺しにしたって言う……」

「モンティ・アナスタージ……キウェテルさんが弁護人なら、お前にとってボクは判事と言った所だ。それで? 『それ』はなんだ、誰の、なんのせいにしようとしたんだ? 何を言うにせよ、一語一句、遺言のつもりで言葉を選べよ?」


 モンティと名乗ったその少年の言葉に背筋が冷たくなるのは、きっとラウールの手足が氷漬けにされているだけが原因ではないだろう。

 圧倒的だった。桜の蟲狩に一太刀で即死の妖刀を向けられた時でも感じなかったような恐怖によって、生物として格が違う事を理解らされていた。


「モンティの言う通りだ。ここが今際の際だぞ、友よ? クハハハハハハ! さぁ、誰だ? 誰が貴様の船を、部下を、その右手を奪い、こんな惨めな姿に変えたのだ? さぁ────言えッ!!」


 ギチリと肩の骨を軋ませながらキウェテルにそう問い詰められ、ラウールは命綱無しで綱渡りをしているような気分に溜飲が下がってしまう。


 ──誰のせいか? 無論、俺では無い。


 思い出すだけで腸が煮えくり返り、凍てつく氷の寒さなど忘れてしまう程のその名を──姓を──ラウールは慎重に、かつ強い憎悪を込めて吐き捨てる。


「『蝋梅ウィンター・スウィート』──あのノブナガ一味のせいだ……!!」

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