イヌ科のオンナ

プロローグ

 畳の匂いがする。日に焼けた本棚にカラフルな参考書が詰まっている。スミの部屋だ。高校時代にスミが下宿していた狭い部屋。三本脚の丸卓には麦茶の入ったコップが二つ置いてあって、結露した水滴が汗みたいに見える。私とスミは二人で小さいスマホの画面を覗き込んでいる。

「屋久島ははずせないなぁ」

 スミは画面から目を離さない。そうだ、大学生になったら旅行したい場所について話していたんだ。朝から晩まで受験勉強に支配された私たちが定めた、十五時から十六時までの休憩時間。今日の雑談のテーマを最初に決めて、それについて語り合う。エメラルドグリーンの海や歴史を感じる大木の目を引く写真の合間に、必ずいかがわしい広告が挟まって、スミがそれをなんでもない風に、でもちょっと急いでスクロールする。でも、時々間違ってタップして、画面いっぱいに映る。

「スミ、普段変なこと調べてるから広告偏ってるんじゃないの?」

 私の笑い方は、たぶん結構わざとらしかったと思う。「そんなことないって」とスミも笑うが、その声はしけた線香の煙みたいに弱々しく消えていく。

「ヤエちゃんって経験……」

「ない。あるわけないじゃん」

 変に早口になった。部屋の中に言葉が足りない。何か次の話をしなくちゃ。

「キスってどんな感じなのかな」

 スミが私を覗き込む。私は息を呑む。金縛りにあったように動けなくなった私に、スミが近づいてくる。


 アラームの音がジリジリと響く。

 何度も見るファーストキスの夢。そこから連綿と続く私とスミの奇妙な関係の始まり。アラームの不快な音と、夏の暑さが今は現実だと教えてくれる。

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イヌ科のオンナ @nu_sousaku

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