smoldering emotions

日が変わるたび、心が揺らぐ。正しさとはなんなのかを求めている、どうしようもない自分がいる。チェシャ猫と話し合わったあと、料理を作っている間も、どうすれば良いかずっと考えていました。ですが、それでも答えは出ませんでした。未だ、私には霧がかかったようです。いいえ、それは霧ですらないのかもしれません。私を包むこの感情は、いったいなんだというのでしょうか。

……答えなど、あるのでしょうか。

私は、料理を終わらせたのちに、アリス様の座る玉座へと向かいました。変わらない荒れた土地を見続けると、かつてのような生活はもう簡単には戻らないのだと、そう思わざるを得ませんでした。ですが、アリス様の前でこのような顔を見せる訳にもいきません。私は従者。そばに寄り添い、アリス様のお世話をする。主人を悲しませるような真似は、あまりしたくないのです。特に、私が原因で苦しむようなことは……もう、二度と……


「アリス様。料理を持ってまいりました。」


厨房から玉座の広間はそう遠くない。階段を数回昇り、廊下と部屋をいくつか抜けた先にある。料理が冷めないように作られた、それでいて余裕を持って造られていた間取りだ。普段は食事をすることも兼任した広間もある。しかし、そのどれもがウサギの足にはいささかに遠くも感じる大きさだった。普段であれば、料理はアリスの自室に運ばれる。階段を数回折り返しながら直通で登ることができて、遠くから回っていくよりもずっと近い。しかし、その道ももう使う必要はなくなってしまった。

玉座が置かれた大広間の横脇からノルンは姿を見せ、アリスの座る玉座へと視線を向ける。しかし、振り返った先には、アリスの姿は見当たらなかった。


「アリス様……?」


周りを見渡した視線の先から伸びる影が広間の入口に見えている。それは何をするでもなく、ただ立ちすくんで、窓の外を見つめていた。自身が跳ねて遊び、水をやることを楽しみながら服をなびかせていた、あの庭を。その虚ろな瞳は重心の揺らぎも一切なく、ただまっすぐ見つめている。その人影が物音に反応してこちらを振り返ると、それに合わせて風通しよく吹き付ける風がアリスの長い髪を持ち上げて、光の差し込まないその眼差しがあらわになる。口角は上がらず、目に小さなくまを乗せた、生気を失いながらも端正な顔立ちがノルンを見つめていた。

ノルンは恐る恐る近づいて、目の前にいるのは本当に今まで仕えてきたアリスなのかと目を疑った。手に持った食事のトレイは震え、不安定に揺れる瞳はまだ疑心を抱えている。


「……」

「アリス様、お目覚めになられたのですか?」

「……」

「アリス様……」


アリス様は、不意に立っては歩くことを繰り返していました。まだ大きな移動もままならず、言葉を話せるほどに安定はされていないご様子です。栄養の不足によるものかとメニューを見直しましたが、そういう訳ではないことも見れば分かります。のちに合流したチェシャ猫と話し合った結果、我々の意見は夢遊病のような状態であるということでまとまりました。そして、意識は朦朧もうろうとしておぼつかない様子であるにもかかわらず、夢遊病とは違って睡眠中であるとは考えにくい、とも。

アリス様はあのあと、食事を取ることもないまま外へと出てしまわれました。私は先に食事を片付けなければならないため、一旦の様子はチェシャ猫が見ておくことになりました。


……アリス様は、私の話を聞いてどのように思われていたのでしょうか。やはり、チェシャ猫の言う通り、甘い蜜のような世迷言だったのでしょうか。微かに笑っていた、あの顔は……私は、あの上がった口角を、そのままに受け止めても良いのでしょうか……そんなことばかりが頭をよぎります。真実を告げるか、装飾された世界をかたるか。選択次第では、アリス様の今後に大きな影響を与えるかもしれません。ですが、決断を途中で変えてしまえば話が噛み合わなくなる。


……ああ、鏡から見た私は、ずいぶんとひどい顔をしていたのですね。ただ料理の片付けをしているだけだというのに、こんなに気力のない顔を見せていたとは。まさか、丁寧に磨き上げた食器で自分の顔を知ることになるとは思いませんでした。こんな顔のままアリス様の元に戻ってしまったら、きっとまた怒られてしまうかもしれません。自分でも、笑ってしまいます。

ちょうどいい機会だったので、これを機に、私は一度自分のことを見つめ直すことにしました。私はこのことを難しく考えすぎていたのかもしれない、そう思うと、改めて今後の話をどのように進めるべきかを考え直すきっかけにもなりました。机に向き直し、どうするべきかと考えていると、机の上に散らばっていた何通かの手紙を目にしました。それは私が旅の道中に受け取った、アリス様からの手書きの手紙。旅の思い出として保管しておいたものでした。


「……!」


この選択が正しいかどうかは私には、いいえ、不思議の国にいる全員が知り得ることではありません。ですが、ようやっと、私が進むべき道が決まりました。ようやく、私の中で陰る感情が晴れたような気がします。最初からずっと、私の答えは決まっていたのです。


そして、ノルンは厨房に背を向ける。ノルンが大広間に戻ると、アリスとチェシャ猫も既に外からは戻ってきているようだった。大広間の中央を歩き、アリスはまた玉座に腰を下ろす。そして、また以前と同じように、一点を見つめて動かない。しかし、以前と比べて、その顔はどこか穏やかになっているような気がして、不思議と安心した。


「……白ウサギ、決まったのか。」

「ええ。ずいぶんと迷いましたが……」

「どうするんだ。」

「……全てを、話すことにしました。」

「そうか……決めたんだな。」

「はい。厳しい話は確かに多いですが、全てが悪い方向に運んだというわけではありませんし、優しくしていただいたのも事実ですから。」

「それに……書いてあったのです。」

「書いてあった?」

「『ありのままを知りたい』。私は旅に出てから、アリス様に何通かの手紙を送っています。そして、これは最初の手紙を出した時の返事の中に書いてあった一文です。必要のない心配でした。アリス様は、最初から望んでいたのです。」

「解決したならいいが……まったく、俺の取り越し苦労だったか。まあ、良かったよ。今日だけでどうするか決められたなら、ここから先を心配をする必要はなさそうだ。」

「悪いとは思っていますよ……ですが、どうするべきかを考える中で、自分を見つめ直すこともできました。それはチェシャ猫の言葉があってこそ、できたものですから。」

「はァ、勘弁してくれ。」


結局、呆れるようにチェシャ猫はその場を後にしてしまいました。ですが、私の進むべき道が決まったことはとても大きな進歩と言えるでしょう。心のわだかまりは消えました。これでようやく、話に集中することができそうです。


「アリス様。お話はまた明日から、続きをお話しします。ですが、その中で少しばかり心を痛めてしまうようなお話をしてしまうかもしれません。」

「……」

「ありのままのことを知りたいと、アリス様が手紙で教えてくれましたから。これからは、あまり話を偽るようなことはしたくありません。」

「……!」

「次の話からは、今までに話してきた明るく優しい人たちの話ばかりではありません。異質な存在を排除しようとするのは、どの生物でも同じなのです。」

「……」

「……嫌な話を聞かせてしまいましたね。では、少しばかり私の話をしましょうか。旅の話ではなく、私自身の話を。こうやって誰かに話すのは、実は初めてなんです。かたくなに断ってきましたから。」


私はアリス様と同じく、外の世界からやってきたのです。こちらの世界の皆様が「ハートの女王」や「代用ウミガメ」「チェシャ猫」「公爵夫人」といった名前をしているのに対して、私だけがノルンという名を持っているのは不思議だと思いませんでしたか?この不思議の国には、その人個人を示す名前がないのです。というより、そういった文化がないと言うべきでしょうね。チェシャ猫も私のことを「白ウサギ」と呼んでいたでしょう?初めてこの国に訪れた時は驚きました。「名前はなんというのですか?」と聞くと、「私はハートの女王だ」としか言ってくれないのです。ですが、もうそれにも慣れてしまいました。

私がアリス様の従者として仕えることにしたのも、慣れない不思議の国でアリス様に疎外感を感じてほしくないからでした。そんな心配も必要ありませんでしたけどね。ただ、それでも時には傷つくこともあるでしょうから……その時は、手を差し伸べようと考えていました。それに、生き生きとしていたアリス様の姿を見ていると、私も元気がもらえました。アリス様、私は今も、アリス様のことを好いています。この心はもう変わりません。ですから、これからもどうか、ずっと私をそばに置いてはくれませんか。


……返事はお預けですね。ええ、いつまでも待ちますとも。

そういえば、私がなぜ喋れるのかについて話していませんでしたね。私にもよく分からないのです。偶然この国の入口を見つけ、穴の中に入ってから……特段なにかを意識することもなく、私は思いのままに喋れるようになっていました。それまでは四足だった移動も、人間に合わせるような二足歩行になっていました。理由は、と聞かれると……私にもわかりません。ですが、この国の動物はみな思い思いの言葉を話し、独特の変化を遂げている方もおられます。「不思議の国」と言うだけあって、外の世界とは随分と違うのです。


「アリス様。私は人間に飼われていたんです。ノルンという名は、その時の飼い主からいただきました。アリス様が外を見たいと思っていたように、私も外の世界を見たかったのです。こう考えると、私たちは案外似た者同士なのかもしれません。」


ノルンはアリスが来る前からこの場所で暮らしている。少なくとも、5年以上は前の話だ。本来、ウサギの寿命はそう長くない。5年も経てば体は衰え、あちこちを動き回るということも難しくなってくる頃だ。しかし、その体には大きな変化がない。年齢による衰えも感じない。

この世界に、外の世界の常識を当てはめるのは違うのかもしれない。外の世界と相違ない部分も多いが、それ以上に常識が通用しないことも多かった。


「……すっかり適応してしまいましたが、改めて思い返してみると、なんとも不思議な世界をしていますね。」

「さて、私についての話はこれで終わりです。いつかまた……別の機会があれば他のことも話しましょう。今日は頭に整理をつけさせてください。従者にも休息は必要ですから。」


今日は、様々なことに整理をつけられた日でした。頭の中はとてもすっきりとしていて、今までに溜めこんでいた不安の種を、一気に処分できたような気持ちです。私は、アリス様の前では、失敗をしないように気をつけなければならない。従者として不甲斐ない所を見せてしまう訳にはいかない、そう思って接し続けていたうちに、私の頭はそればかりになっていたような気がします。

それに対して気を配ることは悪いとは思いませんが、ずいぶんと引っ張られてしまっていたようです。

昨日の晩から、今日の朝を経て、考え方は大きく変わりました。特に、弱い部分を隠す必要はないということを学びました……何年経ったとしても、生物は成長できるのですね。

現在の時刻は、日がちょうど真上にくるあたりです。まだ日が落ちるまで時間はありますから、今日は明日から話す内容を改めて整理しておくことにしました。

アリス様がいずれ話をできるほどにまで回復しましたら、ゆっくりとお話をしてみたいものです。私の話はどのように感じたのか、その感想が気になります。


それでは、また明日。

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