false honesty and interlude

ウサギは夜行性というのが一般的です。もちろん、私も例外ではありません。ただし、不思議の国にそういった固定概念を持ち込むのはあまり得策ではないとも言えるでしょう。夜行性の生き物が日中に行動することがなんらおかしなことではないように、私も基本の行動は日中に行いますし、睡眠も基本的には夜に行います。どの生き物であっても基本はそうでしょうが、私はかつて過ごした方々の生活に合わせていることもあり、睡眠に入る時間は人間と遜色ないのです。ただ、夜は少し頭が冴えるような気がします。

そのせいか、最近は目覚めの時間も早く感じます。アリス様に食事をお出しするという点では、早くから仕込みを行えるので良いのですが……


今日は、薄暗い雲が空を包んでいました。空を見上げると、今にも降り出しそうな淀んだ色をしています。迷う心とともに、その手を上へ差し出してみると、泣きたい時は誰にでもあるのかもしれない、ふと、そう思いました。そう、きっと、あの空も。

私は普段から、まだ薄暗く、隠れた陽も登りきらないような時間に厨房に立つことが多いです。女王の姿なき今も、その機能が失われていないことは幸いでした。この時間帯にチェシャ猫がこちらに姿を見せると、調達してきた食材を私に受け渡しに来るのです。もはや習慣づけられたようなもので、こうして顔を合わせることも多くなりました。


「ありがとうございます。今日は小麦もあるのですね、これでアリス様にまたパンを振る舞えそうです。」

「別にいい。お前が言ってたからな。ところでだ。お前、随分と綺麗事を姫様に吹き込んでるようだな?」

「白ウサギ、俺はずっと気になってたんだ。城を出る前よりも傷が増えてることが。お前が話してるような明るい世界じゃなかったんだろ?サーカスの話だって、お前も周りの動物と一緒に折檻されててもおかしくない話だ。」

「……いえ、そこまでは。団長は、本当に優しい方ですから。」

「へえ。で、実際どうなんだ。お前自身はどう思ってる?姫様にはこのまま甘い蜜を吸わせるのか?」

「悩んでいます。本当のことを話すべきかどうか。今まで、本当のことを織り交ぜながら修飾していたのは事実です。ですが、私たちは動物。人間とは違います。」

「……説明しろ。」

「私たちのような動物の間に語り継ぐなら、ありのままを伝え、話すことも良いでしょう。ですが、アリス様は人間です。自分と同じ種族の者が、我々のような親しきものを虐げたと知れば……アリス様はとても感受性豊かな方ですから、きっと、きっと心を傷つけてしまう。ですから、私はまだ、全てを語るべきではない。そう考えています。」

「お前の言い分はわかった。確かに、一理ある話だ。……姫様はもう十二になる。まだ心配になるのもわかる。だが、今……籠の入り口を閉めているのはお前だと、俺は思う。」

「……」

「ただ、これは……俺の勝手な押しつけだ。お前のやり方を否定するつもりはない。それでも、ひとつの意見として知っておいて欲しかったんだ。」

「そうですか……ありがとうございます。」


ノルンは食材を受け取ると、口角を上げてふいに声を漏らす。食事を調理場に運びながら、上がった口角を見たチェシャ猫は気味悪げに顔を歪めていた。


「ああ……いえ。意見をくれるのは、いつもチェシャ猫だったなと思いまして。皆、私が世話をするのならと安心しきった様子でした。」

「私はアリス様のお相手をする際、それはもう不安でしたから……気軽に相談できたのは、チェシャ猫しかいなかったんですよ。」

「外の世界の子育てなんて知らない奴が多かったしな……気まぐれに外に出といて良かったよ。お前、あのままだと過労で倒れるんじゃないかと思ったからな。」

「ああ、ありましたね、そんな時期も……どうです?日はまだ昇っていませんし、少し話をしていきませんか。」

「珍しいな、お前から持ちかけるなんて。ま、気になることがあるんだろ?いいぜ、付き合ってやるよ。」


まだ外は暗く、アリス様が目覚めるまではしばらくの時間があります。私たちは厨房の片隅から差し込む明かりを見ながら、日が昇るのを待つことにしました。よく考えてみれば、お互いに話す時間というものを全くと言っていいほどに取っていませんでした。お互いに「自分の役割」にとらわれていたのかもしれません。

何事にも、幕間はあるものです。それが今であり、私たちの休憩時間を担うものでもあります。改めて話をしておくことは、今後の生活にも良いものになるかと思います。


「私は、この数年間のことを知りません。よろしければ、教えてくれませんか?ジャバウォックが来る前のアリス様のことを。」

「ああ、わかった。姫様と接する時にも使えるかもしれないしな……あー……」

「私が旅立ってから、ジャバウォックが来るまでは……約一年ほどありますね。その一年のことだけでも……」

「そうか、もうそんなに経ったのか。生きることに必死になると、年月っていうのはあっという間に経っちまうな。」


チェシャ猫は考え込むように、思い出すように思案をめぐらせている。そして、十数秒も数えないうちに、彼は思い出を語り始めた。


それは、ノルンが旅に出てすぐのこと。普段、城内でノルンが行っていたような身の回りの世話は、誰が担当するのかという話になった。アリスは自分一人でもできる、ということを証明するため、様々なものに自分ひとりで挑戦した。茶を入れること、シーツを整えること、自分で料理をすることなど、それはもうたくさんのことに。チェシャ猫はたまにアリスの元へ行き、その様子を見ていた。その度に、失敗してはどうすればいいかと慌てるアリスの姿があり、チェシャ猫は頭を抱えながらも遠回りながらも自立できるように言葉をかけてきた。

それが本当に成功したかはさておき、とても楽しそうにしていたらしい。しかし、そんなアリスも、時間が経てばやがて寂しさを覚えてくる頃合いになってくる。失ったものが帰ってくるとは限らない。そんな不安がアリスの体を蝕んで、ひとりで泣くようになってしまった。ハートの女王たちはその様子をひどく心配していたが、一向に収まる余地はなかったという。


「あの時、お前が手紙を送ってきただろう。それを見て、姫様はずいぶんと喜んでな……」


「決していなくならない」ということを強く信じたアリスは、精神を持ち直してまた明るく接するようになった。ノルンから送られてくる数ヶ月に一度の手紙を楽しみにしながら、ノルンが帰ってくるまでにプレゼントを作ると言って裁縫を始めた。最初こそ得意ではなかったものの、次第にその腕前を上げていって、刺繍から人形に着せる服を作るまでに至るほどにまで上達していった。しかし、アリスはここであることに気がついたという。それは、ノルンの採寸ができないことだった。サイズが分からなければ、服を作ることは出来ない。ノルンが城を出る前に測っておけばよかったと後悔し、結局、そこでアリスの裁縫の熱は途絶えてしまった。


「ふふ……アリス様らしいですね。」

「服のデザインは残してあったみたいだが……襲撃のせいでもう残ってはいないな。全部焼けちまったらしい。」

「楽しみでしたが……残念です。」


その後は大人しくしていたようだったが、それも長くは続かなかった。何にでも興味を持ち、気になったことには挑戦する。アリスにはおてんばという言葉がよく似合う。

一度アリスは、ノルンの後を追って外の世界に出ようとしたことがあった。しかし、それをチェシャ猫が止めたのだ。「もし白ウサギが帰ってきた時に、そこに仕える主人がいなかったら?」そう問うと、アリスは自室のベッドに体を傾けて答える。「きっと大騒ぎして、あちこち走り回って私を探すと思う。」そうアリスが答えると、チェシャ猫はさらに言葉を続けた。「白ウサギのことだから、不思議の国にいないと知ったらきっと今にも飛び出していく。」その言葉を聞いて、アリスは納得したように横になってしまった。


「……じゃあ、帰ってくるまであなたが相手をしてよ。お世話とかじゃなくていいの、私と話をしましょう?」

「一介の猫に話せることなど。」

「困った時に私を助けてくれたこと、忘れてないからね。不思議の国でいちばん頭が回るのはあなただって、わたし知ってるよ。」

「はぁ……庭の手入れが終わった後でいいなら。」

「決まり!じゃあ、明日からもよろしくね。私、ちゃんとここで待ってるから。」


艶のある金色の長い髪が揺れ、光の差し込んだ碧の瞳は真上を見上げている。明日からは、寂しさを和らげてくれる猫がいる。そう思うと、ひと安心したのかアリスはそのまま瞼を閉じて寝息をたててしまった。気ままに生きる猫にとって、約束というひとつの縛りは窮屈なものでしかない。ただそれでも、アリスの頬につたう涙を見てしまうと、約束を無下むげにすることはできなくなってしまった。それがアリスとチェシャ猫が話すようになったきっかけであり、この出来事があったからこそ、チェシャ猫はジャバウォックからアリスを逃がすことができたのだという。


「姫様は、ずっとお前を待ってたんだ。俺と話してる時も、しばらくすればお前の話に話題が変わる。それだけお前は、好かれてたんだ。」

「……なるほど。私も、アリス様のことはずっと好いております。従者としても、人としても。」

「お前の様子を見れば誰でもわかる。」

「そういうものでしょうか?」

「そういうもんだよ。」


陰りを見せていた空は少しの晴れ間を覗かせて、太陽が昇り始めたことを知らせている。差し込む明かりと陽の光が混ざり合い、薄く暖色の光を室内に運んでいる。


「さて、私はそろそろ料理の用意をしなくては。今日のメニューは既に決まっているのです。」

「俺は邪魔になるか?」

「そうですね……毛が入ってしまうと困りますし、一旦は離れてもらうしかないと思います。」

「じゃあしばらく見ていくか……いや、わかった。わかったからそう本当に困った表情をするな。」

「頼みますよ、本当に……」

「じゃあ、俺は姫様の様子でも見に行くとするか。起きてるようなら軽く話をしてもいいかもな。」

「久々にこうしてきちんと話せてよかったです。次もまた、時間があれば話をしましょう。」

「余裕があればな。」


そう言って、チェシャ猫はこの場を後にしました。私はアリス様に提供する食事の用意があるため、この場を離れることはできません。今日の食事は、いつしかにカフェのオーナーの青年から受け取ったメモに沿って作っていくことにしました。


アリス様は、私の帰りをずっと待ってくださっていました。私はこの不思議の国に帰ってきた時に、この数年間、仕えることのできなかった不甲斐なさも飲み込んで、これからもアリス様に従者として尽くすと改めて誓いました。私にもなにか、返せるものがあれば。土産として何か持って帰ることができれば。不思議の国に帰ってきてから、そう思うこともあります。いま私が持って帰ってこれているのは、私が外の世界で体験した話ばかりで実物と呼べるものはなにひとつないのですから。ですが、最近はアリス様に体験談の話をすると、微かに微笑むようにもなってくれました。少しずつ、少しずつ、アリス様も成長されているのだと、そう実感しました。

またいつか、元気になったアリス様とお話をしたいものです。あのはつらつとした表情を、私は忘れることができません。


さて、本日もせわしない一日が始まります。私は私のできることを、精一杯に行うとしましょう。


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