throbbing steam
何事にも休息は必要です。今回の出来事を話すなか、ずっと喋り続けるのも、ずっと聞き続けるのも大変なことです。ですから、休息を取ることも含めて、現在はアリス様にお召し上がりになっていただく食事を用意しています。チェシャ猫が食材を用意してくれていることに感謝しなくてはなりません。
本日はローストビーフにヨークシャー・プディング(もっちりとしたシュークリームの皮のような食感のパン)を添えた午餐となっております。ですが、アリス様はそう多くを食べられる方ではありませんので、少し量を控えめにしております。ご傷心なのもあり、食べやすさも加味してひとくちサイズにカットしてお出しします。
「アリス様、お持ちしました。失礼します、よく噛んでお食べください……」
「……」
アリスには未だ大きな反応はなく、ただどこかを見つめるような遠い瞳がそこにあるだけだった。ノルンは手を当てて軽く口を開かせると、そこに向けてスプーンに載せた食事を押し当てた。軽い咀嚼ののちに小さく飲み込んで、食事ができる程度の機能は保っていることが分かる。それを見る度に、ノルンの心配だったことがひとつ解消されていく。毎日、いつ体が冷えていてもおかしくないような状況に、不安がないと言えば嘘になる。詰め込みすぎないように食事を提供しながら、ノルンは旅の続きを語り始めた。
──サーカス団。それは各地を移動しながら、各地で様々な曲芸を披露しその代価に金銭を貰う仕事。それは人間離れしたようにも見える、人間と動物たちの離れ技。そして、その一度きりのチャンスを掴み、それを楽しみにしている人々に提供する。成功と失敗の際にいるスリルが、人々を熱く惹き付ける……そして、その熱狂をいかに魅せるか、それがサーカス団の個性を強く変えるのだとサーカス団の団長はいいます。
私はしばらくその意味が分かりませんでしたが、その時の私はアリス様が一時期、日に何時間も裁縫をし続けていたのと同じようなものなのかと考えていました。あの状況も、私はひとつの熱なのではないかと思います。
団長は、私のことを探していると言っていました。その噂は耳に入っていたので、こちらからサーカス団に来たと言うと、団長はとても驚いていました。団員からの信頼も厚く、動物の扱いも見ればわかるほどに良いものでした。飼われている動物たちはみな、檻の中でリラックスしている様子でくつろいでいます。団長は、「動物たちとも仲を深め、共に過ごすことで信頼を得ている」と言っていました。また、「娯楽を提供する仲間」だとも。しかし、サーカス団は躾を行う傍らである意味での虐待を想起させる行動がある場合もあります。決して、サーカス団全てが善いとは限らないのです。そこで、もし、私がサーカス団での活動を断っていたらどうするつもりだったのかと聞くと、彼は首を振って答えました。「無理に引き止めては、最高のパフォーマンスは得られない」と。その言葉を聞いて、どこか安心した自分がいました。ここにいる動物たちはみなはぐれた子供だったそうです。それらを育て、小さい頃から少しずつ共に練習をしたのだと言っていました。
私がサーカス団で活動をしたい事、そして、それは渡航や宿を確保するために必要だということ、そのために賃金が欲しいということを話すと、団長は首をかしげました。なぜそんな事をするのか……と。主人のため、世界を回るつもりでいると説明をしました。なら、なるべく早く帰ってやれと叱られもしましたが、団長は事情を飲んでくれたのです。サーカス団の裏側は、とても面白いものでした。一瞬の輝きは長い準備を経て作られることを知りました。
……ですが、団長から固く口に封をするように言われているので裏側はあまり話せません。私が怒られてしまいます。
実際に
その演目は多岐に渡ります。まず最初は、「クイックチェンジ」……いわゆる早着替えでございます。演者が小さなカーテンに包まれると、その中で別の衣装に着替えるのです。その時間はほんの十数秒ほどで、カーテンを持っている別の演者がそれを下ろすと中の演者はまた違う衣装に、そしてカーテンを上げ、また下ろすとさらに違う衣装に……そうして、短時間で様々な衣装に身を包むのです。次は「ジャグリング」。ボールやピンを用意し、それをひとつずつ宙に投げるのです。ピンが落ちてきたら回すように再度宙へ。そして、ピンを落とさないように自分の体でラリーをします。私が驚いたのは、途中で物が増えることですね。左右から大きさの違うボールやピンが次第に増えて、常人にはこなすことのできないラリーを見せてくれます。動きのひとつひとつが流れるように滑らかでした。三つ目は「ホイール」と呼ばれるものです。空中を円形に回転する二つの円の中に人間が入り、お互いのバランスを取りながら華麗に宙を回ります。そして、命綱こそありますが落下の危険性もある、危ない演目でもあります。他にも様々な演目があるのですが、それを話していると夜が明けてしまいそうなのでこの辺りで演目の話は終わりといたしましょう。
アリス様、話の続きは実際に目で確かめるのが良いでしょう。私はアリス様の不調が良くなることを願っています。またいつか、同じ場所を踏めしめられるように……いつまでも、傍にお供いたします。
サーカスの演目が終わり、私は約束通り人間と同じ代価をいただきました。七十五ペニーほど(約一万五千円程度)を渡され、軽い談笑を終わらせたのちに私はサーカス団を後にしました。
船に乗るためにの目的地までは約4分の1ほどを進んでいますが、まだ先は長く、ここから先に向かうためには、いくつかの街を経由することになります。その中で最も近いのが、「バーミンガム」。イングランドに属する、ロンドンに次いで規模のある非常に大きな街です。第二の大都市と言われていますが、世間からはそうは思われていないようでした。ですが、その街の規模の大きさは本物です。さて、この大きな規模を持つバーミンガムですが、元々は小さな村だったのだと街人はいいます。最近になって、めざましい発展を遂げたのだそうです。産業革命と呼ばれる技術の進展にともなって、その規模を拡大したのだそうですよ。このバーミンガムで有名なものは、蒸気機関車と呼ばれる大きな鉄の塊です。その鉄の塊は石炭を燃やすことで走ります。また、運河という荷物を運ぶために使われる河があり、発展を大きく進めたのだとか。
アリス様にはまだ難しい話かもしれませんが、私はこういった話を聞くととても楽しかったのです。ですが、蒸気で走る原理を教えてもらった時は私もよく分かりませんでした。人間は時に、国を変えてしまうほどの大きな進展をするのですね。
その蒸気機関車は、鉄でつくられたレールの上を走ります。ですので、鉄の道、鉄道と呼ぶのがわかりやすいと教えられました。私がバーミンガムに足を踏み入れると、オックスフォードに似た雰囲気を持つ街並みが広がっていました。ですが、オックスフォードと違ったのはあたりに倉庫が多く見られたことです。交通網が多く広がるバーミンガムは、荷物の運搬の経路にも使われているそうです。そのために、荷物を保管したり、倉庫から引き出して運搬するために建てられました。そういったことにも興味はあったのですが、私として気になったのは、こちらの料理です。ずっと移動が多く、疲労や空腹に悩まされることもありました。ですが、今は金貨やいただいた銅貨がいくつか残っています。
ですから、私は、食事を取るために店を探しながら街を歩くことにしました。ずっと大きな街並みは私の目にも新しく、区画のように分けられた十字路が多く感じました。そして、どの場所でも、私の姿が物珍しいことには変わりないようです。この場所でも変わらず周囲からの視線が痛くも感じましたが、礼節をもって挨拶をすれば返してくれるような方ばかりでした。しばらく通りを行けば、架かった橋の向こうにカフェが見えるのです。中に入ると、マスターはこちらを見るなり野生動物が入ってきたのかと疑心を持っていました。食事を食べさせてほしいと思い五ペニーほどを見せ、「あなたの作る食事に興味があります」と言うと、彼は店内へ案内してくれました。
シーリングファンがいくつも回り、黒を基調とした石レンガ造りの店内には、カウンターとテーブル席、そして外にも木で作られたテラスから見える席がありました。ですが、一人であることもあってカウンター席にて食事をいただくことにしました。「たくさん出せるほどのニンジンはないよ」と彼は笑って、メニューを見せてくれました。まだ若く、声は低めの青年という雰囲気でしたが、ある程度鍛えられて安定した、大きな手だったことは覚えています。私はサラダと水を注文し、彼がそれを作る間を眺めていました。彼は「美味しいものならほかにもたくさんある」と言いましたが、ウサギはパンや卵、ミルクなども食べられないものですから。体を壊してしまいますと伝えると、彼はとても残念そうにしていました。なので、私は彼に「その美味しいものの作り方を教えてほしい」とお願いをしたのです。続けて「主人に振る舞ってやりたい」と言うと、彼はレシピを書いて渡してくれました。それが、アリス様の今食べているローストビーフとヨークシャー・プディングなのです。明日以降も教えてくださったレシピを元に、私が料理をお作りいたします。楽しみにお待ちください、アリス様。
カフェのマスターをしている青年は、料理をするのが好きなのだそうです。自分で作り、誰かに食べてもらった時の反応が好きだと言っていました。その点では、アリス様によく似ています。アリス様、覚えていますか?私がアリス様にクッキーの焼き方を教えた日がありました。その日から、アリス様は様々なクッキーを作ったことを私は覚えています。その時も、アリス様は美味しく作ったものを食べてもらった時の反応が好きだと仰っていましたね。
……また、一緒に作りたいものです。
渡されたサラダは、記載してある元のレシピとは多少の違いがありました。先程伝えた、私の食べられないものを入れず、それを補うかたちで別の食材を入れていると彼はいいます。
……本日は夜もふけてきましたし、このあたりでお話は一度締めるとしましょう。続きはまた明日、お話いたします。おやすみなさいませ、アリス様。暖かくしてください。
ノルンはしばらくの沈黙の後、毛布をたずさえてアリスの元へ戻る。かけられた毛布はアリスの体をあたためて、虚ろな瞳は次第に意識を失って閉じられた。薄い寝息を聞いたノルンは、アリスの座る玉座のそばにもたれかかって思いにふける。
現実は甘美なスイーツのように美しいものではないでしょう。ただ、それでも、外は素晴らしいものだとお伝えしなければならないと考えています。
アリス様は、苦味を知るのが早すぎたのです。
なら、話を聞いている間くらいは甘い夢であってもいいと、私はそう思うのです──
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