travel and circus ⅰ

「アリス様、今日のお話は無数に広がる水とそこに暮らす生き物たちのお話でございます。ですが、長くなりますので何日かに分けさせてください。それだけ濃い体験があったのです。」


白ウサギのノルンは、未だ動かないアリスの横に寄りかかる。きしんだ玉座がやわい音を立てて、揺れるように前後へと振れる。籠に身を任せ振られるように眺めるアリスの顔には、未だ変化はない。


それは、わたくしが旅に出てすぐの頃。私は、北へ向かっておりました。なんでも、白く降り積もり、無類の美しさを誇るカーペットがあるというのです。私はそれを見るため、森を抜けて街へと向かいました。正確な情報の収集をするためです。私は森までしか出たことがありませんでしたから、曖昧なものしかわからなかったのです。森の開けた道を進むと、次第に焼きレンガのタイルが増えてまいりました。人々が道を整備してはいましたが、森の奥まで手入れをする様子はない所を見ると、我々の住む場所はこれからも無事だと安心したものです。

その町の光景は壮観なものでした。私の何十倍も高い建物がきらびやかに立ち並び、赤や黒の屋根をたずさえたレンガ造りの家が見回す限りにあるのです。そのどれもがガラスや柱を美しく見せて、見上げると青空と共に見えるその景観が私をわくわくとさせました。

人々は皆明るく過ごしておりました。街での会話は絶えず、争いはなく、どこからか楽しげな笑い声が聞こえてきます。まだ右も左もわからぬ私に、紳士淑女の方々はこちらを見て微笑むのです。シルクハットと長いコートに目立つ服飾の男性が、杖を立ててこちらに話しかけてきました。「迷子かな?きみは誰に飼われているの?」と。私が、「主のために『降り積もる白いカーペット』が見たい」と尋ねると、男は驚いた様子で、「ほう、白いカーペットかい?」といいます。私がうなずくと、なら、「絨毯屋じゅうたんやにいくと良い」と返します。私がそれはどこかと尋ねると、男は私を抱えて連れていってくれました。


その間に、私は様々な質問をしました。まず、ここはどこなのか、と聞くと、「ここはオックスフォードだよ」と言いました。この場所は、いくつもある「国」という広大な土地の中の一角であると教わりました。その中でも、オックスフォードは学術に長けているそうです。なんでも、分からないことを学ぶための「学校」という施設があるといいます。ほかに国のなかにどんな場所があるのかと聞くと、「ロンドン」という場所が有名だ、と。ですが、それは北にあるのかと問うと、ここよりも南にあるといいます。なら、うんと北に行くならどこがいいのかと聞くと、男は「スコットランド」に行きなさいと言いました。

スコットランドは冬になるととても冷えて、夜には出歩くのをためらってしまうほどに寒いのだそうです。そこでなら、白いカーペットを見ることができるかと聞くと、「カーペットかどうかは分からないが、白くて綺麗な景色を見ることはできる」と教えてくれました。


そんな話をしていると、入口に不思議な形をした機械が飾られ、それが長細い糸を何重にも重ねて何かを作っている様子の店が見えてきました。男はここが絨毯屋だといい、中に入ると美しい模様をたずさえた、不思議の国にあるものとはまた別の美しさを持つカーペットが所狭しと並んでいました。

店主は喋った私のことを見るなり驚いて後ずさりしていましたが、私を抱えた男はそんな様子を見て笑っていました。後にわかるのですが、この男は世間からは変人と言われるような人間だったようです。そんなことを知るはずもなく、そこで初めて、「喋るウサギ」は異であると知りました。あちらの世界には、喋る動物はいないのです。

店主の女性は「降り積もる白いカーペット」のことを、「雪」と言いました。それは絨毯屋では取り扱えるものではない、と言って、私に地図を見せてくれました。緑の模様は縦に細長く、長靴のようなかたちをしていて……地図では緑の場所が「陸」と、青い場所を「海」というのだそうです。「海」は、遠く遠く遥か向こう、果ての彼方まで広がっているのだと。その全ては水でできていて、店主はその水がとてもからいといいます。不思議の国にも噴水や池、川など……たくさんの水が流れています。ですが、その流れる水や普段飲んでいる水とは味も飲みやすさも全然違うのです。

男はスコットランドはずっと北にあると言っていたので、その途中に海に寄ることにしました。確かに教えられたように地図で名前を追ってみると、今私がいるオックスフォードは、スコットランドよりもずっと南です。徒歩では人間の感覚で寝ずに歩き続けたとしても、6日はかかるといいます。走ればその限りではありませんが、普段の私めの足では休息と移動を兼ねて2週間ほどはかかると教えていただきました。ですので、雪を見る前に海も含めて様々なものを見ることにしました。教えてもらった予定よりも長くなると思いますが、これからの体験全てが私の知見を広めると思うと、一種の楽しみや興奮を覚えました。不思議なものです。出発してすぐは不安だと思っていたのに、まだ数時間も経っていない、たったこれだけの道程を楽しいと思っているのです。ですから、これからのこともきっと楽しくなるのでしょう、そう考えていました。


さて、アリス様。「あちら」の世界では、具体的な移動手段は馬車になるのです。それか、船という海を渡るための移動手段があります。今回は、しばらく陸を渡った後に船に乗ることにしました。具体的には、リバプール……オックスフォードからバーミンガムを経由した先にある北の街から船旅を経てグラスゴーへと向かい、スコットランドの北部へと向かいます。ですが、実際船に乗ったこともそれまでの道行きもよく知らないのです。

どうやら、さまざまな情勢の変動もあって、人間たちはなかなかに大変だったようですが……私はただの白ウサギですのでそういった細かいことはよく分かりませんでした。


結局、様々な話を聞いているうちに日は暮れて、あまり外出するには向かない時間になっていきました。日が落ちるのは、早いものです。興味があることを調べているとあっという間に時間が過ぎてしまいます。今日はどうするのか、もう行くのか、それとも泊まっていくのか、決めあぐねていると、男が「私の家に来るといい」と言いました。店主はとても驚いていましたし、もはや男に対して正気を疑っていましたが店主は腑に落ちないながらも仕方ないといった表情で頭をかいていました。そんなわけで、一晩泊めてもらうことになったのです。外泊なんて初めてなので、とても緊張しました。不思議の国のように豪勢なのだろうか、それとも、不思議の国の王宮はきらびやかですからもうすこし抑えられた、一個人の家になっているのかも気になりました。

そうして連れられて、彼の持つ家は他の家と比べると、お世辞にも大きいとは言えないものでした。ですが、彼の趣味がよくわかるとても面白い家でした。彼は生物学者をしているそうで、壁の本棚には動物のことが書かれた本がずらりと並んで、動物の剥製まで用意しているのです。彼はそれほどに動物が好きで、愛してやまないのだそうです。ここまで来ると、私もなんの驚きも受けずに接された理由がよく分かります。軽く調べさせてほしいと言ってきたので、お礼代わりに承諾したのですが……数時間ほど離してくれませんでした。なぜ喋れるのか、なぜこのような服を着ているのか、生活はどのようにしているのかなど、事細かに聞かれました。不思議の国のことについては伏せましたので、そのあたりの心配は必要ありません。そして、暖炉のついた部屋の中で私は談笑の後、眠りにつきました。

しばらくの沈黙の後に目が覚めると、既に日は昇っていました。私の体には先程までなかった暖かい布があって、それはとても心地よいものでした。男も目が覚めていて、カップに注がれた暖かい水を差し出してくれました。コーヒーもあるそうですが、私の舌にはいささか合いませんでした。

私はもう行くと伝えると、男は物悲しそうな顔をしながら私に伝えました。「金はあるのか」と。私が疑問を持って振り向くと、男は首を振って説明を続けました。「鉱石を加工した『通貨』というものがこの広い世界では一般的に流通している」と言い、続けて人間に頼るのなら、何をするにもその通貨が必要になると言いました。もちろん、馬車に乗るのも、船に乗るのも、食事を貰うこともです。私はどのようにしてその通貨を稼げばいいのかと聞くと、男はうつむきながら私には無理だとはっきりと言ってきました。私は人間ではなく白ウサギですので、それに見合う仕事と代価がないのだそうです。私はそれを聞いて納得しました。確かにそうです。では、これからどうするべきか……そう悩んでいると、男はひとつの袋を差し出しました。机を摺れる音の重さから、なんとなくの察しはつきました。確認のため聞いてみると、「通貨だ」というのです。こんなものをもらっていいのかと聞くと、男は物珍しい体験の礼だと言いました。中を開けると、そこには金の色をした模様の円があり、それが何枚にも重なっていました。最も価値の高い金貨。それは十、二十と重なって、ずしりと重たさを感じさせました。

男に最後に名を聞くと、「リデル」と答えました。旅をするなら、最後にまた帰ってきなさい、と私に告げました。私は旅路の終わりに、またオックスフォードに寄ってリデルを尋ねると約束しました。

そうして私は、オックスフォードを離れました。リバプールは、オックスフォードからはおおよそ150マイル(約244km)ほどあるのだそうです。森を抜け、街を抜けたその景観はとても美しいものでした。夜に雨が降っていたようで、広がる草原と雨上がりの川のほとりが、太陽に照らされて眩しく見えました。ですが、行けども行けども景色は変わりません。時折見えるのは小さな村だけで、何日もかけながら、村に寄って食料をいただいたり、道を教えてもらったりしていました。いかんせん、荷物が重たかったのです。移動もあまり素早くは行えず、夜にうかつに行動すると野犬などに襲われます。ですから、村に泊まれなかった夜は小さな隙間や洞窟に身を潜めて過ごしました。その最中で、この金貨の価値とそれをぽんと渡したリデルの異常さもよくわかりました。そして、彼が確かに変人であることも。


道中、数日経った後に、不思議な噂を聞きました。なんでも、近くにサーカス団が来ているのだそうです。最近見かける、喋るウサギを探しているという話を村の方から聞きました。それは間違いなく私のことでしょうし、サーカスも知見のひとつになると思いひとまずサーカス団に向かうことにしました。ご安心ください、手荒な真似はされていませんよ。旅の資金集めにもいいと思ったのです。それ相応の賃金がいただけますし、サーカス団なら言葉はサーカス団の面々が教えたということになるので喋っていても特段の違和感はありません。そうして村をって、私はサーカス団の情報を追いながら進みました。そして、見つけたのです。赤と白のカーテン、明るく目立つ光の数々、涙と笑顔のメイクを施した道化。それこそが、私が探していたサーカス団でした──


………


私は食事の用意をしてまいります。この話の続きは、食事をしながらでもお話しましょう。それでは少々お待ちください、アリス様。

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