虚の森のアリス
別状
Welcome to the void
姫様、
私は白ウサギの「ノルン」。この不思議の国の姫、アリス様に仕える使用人でごさいます。
アリス様は、非常に周囲に興味を持たれるお方でした。この国に来てから初めて見た生き物……それが私、ノルンでございます。以来、私が不思議の国の案内役となり、いずれ姫として城で暮らすようになった時には、私を真っ先に使用人にすると言っていただけました。なんとも嬉しいものです。
アリス様がこの世界に来られてすぐに、ハートの女王様との口論がございました。トランプ兵に囲まれる形での言い争いですが、お互いに納得していただくかたちで和解できたようです。私は胸を撫で下ろす気持ちで見ておりました。今では、お互い仲良くされています。
ですが、アリス様は時にこう言いました。「外の世界を知りたい」と。アリス様は外の世界から来られたお方。「外の世界のことは知られているのでは?」と問うと、アリス様は「ずっと家にいたから外を知らない」と言うのです。はじめて外に抜け出し、森に入り、そして出会ったのが私であったと。ですから、ここはいちの臣下である私にお任せいただけないでしょうか?とお願いをしたのちに旅を始めたのです。必ず帰ってくると約束をいたしました。
アリス様がこの国に足を踏み入れてから5年、私が旅立ってから3年が経過いたしました。当時7歳だったアリス様は、今では12歳になっている計算です。私が最後にアリス様のお姿を見たのは3年前。私は今でも、旅立ちの前のあの表情を思い出すことができます。おっと、いけませんね。とにかく、私は9歳までの姿しか見ておりません。この数年で女王様もずいぶんとお優しいお方になった。以前など、ことあるごとになにか言いがかりをつけては新しいものが欲しいと騒いでいたのですから。アリス様がそれをなだめるのが日常茶飯事となっておりました。健やかに育った12歳の姫様が楽しみで仕方がありません。なにぶん、3年振りの再会ですから、多少は
さて、もうすぐ不思議の国に着く頃ですか。不思議の国は、それはもう美しい国です。小鳥が戯れ、木々と花々がすくすくと育ち、その手入れは縞模様とにやにや笑いを携えた猫が行っております。治安もトランプ兵のおかげで維持されて、怪しげなものは王宮に入れません。他にも様々な者たちが皆思い思いの生活をしています。ですが、不思議の国の生活は外の者たちにとってはとてもおかしく感じるようです。そもそも、「動物が服を着て喋っている」から始まるのですから。
───……
深く青々とした森林の隙間にノルンは飛び込み、茂みの奥向こうへとその体をくぐらせる。この森林は、「こちら」と「あちら」を繋ぐ扉のような役割をしている。ノルンがひとつ世迷言を呟きながらここを通ったのが、アリスとの出会いの始まりだった。
想いを馳せながらその森林をかき分け進むと、目立たないように枝で隠されたひとつの穴が見える。それは木々の根の隙間の奥底へと続くように掘られていて、ノルンは枝を分け、そのぽっかりと開いた穴に飛び込んだ。意識をぐるぐると左右に振られ、落ちる感覚を懐かしく思う。
意識と肉体の落下が終わると、そこは既に薄暗い小屋の中だった。壁掛けのランプは割れ、床のカーペットに描かれた模様は既にいくつも破れている。しかし、以前ここから出た際はこんなに荒れたものではなかった。ただの旅立ちのための小屋だとはいえ、壁掛けランプや本棚、カーペットから机に至るまではこの国のもの。それをむざむざと放置するような女王ではない。ノルンは嫌な予感を感じて、慌てて扉を押し開けて不思議の国の様子を目の当たりにした。
「何が、起こっているのです……?」
「これは、どういうことなのですか!?」
目の前に拡がっていた光景は、彼が思い描いていたようなものではなかった。にやにや笑いの猫や衛兵、公爵夫人に代用ウミガメも……それどころか、生物ひとつすら見当たらない。景観を美しくまとめていた木々は伸びきって、大庭の見た目は良いものではない。その中には、枯れ木となって横転しているものもいくつか見受けられた。蔓草が道を割って這い進んで、それはあらゆるものへと絡みついている。地面はザラザラとした足ざわりで、土や砂が張り付くような嫌な感覚がある。
代理石でつくられた城の扉には誰かが出入りしたような引きずった跡があり、砂や木片がその部分だけ綺麗に片付けられていた。
「お前……白ウサギか?やっと戻ったのか。」
背後から聴こえる、若く誰かを欺かんとする特徴をはらんだ声。それはとても聞き馴染みがあって、普段、木の上から私を含めた様々な者を戯言で惑わしていた。そんなことも楽しんで、わざと悪戯に乗ってやることも面白かったのだが……どうやら、そういった雰囲気ではないように感じた。
「チェシャ猫……いったい何があったんですか?どうしてこんなに廃れているんですか?なぜ誰もいないんですか!?」
「まあ落ち着けよ。と言っても、落ち着いていられる状況じゃないのも確かか。いいぜ、説明する。話を聞いておかしくなるなよ。」
……チェシャ猫の説明は私にはとても信じられるものではありませんでした。既にこの場所にいる者はチェシャ猫とアリス様だけだというのです。ハートの女王様も、トランプ兵も、鳥獣たちも、公爵夫人も、お茶会をする者たちも、何もかもを失ったのだと。2年前にある怪物が目覚めました。それの目はらんらんと燃え、風を切るほどの速度で飛行し、鋭い鉤爪を持ち、頑強なあごを使って岩すらも噛み砕くのだと猫は言います。その生き物は「こちら」の生き物で、不思議の国の領域に住んでおり、人里には姿を現していないというのが幸いでした。とはいえ、もう一度この場所に来る可能性がゼロではないというのが怖い点です。
その怪物は、「ジャバウォック」と言います。そして、ジャバウォックが目覚め何が起こったのか。それは、不思議の国の襲撃でした。目覚めたジャバウォックは極度の空腹状態にあり、辺りをふらつきながら様々な生物を襲ったのだそうです。そして、一番最後に狙われたのがこの「不思議の国」だったのです。その光景は凄惨極まりないものでした。チェシャ猫からは具体的な説明は受けていないのですが、簡単に聞いただけでも身が震えるほどです。肉食の生物とは、なんと恐ろしいのでしょうか……
硬く大きな鱗を身にまとい、恐ろしい目をした竜のような見た目のそれは、またたく間にすべてを破壊していきました。地面や壁につけられた大きな傷が目立つように感じていたのですが、それはこのジャバウォックがつけたものとみて間違いないでしょう。そこから蔓草が伸びていたのです。そして、姫様とチェシャ猫を残し、他は皆食べられてしまったのだと、チェシャ猫は言いました。
信じられないような、信じたくないひと言が私の耳から全身をつたってそのことがらを理解させるのです。だからもう、この場所にはアリス様とチェシャ猫しか残っていないと……
チェシャ猫はアリス様を逃がすことでいっぱいであり、他の方々を救うことはできなかった。それをとても悔やんでいました。しかし、それはもう過ぎてしまったことです。悲しい気持ちは払拭できるものではありません。なら、その気持ちを忘れないようにしながら、前を向くしかないのかもしれません。
「私が、帰ってきていれば……なにか変わったのでしょうか?」
「いいや。犠牲が増えるだけだと思うがな。とにかく、お前が戻ってきてくれてよかった。俺一人じゃ姫様の世話は難しかったんだ。」
「ずっと世話をしていたのですか?」
「ああ。姫様は生きてるからな。」
「本当ですか!生きていらっしゃるのですね!?」
「落ち着け。ただ、俺には……治せない。」
「治す……?」
「見れば分かる。行ってこいよ。」
チェシャ猫が言う通りに扉を押し開け、ノルンは寂れた場内を見回した。薄暗い大広間がノルンを出迎え、いくつもの等間隔で並ぶ窓から差し込む光が揺れて、過去の栄光を映している。割れた床からは雑草が顔を出して、ちぎれたカーテン、傷だらけの壁、汚れて穴の空いた赤色のカーペットなど、すでにその栄華は終わりを迎えているのがよくわかる。見上げた先の階段をつたうと、玉座に見える人影があった。それはまだ幼く、長い髪を持ち、握れば折れてしまいそうなほどに華奢な体つきをしていた。そして、そのシルエットをノルンは知っている。
「アリス様!」
「……」
ノルンはアリスの元へと駆け寄り、何度も声を荒らげながら話しかける。しかし、アリスは終始無表情を貫きながら、うわの空で遠くを見つめるようなその顔に、以前の明るくはしゃぎ回るアリスの面影は見当たらなかった。所々が破けて燃えた跡が残る、傷が目立つドレスとカチューシャを身につけ、金色の髪と碧の瞳は光すらも受けつけない。虚ろで動かない少女を前に、ノルンは戸惑いを隠すことはできなかった。
「どうだ、白ウサギ。姫様の様子は……」
「動きません。」
「そうか……一番そばにいるはずのお前なら、何かか変わると思ったんだがな。」
「なぜ、動かなくなってしまったんですか……」
「俺は恐怖からの拒絶だと考えている。」
「拒絶?」
つまり、チェシャ猫はアリス様がジャバウォックが襲撃した際の凄惨な状況に加えて、自身だけが遺された苦しみ・悲しみ・重圧などの過度なストレスがアリス様を蝕み精神を完全に崩壊させる前に、思考を完全にシャットダウンし心と体の機能を制限することでまだ幼い心を守っているということだと考えているのです。
私が来るまでの世話はチェシャ猫がしていたと言い、枯れ枝を集めて火を起こしては取ってきた魚や野菜などを食べさせていたのだとか。アリス様は、量こそ減っているものの食事自体は摂られていたようです。
「食材は俺が採ってきてやる。だから、料理はお前が作って食べさせてくれ。俺のこの体じゃあ、火を起こすことも難しいんだ。」
「わかりました。今までお世話をしていただき、ありがとうございます。」
「俺もな、姫様と遊ぶのは楽しかったんだ。もう一度笑ってくれるならどんなことだろうとやるさ。」
「チェシャ猫……」
チェシャ猫の美しい毛並みは野良猫のように荒み、いくつかの毛先はよく見れば先端が焦げたような黒みと消えかかった焦げるような臭いがしました。普段から他人をからかうことと毛づくろいによる毛並みの美しさを見ることを楽しんでいたチェシャ猫が、その両方を放棄してまでもアリス様のことを心配している。それ程にアリス様と共に過した時間が楽しかったのでしょう。
「白ウサギ。俺が世話してた間に、姫様は何度か笑ってるんだ。」
「笑っている?」
「ああ。ごく稀にな……姫様は、完璧に心を閉ざしてしまっているわけじゃないらしい。時折笑って、誰かの名前を呼ぶことがある。」
「その名前に、お前の名前もあったんだ。だから、お前がそばにいてやってくれ。」
「……わかりました。」
「今、姫様の心をほぐせるのはお前しかいない。頼んだぞ。」
「わかりました。尽力します。」
アリス様。ご傷心の中、よく生き残ってくれました。私は帰ってまいりました。これからは、アリス様がどのような姿になろうとも、私がずっとそばにお付きいたします。たとえ死ぬことになろうとも、私は最後までお供いたします。ですからどうか、もう一度だけでも、あの頃のはつらつとした太陽のようなあなたを見たいと願っています。今のあなたの心に錠前がかかっているというのなら、私は鍵となりましょう。長い年月をかけたとしても、あなたの心を蝕むものを取り除くと約束しましょう。
「アリス様、ノルンでございます……」
「……」
「アリス様のお願いのまま、私は世界を旅してまいりました。あなたの知りたがっていた、無限に広がる水の溜まり場も、煮えたぎる熱さで全てを溶かす岩も、柔らかく白い冷たさを持つ一面のカーペットも見てまいりました。いいえ、これだけではありません。もっと、もっとたくさんのことを私はこの目で見ました。」
「……」
「アリス様、ずっとひとりは寂しいでしょう。私がそばにいます。これからは、いついかなる時も、二度と寂しくならないように私がずっとそばにお供します。旅の土産話も多数ございます。ですから、ですから……」
「ノル、ン……」
「アリス様!確かに私はノルンでございます!」
「……」
「アリス様……」
あの言葉は聞き間違いなどではありません。拙いながらにはっきりと私の名を呼び、その口角を動かしていました。それもほんの一瞬です。ですが、チェシャ猫の言う通り、まだ希望は残っているように思います。もしかすれば、これは世迷言なのかもしれません。ですが、最後の希望が潰えるまで、いや、潰えたとしても。私は決して諦めません。またあの元気なお姿を見れるように、身を粉にしてでも働かなくてはなりません。
そうして私は、ご傷心のアリス様の元へ帰ってまいりました。日々、書き留めておいた出来事の数々を話しております。あの日以来、一向にアリス様が言葉をお話しになる気配はありません。ですが時折、私の話の最中に、表情に変化を見せることがあります。まるで本当に話を楽しんでいるように見えて、私はその僅かな変化もとても嬉しく感じるのです。
また明日からは、実際に私が「あちら」の世界で見たことをお話しいたしましょう──
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