ちりぢりの月

殿塚伽織

第1話

 護送車から降りてきた女には見覚えがあった。

 収監予定者に関する調査書で確認したからではない。いや、勿論それらの書類には目を通している。ただし初めて女の顔を見たのはそれよりも前だ。

 公判が開かれる前だからもう半年以上は経っているか。行きつけのスナックで店主に見せられた週刊誌内の粒子の粗い写真と、実物とはさほど違いはない。

 少なくとも同一人物だと、疑いようもなく判る位には似ている。まあ三十歳を迎えた人間が、たった数ヶ月程で大幅に人相を変えることもめったにないだろうが。

 周防は事務官ではない。手錠を掛けられたまま、収監の手続きに連行される女をただ眺めるのみだ。そこには何の感情もない。

 これから監視対象となる相手の顔を確かめる為、身柄引渡しの場に出てきただけの話である。それ以上でもそれ以下でもない。護送を終えたジープが砂埃を上げ、丘の向こうへと引き返してゆくのを見送りもせずに背を向ける。

 同じように引渡し口に出ていた刑吏たちも、思いはさほど変わらないようだった。互いに言葉を交わさず、視線を合わせることもないままにそれぞれの場へと戻ってゆく。

 向かう先は様々だ。持ち場に帰ってゆく者がある一方で、非番の者は自分の部屋へと戻る。五分も経てばそこには人影ひとつ残らない。

 よくあることだ。更に言えば新月を迎える日の夕方前、断風処において実に見慣れた光景である。

 配属された当時こそ全身の毛穴を引き締め見守っていた筈の場面も、今では緊張感のかけらも抱けない。毎月ではないとはいえ、十年以上も繰り返していれば当然の状況ではあるのだろうが。

 何しろ十年以上昔である。新人刑吏であった頃身を縮こませ引渡しに同席していたのか、実際のところ定かではない。思い出そうとするまでもなく、周防は考えるのをやめた。

 考えたところで現状がどうなる訳でもない。何が答えであったとしても、何ひとつ変わることはないのだ。溜息もなく、周防は第三拘置棟の見回りに向かう。


 その司法施設が一般的に〈断風処(だんぷうしょ)〉と呼ばれるのには諸説あるらしい。ひとつには振るわれる刀から発せられる風が罪を断つ、またひとつには処刑所を満たす風の刃が咎人の希望の糸を断ち切るなどと語られる中で、有力なもののひとつがいにしえの伝説を発祥とする説だ。

 この国の誰もが幼い頃、子守唄代わりに聞かされた裁きの女神の話である。月光を集め作られた矢で、彼女は風を貫き罪を射る、何処にでもあるようなそんな平凡な昔語りだ。

 伝説というよりは神話に近いだろうか。長く、また広く語り継がれているにも関わらず、その断風処という場は凶兆の対象でしかない。しかしいたし方のないことだと、周防は思う。

 事実、この部署への配属が決まった時には自分もまた、鬱屈とした気分になったのだ。先に述べた通り、断風処とは一般的な呼び名である。つまりは通称に過ぎない。

 司法上の施設であるからには法令上に存在が定められており、その正式名は〈第十八特別留置所〉だ。一方で〈断囚(だんしゅう)〉という、留置対象を指す言葉は正式名称として施行令内に明記されたものである。ただしその由来はある種観念的だと言えなくもないが。

 つまり首と胴とを断ち切られる未来が待つのみという、それである。彼ら第二種死刑囚を受け入れる為の施設として、断風処は設置された。

 言い換えれば断囚以外の囚人が、ここへと送致されてくることはない。今日移送されてきたあの痩せた女もまた、そう遠くない先に首を斬られる運命にある。にも関わらず、怯えたような様子を引渡し口では読み取れなかった。

 正面から向かい合ってはおらず、その表情を細かに観察できた訳ではないのだが。護送車を降りてから棟内に連行されてゆくまで、その顔は殆ど動いていなかったようだった。どのような凶悪犯であれ昼夜緑のない荒野を運ばれ、人の命を奪う為だけの施設に連れてこられれば多少の動揺を示すものだ。現実にこの目で様々な罪人を見てきて知っていればこそ、あの女の無表情ぶりは異質なものとして映った。

 不気味というよりはどちらかといえば、得体の知れなさに近いか。いったい何を考えているのだろう、職務を果たすには無意味な、いや邪魔にしかならないことを考えている自分がいる。三人もの人間を殺めた残忍さ、公判中反省した様子すら見せなかったという冷血さは少なくとも、今のところ感じ取ることができない。

 監視室に入り、目の前を埋める幾つものモニターを周防は見遣る。十メートルもの高い塀が周りを取り囲み、その上へ高圧電流の流れる有刺鉄線が張り巡らされた断風処は国内の収容施設の中で、最も脱獄が困難と言われているらしい。

 モニターに映る全ての者の首は、いつか必ず胴体から斬り落とされる。どの断囚を給料の為いつ殺すのか、周防は知らない。

 知る者がいるとすれば弓矢で罪人を裁くという女神位のものか。いずれにしろ、彼らの前に伸びた道がもはや長くないことは明らかだった。勿論、あの女にとってもそれは同様である。


 労役のシステムは断風処にはない。

 あくまで死刑執行を目的として作られた場所である。懲役刑を言い渡された囚人がいない以上、刑罰として労働を命じられた者は存在しない。何を強いられることもなく、ただ残された人生を過ごす。

 自由行動を何ひとつ許されていないとした方が、もしかすると正しいのかもしれない。例えば遊興などは一切認められていない。

 週に一度、一時間だけの日光浴以外は、各々にあてがわれた三畳の独房から出ることは禁じられている。薄汚れた白壁と冷たい鉄格子の変わらない景色の中、断囚が発狂したとしても問題はないというのが上層部のスタンスだ。

 教誨師への懺悔も許さず、狭い獄内で自らの重罪と向き合わせ悔い続けさせるのが基本方針である。そして彼らを監視するのが周防たち刑吏の任務だ。

 繰り返されるだけの日々については、断囚内で一番の新参者であるあの女も慣れたらしい。二十八番の札が取り付けられた独房内の姿は大人しいようであり、少なくとも今までの二ヶ月間に不規則な言動は一度も見られない。

 叫んだり暴れたりすることはおろか、精神に異常をきたした様子もないらしい。監視室内の椅子に着く周防に、同僚の甲斐が水を向けてくる。

「あの女がそんなにいいのか?」

「おかしなことを言うな」

「俺じゃなくても同じことを言うだろうよ、今のお前じゃな」

 本気とも取れそうな科白を甲斐は口にする。ふたりのみの室内が殺伐とするのは、今に始まったことではない。多少ふざけてみたところで、断風処自体に染み付いた陰鬱さは消えるものではなかった。

「断囚の監視は立派な仕事だ」

「立派かどうかはともかく、まあ仕事のひとつではあるな」

 周防の隣へと置かれた椅子に、甲斐は座る。モニターのひとつに向け視線を投げた。そこに映し出されているのは囚人番号十五番の姿だ。四十三歳の男へと与えられた罪状は、押し入った先の一家四人を手に掛けた強盗殺人。

「物好きだな、あんな魔女に」

「それを言うなら俺たちは鬼だ」

 塀の外で囁かれている呼び名を周防は口にする。重罪人を裁く様は死者を容赦なく罰する地獄の鬼のようだと、言っているだけではないだろう。進んで人を殺め続けるあれはもはや鬼畜に違いない、そんな揶揄も含んでいるのに違いない。

 断風処に来て以来心変わりをした恋人とは別れ、白い眼を向けられるばかりの実家にはもう何年も帰っていない。異動を望んだことも一度や二度ではないが、転属願いが簡単に通らないことは周囲の先輩陣を見れば判る。

「それはそうだな」

 自虐的に答える甲斐の方を、周防は見ない。壁へとはめ込まれた別の液晶画面の向こう側、初老の男は身じろぎひとつしていない。カメラに背を向けた様子からするに、いつもの瞑想に耽っているのか。

 金銭トラブルから友人一家を刺殺した罪により断風処送りとなり、ひと月足らずで黒髪を全て白くしてしまった筈だ。あれから既に二年、いつ訪れるとも判らない死への恐怖を処理しているのだろう。いわば心的宇宙から拠りどころを得ている訳だ。

 一方で読書や宗教などに頼る者もいる。裁きの鎌を携えた死神がそこらを歩き回る中で、目に見えない神々に縋る断囚も少なくない。ならばあの女は何に救いを求めているのだろう。

 周防は視線を少しばかりスライドさせる。隣のモニターの中央、佇む女の姿を見遣った。書物に目を通すでもなく、神仏に祈るでもない。後悔に耽る姿もこの二ヶ月、一切見掛けてはいない。

 目にするのは無気力な瞳ばかりだ。短く揃えられた黒い髪は殆ど揺れない。二十八番との名で呼ばれる女の、本名を周防は忘れてしまったことに気付いた。脚を組み、モニターからモニターへと視線を移してゆく甲斐が話し掛けてくることはない。

いつもと同じだった。

 正座した体勢を崩さず、女は虚ろな表情をただ浮かべている。コンピュータのモーター音のみが流れる監視室内に、甲高い椅子の軋みが響いた。少しの間を置き、周防は甲斐へと視線を投げる。


 その日は曇り空だった。

 立ち込めた雲が、分厚く空を覆っている。いわゆる曇天というそれだ。ただしこの天気は三日前からほぼ変わっていないから、少なくとも予想外のものではない。

 快晴には遠い一方で、雨に降られることにもならなそうなのが幸いか。頭上に広がる雲の色はグレーに近い。日光浴と言いながらも太陽の恩恵を充分には得られない、ある意味では断風処らしきシチュエーションと言えるのかもしれなかった。

 名目上は運動機会として週一回、断囚に与えられた一時間である。刑吏により連れ出された中庭で、大抵の者は土の上に座り、時間をただ潰す。

 行動だけを見れば独房内に拘禁されている時と、ほぼ変わらない様相だ。勿論その中には凝り固まった筋肉を伸ばしたり、寝転がったりする者もいない訳ではない。いずれにしろ見張り台で、周防が送るのは先週と同じ怠惰な一時間だ。高さ十メートルもの高さにあるやぐらに上るのは、かつて凄惨な懲罰を繰り返したことにより断囚に恨まれ、日光浴中に取り囲まれ袋叩きに遭った刑吏がいた所為らしい。

しかしそれも今となっては昔の話だ。記録にすら残っていない不祥事が、実際にあったことなのかは判らない。現時点において憂さ晴らしに折檻を始めるような刑吏はいない。示し合わせ蜂起する囚人たちもいない。

 周防の担当は北東の見張り台だ。ところどころ白い塗装の剥げた長い鉄梯子を上り切り、ようやく天辺まで辿り着くと目の前の鉄扉を押し開ける。軋む蝶番の音は慣れた筈の耳にも不快でしかない。

中にあるのは古い鉄製の机と椅子、年代物の無線機のみだ。四畳半程しかない小さな部屋からは、何度入っても錆臭さが抜けない。千平方メートルもある中庭へと姿を見せつつある断囚たちを、窓際に立ちつつ見下ろす。ふと身を引き、制服の内ポケットに手を入れた。

煙草のパッケージを取り出したところで、指先の埃に気付く。先程扉のレバーを掴んだ際に付いたものだろう。

軽く払い落とした後に一本をパッケージから抜き取る。口にくわえマッチで火を点ければ、リンの臭いが周囲へと漂う。同時に口腔内に広がるのは慣れた苦みだ。

 断風処に来てから覚えた味である。吸うのは一日に二、三本程で、同僚たちに比べれば少ない方だ。巡回時を除き常に、口から煙草を離さない者すらいる位である。断囚と同様に、刑吏側にも気分転換が必要だということなのだろう。

 無線機は鳴らず、緊急事態を知らせるサイレンの音も聞こえない。日光浴が終わるまでにはまだしばらく掛かる筈であり、煙草をくゆらせるより他することもない状況だ。再び窓際から庭へと落とした視線が、左右に揺れるのは無意識のうちである。

 自分でも知らぬ間に、探しているのはあの女の影らしい。断囚として拘置しているのは男が殆どであり、女といえば片手で数える程しかいない。そんな物珍しさも、関心の要因であるには違いなかった。

 白く細い煙が、天井に向かい立ち上る。十メートル下に広がる景色は遠く、あちらこちらに散った囚人服は皆同じだ。長い髪でもなびかせていれば違ったかもしれないが、この距離では坊主頭もショートヘアもほぼ同じに見える。

 実際今までに見分けられたことはないのだった。そもそも真剣に探し出そうとしている訳でもない。何とはなしに視線を上げれば中庭の向こう、そびえているのは南西の見張り台である。甲斐の受け持ちの筈だが、勿論ここからではその姿を見て取ることはできない。

 曇った空の下、中庭にあるのは変わらぬ平穏さのみである。来週もまた、今と同じ一時間が訪れる筈だった。短くなった煙草を、周防は携帯灰皿の中へと押し込む。


 夜の深まりは早い。久しぶりに出掛けた歓楽街で、周防は目の前の猪口へとぬるい酒を注ぐ。隣では甲斐がカウンター越しに、中年の女主人から水割りを受け取る。

 裏通りの更に奥、場末のバーラウンジだ。枯れた酔客しか殆ど来ないような店は、静かに飲むには最適だった。

 鬼が盃を傾けていたとして、特に騒がれることもない。甲斐に誘われる形で、周防はこの店を訪れていた。常連には程遠いものの、店主に顔は覚えられているようである。

 構われるのを好まない客だということも、同時に把握されているのだろう。やや酒焼けした女の声を聞くのは甲斐の頭越しだ。

「あれ、送られてきたんでしょ? 確か死の薬剤師とやら」

 夜の街へと人が繰り出す場合、大抵は日頃のストレスを解消する為である。話の種として客の仕事内容を持ち出し触れるのは、下手を打った接客と言うより他ないだろう。

 しかし痛いところをわざわざ引っ掻いてくるような会話を、甲斐は楽しんでいるような風がある。マゾヒストという訳でもないだろうが。いずれにしろ、周防が制止するようなところではない。

 女主人はカウンターの下から女性週刊誌を出してくる。既に色の抜けた表紙の上へと並ぶのは、インパクトを狙った見出しの数々だ。その中には今聞いたばかりの〈死の薬剤師〉とのコピーもある。

「へえ、こんな雑誌にも出てたのか」

 やはり腹を立てた様子もなく、甲斐は雑誌を開く。ぱらぱらと紙のめくられる軽い音に、周防は何の気なしに顔を向けた。

「有名人だよなあ。どんな風に書いてあるんだ?」

「あら甲斐さん、知らないの? 逮捕された時はワイドショーでもずいぶん騒がれて大変だったんだから。ああ有難う、また来てね」

 先客が金を払い帰ってゆく。店内には女主人と、周防と甲斐の三人のみだ。

「そんなに騒ぐ程のものかねえ」

 甲斐は水割りを飲み干す。空になったグラスへと、女主人がすかさずカットアイスを入れる。からりと乾いた音がした。

「三人殺す位、そんなに珍しくもないだろ?」

 発される声は特に抑えられてもいない。女主人の細く整えられた眉は八の字になったが、それはほんの一瞬のみのことだ。

「あそこの役人さんだからそう思うのよ」

 グラスにウィスキーを注ぎ入れる。手慣れた風で作られた水割りは、先程に比べ少しばかり薄い色に見える。

「それに彼女が話題になったのは、殺した数の所為だけじゃないし」

「まあ、それもそうか」

 甲斐はグラスを取り上げる。一口含み、心地良さげに喉を鳴らした。飲み屋にしばしば出入りする割に、アルコールにはそれ程強くないようだ。

「手当たり次第ってのはなかなかないかもな」

 二十八番の起こした事件については周防も当然知っている。テレビや雑誌からの情報ではなく、送致に際し受け取った資料を見てのものだ。

 断風処に配属される刑吏は男しかいない。収容される断囚の殆どが男であることにも影響しており、それは第二種死刑を言い渡される女が稀だという意味でもある。

 手当たり次第との、甲斐の科白は幾分恣意的だ。しかし目くじらを立てる程真実から外れている訳でもなく、誇張し過ぎているものでもない。周防は週刊誌を引き寄せる。

 何の気なしにページをめくる。ふとその手を止めた。お世辞にも上質とは言えない紙に印刷されているのは、見覚えのある女の顔だ。

 今話題に上った、将にその断囚のものである。粗い写りであり、ロングヘア姿ながらもモニタ越しに見る、無感動な表情と同じだ。

 この手の写真は何処から持ってきたのか疑問な程、昔に撮影されたものであることが多い。しかし目の前のこれは近影に近いようだ。手元を覗き込む甲斐が意味ありげな笑みを浮かべたのが判ったが、敢えて周防は週刊誌を閉じないことにした。

 意識していると思われるのは癪である。注がれてくる視線を無視し、紙面上へと少しばかり目を走らせる。被害者三人と共に、女の名もまた記されている。勿論二十八番との記述は何処にもない。

「心底憎い相手を殺したっていうのならまだ理解もできるんだけど」

 女主人は溜息交じりに言う。人殺しはいけないんだけどね、慌てて付け加えたのは接客中の相手が刑吏だと思い出した所為だろう。気にすることはない、とばかりに甲斐は笑い飛ばす。

「無差別ってのは女のやり方っぽい気もするよな」

「そんなこと言って、フェミニストの人たちに聞かれたら大変よ」

「平気平気、文句なら慣れてるし。なあ」

 唐突に振られ、周防は思わず眉を寄せる。心当たりがない訳ではない。例えば死刑執行が遅れていることに対する被害者遺族からの悲憤である。他には再審請求が却下された弁護士からの苦情に、自由があまりに足りないのではないかという人権団体からのクレームといったところか。

 当然一執行官である周防や甲斐が〈文句〉を直接受けるようなことはないのだが。その代わり事務方には、数ヶ月に一度抗議の類が持ち込まれてもいるらしい。しかし言うなればそれらは全てお門違いだ。

 処刑の順番を決めているのも、判決を下しているのも断風処ではない。正式な窓口を通してくれと言うより他ないのだが、一方で鬼だのと呼ばれ、敬遠されがちな身である。余計なトラブルを招くような言動は、極力避けておくに限る。

甲斐に向けていた視線を、周防は手元に落とした。相槌なしに口を閉ざし、縦書きの文章を目で追う。まさに魔女だ、との煽情的な語り口は週刊誌によくある手法だ。文面内に登場する関係者の面々が実際には存在せず、記者の脳内により作り出された架空の人物なのもよくある話である。


〈まさに魔女だ。

 これ程までに非道な者がこの世にいるものだろうか。にわかには信じられないが、確かにその女は存在しているのである。

 将棋が趣味であるという老人、大学を卒業し働き始めたばかりの若者、息子の結婚式を一月後に控えた母親。希望に満ちていたはずの未来を、女は躊躇なく奪ったのだ。

 女は取り調べにも反省の色を見せていないという。もし逮捕されていなかったら、いったいどれだけの人がその毒牙に掛かったのだろうか。

 殺害方法はある意味で単純だ。薬剤師として身に付けた知識を駆使し、人を死に至らしめる薬を作ったのである。自分の薬局を訪れた三人に、次々とその毒入りの茶を飲ませた。

 毒牙とはその名の通り毒であり、それを振る舞う女は毒婦と呼ぶべきなのかもしれない。関係者の話によれば、自分の調合する薬にどれ程の効果があるのかということに、強い関心を抱いていたのだという。

 だとすれば女は薬の効き目を実際に試そうとして、何の罪もない三人もの人間を殺したということになる。つまり人体実験を実行したのだ。これが毒婦の、いや魔女の所業でなくて何だろうか〉


 憶測にあふれた記事を最後まで読むことなく、周防は週刊誌を閉じる。カウンターの脇へとそれを押し遣った。こちらの行動に気付いてはいるのだろうが、女主人が口出しをしてくることはない。代わりに甲斐に向け話し掛けている。

「それで、中ではどんな様子なの?」

「それが面白みのない女でねえ、って危ない、これ以上は話せないって」

「なあに今更、それ位減るもんじゃなし、ちょっと話してくれてもいいじゃないの。記者が来ても内緒にしといてあげるから」

「飲み屋のママに話したなんてばれたら懲戒ものだって」

「甲斐さんって意外とけちなのねえ」

 さほど不満げでもない女主人の声が狭い店内に響く。周防は銚子を傾けた。手酌で飲む熱燗はやや辛い。

 殺された三人が飲まされたという毒薬入りの茶は苦かったのだろうか。或いは甘かったのか。半ばばかり閉じた瞼の裏には、モニタに映る女の影が甦る。

 感情の見えない暗い瞳からは、当然殺意の跡も一切読み取れていない。勿論それを理由として犯罪事実に疑いを持っている訳ではない。二十八番が殺人犯であるのは揺るぎのない事実なのだ。

 とりとめのない会話を弾ませつつ、甲斐は懐に手を差し入れる。煙草のパッケージに張り付き、滑り出たのは一枚の写真だ。カウンターにひらりと落ちたそれを、女主人が取り上げる。

「あら、可愛いお嬢さんね。先生のいい人?」

 先生、とは囚人が刑吏を呼ぶ際の敬称である。市井の中には面白がり、それを真似る者も少なくない。

「妹だよ妹。今度結婚するんだってさ」

「あら、それはそれは。おめでとうございます」

「休みが取れそうだったら参列してくれって」

「可愛いじゃないの、お兄さんにちゃんと祝ってもらいたいなんて」

「おめでたい席に鬼を呼び付けようなんて、いったいどういう了見なんだか」

 やや吐き捨てるように言い、甲斐はグラスを取り上げる。半ば程が空けられたその水面で、溶けかけた氷が力なく揺れる。夜の世界で生きてきた経験からか、女主人は会話から何かを感じ取ったようだった。カウンターへと、ピーナッツを盛った小皿を置く。


 注がれてきたブランデーを、空のロックグラスで受ける。あおるようにして飲み干せば、喉の奥に焼けるような感覚が走った。

 熱は下方へと落ち、腹の中へと広がる。快適一辺倒とは言えないが、一方で嫌な感覚でもない。少なくとも今、自分が欲しているものには違いなかった。

 腹を包んでいた熱はやがて脳天へと駆け上った。町外れの暗い裏通り、さびれた飲み屋である。甲斐の行きつけのラウンジが町の南部ならば、ここは北端にも近いエリアだ。千鳥足の酔客が去った後、店の奥が開かれるのは一見の客の為ではない。

 常連に対してでもない。隠し扉の向こう、細い階段を下りた先にあるのは八畳程の一室だ。さほど広くない部屋だが、壁際の桐箪笥やヒノキの座卓など、置かれた調度品は上質なものである。中央に敷かれた羽毛布団の上、座るのは襦袢姿の若い女だ。

鼻筋の通った、美しい女である。はだけた裾の間からは白い脚が垣間見える。その光景だけで、この部屋の持つ意味は明白だった。

 そもそも周防がここを訪れるのは初めてではない。女に会うのも三度目だ、或いは四度目だったか。

「ねえ、あたしにもちょうだいな」

 甘い口調で言いながらも、女はブランデーの瓶を座卓へと戻す。のし掛かるようにして、周防の体を仰向けに組み敷いた。覆いかぶさられれば、長い黒髪が頬をかすめる。

 唇が重なる。音を立て、口腔内に残るブランデーを吸われた。今将に繰り広げられている女の奉仕は、店の主人に因果を言い含められてのものだろう。

 刑吏の機嫌を取っておけば、例え隠し娼館へと捜査の手が伸びそうになったとしても大丈夫だ。そう信じているのに違いない。要するに自分は買収されているのだった。金ではなく、色によって。

 地下室での接待を受けているのは自分だけではない。女の話によれば、所轄署の署長の接待をしたりもするようだ。彼女を抱いている最中に、部屋の外からの喘ぎ声を耳にしたこともある。

「先生、相変わらずキスが上手いのね」

 しどけない吐息が室内を満たす。細い腕が、起き上がった周防の首へと回された。

もう一度、とでも言いたげな無言の催促に、しかし周防はその腕を押しのける。呆気なく女の体は布団の上に転がる。

 仰向けに倒れたその姿に視線を遣らなかったのは、後ろめたさの所為もある。女を粗雑に扱ったことについてのみではない。

 利用されるだけと知りながら柔肌を求め、この場まで浅ましくも足を踏み入れたのだ。多少揶揄されたとはいえ、腹を立てる資格など自分にある筈はない。それは女の方も承知しているようで、

「ここまで来ておいて強がっても駄目よ、先生」

 寄せた耳元に向け密やかに告げてきた。天井のライトが消え、ランプの赤い光が室内の隅を照らす。煽られるまま体を小一時間重ね、果てた女の腰から周防は離れる。あまり長居をする訳にもいかない。明日も早朝から仕事なのだ。

 人目を避け、立ち去らねばならない身でもある。気配に気付き、振り返ればこちらへとすり寄る女の影がある。背中から抱きしめられた。

「先生、いい香りがする」

 かすれた声で囁かれる。周防は眉を顰めた。香料の類を付ける趣味はない。

「香り?」

「そう」

 女はくすくすと笑う。襦袢を身に着けぬままの裸体を、背へと強く押し付けてきた。

「血の臭い、好きなのあたし」

 細い指先が、周防の胸元をなぞる。首元を伝い、顎に触れた。

「女には、切っても切れないものでしょ?」

 耳の後ろで、女の含み笑いが響く。周防は口を閉ざした。腰に回された腕を掴み、力任せに自分から引き剥がす。

 振り向きざま、女の痩躯を押し倒した。肉感にあふれた若い体と再び交わりながら、読まれているのだと考える頭はいやに冷めている。断囚を処刑した日の夜、周防は女を求めるのだった。

 咎人とはいえ人を殺したという事実を忘れようとしてなのか。それとも首を斬り落とした時の生々しい感触を、柔肌に触れることで紛らわそうとしているのか。女を追い立てる動きが、先程までに比べ性急さを増していることに周防は気付けない。

 荒い息が乱雑に混ざり合う。地下にある汚れた部屋まで、月光が届くことは決してない。座卓の上、置かれたランプの炎が薄闇へとおぼろげに浮かび上がる。


 週に一度の非番が、待ち遠しかったのはいつのことだったか。

 休みだからといって、何かしたいことがある訳ではない。何処か行きたいところがあるのでもない。僻地に建てられた断風処の近くで、味わえる娯楽など限られている。

 町まで出掛け、パチンコ店や麻雀荘に入り浸る者や、自室に籠もり夜までを過ごす者など刑吏にも様々だ。甲斐は惰眠を貪ることに決めているらしく、夕食の為部屋から出てきた時にはたいてい大欠伸をしている。一方で周防はといえば酒を飲み時間を送る。

 干した小魚をつまむこともあるが、酒のあては特になくとも構わない。自室でひとり、焼酎や日本酒の瓶を傾ける。つまるところ酒が飲めれば何でも良かった。

 朝食を済ませた後から飲み始めていれば、昼過ぎにはほぼ出来上がっている状態だ。今日の酒は舶来の安いウィスキーである。先日、甲斐に誘われいつものラウンジに出掛けた帰り、町の酒屋で買ってきたものだ。

 一リットルの瓶一本をほぼ飲み尽くし、酔いも脳天まで回っている。多少気分が悪い気もしないではないが、それもある意味では都合が良かった。三日前に断囚の首を刀で斬ったことも違法娼館で女を抱いたことも、日々溜まるばかりの鬱屈も、今だけは忘れていられる。

夕飯が始まっている筈の時間だが、正直なところ腹は空いていない。既に暗い部屋の中、布団へと転がっていれば入口の方でノックの音がする。誰かとドアを開けてみれば、そこに立つのは甲斐の姿だ。

「お疲れ」

 勤務を終えてきたばかりなのだろう同僚に、一言告げる。そういえば今日は日光浴の日だったろうか。

「また飲んでたのか」

 甲斐は呆れた風でもなく言う。よほど自分のろれつはおかしくなっているのか。

「ああ」

「入ってもいいか?」

 予想したままの科白である。天井灯を点け、周防は引き戸を大きく開く。同時に甲斐が部屋の中へと入ってきた。ちゃぶ台の前にあぐらを掻き、座る。

「これ一本空けたのか?」

 目の前に放置された瓶を掴み、軽く振ってみせてくる。周防はその正面へと腰を下ろした。

「まあな」

 甲斐は僅かに顔を顰める。

「臭うか」

「ちょっとな。まあこれ位大したことないさ。それより」

 何か話したいことがあるらしい。考えるまでもなく何の用も持たずに、わざわざ部屋を行き来するような仲ではないのだった。

「話は何だ」

「そう急かすなよ、どうせ酒飲む以外することもないんだろ?」

 口にされた軽口は、確かに真実には違いない。周防は腰を上げた。ぶり返した酔いが、こめかみを不意に締め付ける。

 棚からもうひとつグラスを取り出し、ちゃぶ台へと戻る。甲斐の前にそれを置いた。一センチメートルのみ残った、酒をゆっくりと注ぎ入れる。

 甲斐はグラスを取り上げ、一息に嚥下した。その顔はゆっくりと朱に染まってゆく。

「今日はなかなか大変でさ」

 やや仰々しい口ぶりである。誘い文句であるのは想像がついた。何かあったのかとは敢えて問わず、周防は続く言葉を待つことにする。

 結果的に流れた沈黙に、甲斐は不満を抱いたようだった。しかしじきに諦めたらしい。グラスをちゃぶ台に戻す。

「日光浴の時にな、二十八番がいなくなったんだよ」

 周防は眉を顰める。

「独房にもいないし中庭にも出てない。何処に行ったんだってちょっとした騒ぎになってさ」

「ふうん」

「何だよ、興味なさそうだな」

「お前がここにいる訳だからな」

 担当の刑吏がこうして帰宅しているのだ。それはつまり、件の騒動に片が付いたからに他ならない。甲斐が少しばかり視線を泳がせたのは酔いの所為か、よぎった気まずさが故か。

 しかしそれも長くは続かない。甲斐はちゃぶ台へと上半身を寄せる。

「何処にいたと思う?」

 ややばかり声を潜める。ここからは内密の話であるらしい。

「収納庫で見つかったんだよ」

「収納庫?」

 周防が思わず訊き返したのは、囚人が発見されたという場所について単純に驚いた所為だ。収納庫とはつまり、処刑の際に用いる刀を格納しておく部屋だ。その重要性、また危険度が故に厳重な施錠がなされている筈だった。

 実際三日前、周防が刀を取りに行った時にも収納庫には鍵が掛けられていた。甲斐は更に顔を近付けてくる。

「勿論、鍵を開けた人間がいたって訳だ」

「連れ込まれたのか」

「ご名答」

 二十八番が規律を破るとは思えず、何よりも自主的な行動に出るとは想像しにくい。だとすれば誰かにそそのかされ、もしくは強制されて動いたとしか考えられないのだった。

 そして収納庫の鍵を開けられる人物は限られている。断囚ではなく、明らかに刑吏側に立つ者だ。甲斐は主任に当たる男の名を口にする。

「踏み込んだ時、俺が見たのは中年男の尻だったって訳だ」

「二十八番は」

「剥かれかけてたがまあ、やられてはなかったみたいだな」

「そうか」

「やっぱり気になるか?」

 甲斐が意味ありげな笑みを向けてくる。自分の反応を見る為、この話を持ち込んできたのは明らかだった。周防は漏れかけた呆れ交じりの吐息を飲み込む。

 やがて甲斐は身を引く。周防の様子が期待外れだったのか、納得が行かないといった表情だ。

「それにしても、大したたまだよなあ」

 吐き出す息と共にうそぶく。

「無理矢理やられそうになってるってのに、抵抗どころか声ひとつ上げないなんてさ」

 感心しているというよりは、どちらかといえば呆れた風だ。女の無気力な面差しが脳裏に浮かび、周防は話の中心を変える。

「主任はどうなった」

「無罪放免だろうな。そこら中に尻見られて笑い者ではあるけど」

「尻の話はもういい」

「まあ、あの人の女好きには困ったもんだ」

 言葉面とは裏腹に、甲斐の口調は楽しげだ。そういえば女囚が断風処に送られてくると知り、あの主任刑吏は好色そうな笑みを浮かべていたのだったか。周防は立ち上がり、棚の中から缶ビールを取り出す。プルトップを抜くと立ったまま、ぬるいそれを喉の奥へ一息に流し込んだ。

「むらむらとしてたとしても、まさか実力行使に出るとはねえ」

 周防は小さく息をつく。ちゃぶ台の脇に立ち、甲斐を見下ろした。

「茶化すような話でもないだろう」

 発されてきた咎めるかの口調に、甲斐は想定外の冷めた空気を察したのだろう。軽く肩を竦め、誤魔化すように笑ってみせてくる。

「断囚って言っても、何されてもいいって訳じゃないしな」

 片膝を立て、ゆっくりと腰を上げた。一瞬ふらついたようだったが、それ以上にバランスを崩すまでのことはない。

「邪魔して悪かったな」

「いや」

 そそくさとばかりに立ち去ってゆく背中を、周防はただ見送る。引き戸が閉められる音に重なり、再び溜息が漏れたのは飲んだばかりのビールの為だけではないだろう。

 少なくとも甲斐との遣り取りに辟易としたからではなかった。犯されかけた女に対する憐れみこそあれ、襲った男を蔑む資格などある筈はない。

 娼館に出入りする自分と、男との間にいったいどれ程の違いがあるというのか。同意の有無との違いはあれども、惚れている訳でもない女を抱こうという点では同じだ。

 好きな女を抱いたのは、どれ位昔のことだったか。それ以前に、最後に惚れた女がいたのはいつだったかすら思い出せない。手にしたままだったビールを、周防はあおる。

 やがて空になったアルミ缶を、ちゃぶ台へと半ば投げるようにして置いた。軽い音を立てて倒れた缶は、転がった挙句床に落ちる。


 夜の町に流れていた往来も、砂丘を越えれば途端に少なくなる。断風処の外観が肉眼で捉えられる頃には当然のごとく、人影などひとつも見つけられない状態だ。周囲はほぼ闇夜に近い。

 タクシーを降りたのは五百メートル程先のことだ。歩く周防は甲斐に肩を借り、歩いている恰好である。

 いつものラウンジで相当に飲んでいた甲斐は、二軒目にと訪れた居酒屋で酔い潰れてしまった。裏門まで辿り着いても、その足元はまだふらついたままである。

 明らかに飲み過ぎだ。寮の玄関に入っても甲斐の状況は変わらず、周防はその身を部屋まで送ることにする。

 明かりを点けた室内で、甲斐は布団の上に身を投げ出す。天井に向け、深い息をついたようだった。

「水でも飲むか」

「いや、いい。悪いな」

 今こうして交わしている他愛のない遣り取りなど、明日になれば甲斐は忘れているだろう。痛飲ぶりを咎めてみたところで、それすら覚えていないに違いない。まだ赤らんだままの顔は、ある意味で見慣れたものである。

 とりあえず心配するようなことはなさそうだ。だとすれば長居は無用である。睡魔に負けたのか、瞳を閉じてしまった甲斐に背を向けた。

 勤務の後はしご酒に付き合わされたのだ、周防も少なからず疲れている。男ひとりを一キロメートル近く抱えてきた所為もあり、一刻も早く休みたいのが本音だ。一歩踏み出したところで、思いがけずその右足が滑る。

 慌てて左足を出し踏みこらえたおかげで、辛うじて転倒はまぬがれる。振り返り見遣った甲斐の瞼は下りたままだ。

 ほんの二、三秒のことだったが、それなりに騒々しくしてしまった筈である。にも関わらず片目すら開けないのだから、完全に寝入ってしまっているということなのだろう。周防は足元を見下ろす。

 白い紙が落ちている。どうやらこれを踏み、足を滑らせてしまったようだった。手を伸ばし拾い上げてみれば、一枚の葉書らしい。

 表と裏、両面共に印刷されたそれを裏返しつつ眺めた後、周防はややばかり視線を彷徨わせる。不注意で落ちていたのではなく、視界の外へと追い遣る為に放られていたのだと気付いた。かといって一旦手に取ったものを、元通り床に伏せさせるのもまた不自然だろう。勝手に屑箱へ捨てる訳にも当然いかない。

 少々悩んだ結果、周防は葉書をちゃぶ台の上に置く。まだ何も書き込まれていない、招待状の出欠表をそれ以上見ることはない。いびきを立て始めている姿へと改めて踵を向け、部屋を後にする。

 時間は既に午後十一時と遅く、甲斐の部屋から周防の部屋まではそう遠くない。誰とも顔を突き合わせることなく辿り着いた。中へと入り、布団へと大の字に寝そべる。

 内鍵を掛けてみたところで、室内は完全な密室とはならない。戸の周りにできた隙間からは、廊下を照らす蛍光灯の白い光が漏れ入る。今晩と同じく甲斐に誘われ出掛けた例のラウンジで、耳にした会話がふと脳裏に甦る。

 妹が結婚するのだと、あの時甲斐は言っていた。自分は直接目にしていないものの、確か女主人に写真も見せていたのだったか。あの招待状はつまり、式に参列してほしいとしてその妹から送られてきたものなのだろう。

 だとすれば今日、甲斐が深酒に興じた理由についても想像できる。鬼として疎まれる自分の現状と、妹を祝いたい気持ちとが心の中でせめぎ合っているのだろう。

 いや、もしかすると結論はもう出ているのかもしれない。家族の幸せを手放しで喜んでいるのならば、やけ酒に近いような飲み方はしないに違いなかった。

 そもそも出席すると決めたならば通知葉書を出しもせず、粗末に扱ったりはしないだろう。生涯会わないとした妹の晴れ姿を、しかし一目見たいと心の何処かで思っていたとする。そこにあるのはジレンマだ。

 後悔する位なら周りの陰口など我慢して出席するべきだと、偉そうに説教するつもりは勿論ない。ただの同僚でしかない自分に、そのような権利はない。また資格もなかった。周防は身を起こし、立ち上がると天井灯を点ける。箪笥の奥から年金手帳を取り出した。

 表紙を開くまでもなく、細長く折り畳まれた薄い便箋は手帳からはみ出している。送られてきた時の茶封筒は、とうの昔に破り捨ててしまった。予後が悪い咽頭癌が発見された父に一度会いに来てほしいと、そんな手紙を無視したのは何年前だっただろうか。

 会葬通知を未だに受け取っていないから、おそらく父はまだ生きているのだろう。様子を見に帰るどころか連絡を取りもしない自分が、甲斐に対し何かを言える訳もない。

 手紙を挟んだ年金手帳を元へ戻しつつ周防は考える。自分はひとりっ子だが例えば妹がいたとして、結婚式への出席を求められたらどうするだろうか。

 また今、父が死んだと知らせがあったとしたならば葬儀に参列するだろうか。重ねる自問に対し、しかし答えは既に出ている。周防は箪笥を閉めた。ぱたりと軽快な音がする。

 全てについて、答えは否だ。


 隠し娼館がある一方で、公認売春宿は存在する。無料から百万単位まで、様々な金額で取引が行われている前者に対し、後者は政府によりある程度の相場が定められている形だ。

 一回当たり二万から三万円、ドリンク代は別請求。これが政令で定められた金額である。追加料金を払えば派遣型を選ぶことも可能だ。

 職業や出自に関わらず、十八歳以上の健康な男子であれば誰でも買春を行うことができる。闇娼館の収入が暴力団の資金源となっていた頃、その防止を目的として取られた対抗策が残っている形だ。各地に建てられた売春宿から、老若関わらず男の影が消えることは未だないようである。

 西の外れ、角を幾つも曲がった先へと作られたそこに、行き交う影は殆どない。客引きの男が店先に立つことがないのは、たいていの場合買う側と買われる側の間にはすでに繋がりができている所為だ。いわゆる馴染みの関係である。

 取りはぐれのないように、料金は前払いだ。それぞれの娼婦へと与えられた部屋に、鍵は掛けられていない。部屋の中央に布団が敷かれているのは、先日の闇娼館と同じである。

 壁際には高級家具ではなく小さな箪笥が置かれているだけであり、和室の広さも一回りは狭いものだが。こちらを振り返る女は見覚えのある顔だ。浮かべられる営業用の笑みにも、その左頬にある青あざにも特に気を払うことはない。

 気にするだけ無駄だった。尋ねてみたところで正確な答えなど得られないに決まっており、しかしそれだけではない。娼婦が商売道具の体にあざを作るなど、仲間内でのいさかいでなければ客に殴られた以外にはないだろう。

 特に時間制限などはないとはいえ、無理な引き延ばしは店から嫌われるだけだ。ひと通りを済ませ、身仕度を整えていれば女もまた体を起こしてきた。その仕草は疲れた風にも見える。

 媚を売るかのように、周防へとしなだれ掛かってきた。肩越しに向けた視線は無意識のうち、頬の青みに向く。相手もそれに気付いたようだった。

「ちょっとね、やられちゃった」

 女にしてはやや低い声である。作っている訳ではなく、地のものであるらしい。てのひらで軽く頬をさすってみせてきた。

「客にか」

 事情を知りたい訳ではなかったが、そう応じてやることにする。金と色で繋がっただけの間柄とはいえ、最低限のコミュニケーションはあった方がやりやすい。

「そんなのじゃ感じないなんて言っちゃったから」

 こぼされてきた下世話な科白は敢えて聞き流す。同情を誘う会話に持ち込むのも、夜の女の持つ手練手管のひとつである。代わりに見逃せないものがあった。

 周防は顔を動かした。自分の腕に縋り付く、女の細い手首を見遣る。白い肌には何本ものあざが付いており、それはまるで縄で縛られた跡のようだ。

 多少の社交辞令を口にするものの、元々饒舌な女ではない。腕を下ろし、そのまま押し黙ってしまう。触れられたくない話題なのは想像が付いた。

 他の男と倒錯的な行為に及んでいようが、一切興味はない。そもそも娼婦とは何人の男に抱かれるかで稼ぎの、また待遇の変わる商売である。犯罪行為にすら手を染めなければ、誰に口を挟まれるいわれもないだろう。

 いや、多少の違法行為位なら経験している者も少なくはないか。刺激を求め非合法なドラッグを服用し、性交を行うという話はよく耳にしている。自分の知らぬところで密かになされるものである限り、周防にとっては関係のない話だ。

曲がりなりにも司法職員である身分からすれば、褒められない思考だと判ってはいるが。酒を飲んだ後でのセックスと何が違うのか、そう言っていたのは誰だったか。よぎった考えは、何の余韻も残さずに消えた。女は周防から身を引く。

 裸の体へとガウンを羽織るのは、緊縛された跡を隠す為もあるのか。周防の視線に気付き、やや俯き加減だった顔を上げた。

 浮かべた笑みにぎこちなさはない。ごく自然な面差しは、ある意味娼館という場において不釣合いにも見える。

「慣れてるから」

 告げられてくる口調もまた、滑らかなものである。だから大丈夫だと、そう言いたいのだろう。

「ひどくもされてないし」

「痛くないのか」

 女は目を見開いたようだった。自分でも意識しないうち、こぼれた声に周防もまた少なからず驚く。

 流れたのはごく短い、ひとつ息を挟む程度の間だ。予想通り、女はかぶりを振る。周防は口を閉ざした。

 否定されるだけと判っている問いを、何故投げ掛けてしまったのか。目の届かないところでどのような行為が繰り広げられていたとしても、一ミリメートルも心は動かされない筈だった。極論、誰かが殺されていたとしても。

 いちいち動揺していたのでは、刀など握れない。娼婦が様々な性行為に慣れているのと同様に、自分もまた人の首を斬るのに慣れている。黙り込んでしまった周防に、女は何かを感じたようだった。

 ガウンの裾を翻し立ち上がる。箪笥の引き出しを開けた。

「本当にひどくなったら、これがあるから」

 周防の正面へと、横座りに腰を落とす。てのひらを差し出し、そこに載せた紙包みを見せてくる。

 三角の形に折られた白い紙は薄い。中に包み込まれた粉末が、目を凝らさずとも透いて見える程だ。敢えて手に取ることはせず、五十センチメートル先のそれを周防は眺める。やがて白い腕は引かれ、薬包もまた視界から消えた。

 女は相変わらず笑みを浮かべている。先程までに比べ、やや陰を帯びているように見えるのはただの錯覚だろうか。

「毒薬か」

 周防はひとりごちる。答えは返らず、瞳だけが合う。やがて女は顔を逸らした。

「屈辱で耐えられなかった時の為にね」

「これを飲んで死ぬのか」

「ここから逃げるには、死ぬしか方法がないから」

 特に悲観的な口調でもなく、女は言う。小さく吐いたらしい息の音は、自嘲気味に笑ったようにも聞こえる。周防は視線を逸らした。

 脱ぎ捨ててあったジャケットを取り上げる。袖に腕を通し、掲げた手首を不意に掴まれた。咄嗟に反応できないまま、仰向けに布団の上へと倒れ込む。

「非力な女が死ぬには、毒薬が手っ取り早いでしょ」

 塞がれた唇はやがて解放される。はだけたガウンの影が視界に落ちた。虚ろに天井へと投げた瞳の奥に、別の女の暗い横顔が重なる。

 檻の向こうに座る女の声を、周防は知らない。


 多少イレギュラーな案件が発生したとしても、何かが変わる訳ではない。日々は同じように訪れ、巡回に監視にと任務をこなしてゆく。一悶着があったというあの日光浴から何週が経ったのか。

 四週、或いは五週か。騒動を起こした張本人というべき刑吏主任については、推測通り内部処理で終わった。三日間の謹慎を命じられたのが、少々予想外ではあったか。

 暴行未遂以上に、断風処の秩序を乱したことが処分結果に大きく影響したのだろう。今現在は現場へと復帰し、主任としての任務に再び就いている。

 処内は平穏を取り戻している。問題は襲われた側、二十八番の方だった。隠蔽した恰好の事実を、外部へとリークされでもすればことは簡単には収まらないだろう。首謀者の解雇のみにとどまらず、上を巻き込んだスキャンダルともなり得る。

 大事になる前に、フォローという名の口止めが必要だった。取調室へと連れられた二十八番は、相変わらず表情を見せない。少なくとも反発する様子はないようだった。

 周防の座る机の正面へと、二十八番は腰を下ろす。連行役の刑吏が去り、室内にはふたりのみが残る形となった。

 用件は教えられていない筈だった。手錠を掛けられたままで椅子に座り、周防を見る姿は落ち着いている。丸まらず伸びた背筋が、もしかするとそう感じさせるのか。

「調子はどうだ」

 周防が取調官役を命じられたのは二十八番のある第二独房棟、その監視を担当しているのが今週は自分だという所為だ。他に理由はない。事情が事情なだけに、今回ばかりは甲斐も軽口を叩いてはこなかった。

 言うなれば主任の尻拭いである。外部からの介入を事前に防ぐ目的だという大義名分のもと、周防は二十八番と向かい合う。

 今のこの状況が記録に残っては困るから、残業代は出ない。所長及び主任のポケットマネーから迷惑料を含めたいくばくかの金は出るという話ではあったが、特に期待してはいない。

 どうあれ上司からの命令には従うのみである。たとえそれが社会観念上、道理にも法理にも反したものであろうとも。ややあって女の唇が動く。

「変わりません」

 初めて耳にする、二十八番の声だった。高くもなければ低くもない、ごく普通の女のものである。

 周防は僅かに瞳を細める。初めてなのは声だけではない。モニタ越しでも監視窓越しでもなく、真正面から二十八番を見た記憶はなかった。

 とはいえ、さした感動はない。そういえばそうだったと、何とはなしに思う程度のものである。先程自分を見ていた筈の女の瞳は、気付けばやや伏せられている。

「お前が暴行を受けた件だが」

 世間話をするような時間はなく、回りくどい言い方で様子を窺うような必要もない。二十八番は視線を周防へと戻す。

「該当の者は処分した」

「はい」

 頷くこともなく、応える姿を前に周防は言いよどむ。一旦唇を左右に結んだ後、ややあって口を開いた。

「これで手打ちとして欲しい」

 看守と囚人という関係である。決定事項として言い渡したところで、問題などないに違いない。

 それでも加害側としての負い目は少なからずある。一方で、過度に下手へと出るのもおかしな話だ。しゃらり、と手錠の鎖が鳴る音がする。

「判っています」

 目の前の瞳は揺らがない。ここへ呼び出された訳も、あらかじめ承知していたのだろうか。それどころか一部始終を忘れるよう言い含められると、とうの昔から予想していたのかもしれない。もしかすると、ことが行われた直後から。

 周防は甲斐から聞かされた話を思い出す。主任に襲われている間、この女は泣き叫びもせずされるがままだったという。人が鬼に逆らったところで無駄だと諦めていたのか、それとも別の理由か。

「そのつもりはありません」

 発されてきた科白に、現実へと引き戻された。二十八番は再び俯いている。

「そのつもりとは何だ」

 こちらからの問いに対し、明確な答えは返ってこなかった。自分へと降りかかった災難を、誰かに漏らしはないと言っているのか。周防はそう理解した。しかし敢えてそれを確認することはしない。

 外部に手紙を送るにも検閲がある。代理人との接見も、刑吏の立会いなしには行えない。考えるべきそれらの懸念は、二十八番に関して当てはまらないことに周防は気付いた。

 収監から一年が経とうとしている。面会はおろか、封書の一通すら届いてはいない。また、外部に対し手紙を送っている気配もない。

 死刑の中でも斬首刑は残酷なもののひとつに分類される。その刑罰を言い渡された断囚が身内や知人から断絶され、見捨てられる傾向にあるのは確かだ。この女にとっても例外ではないということなのか。

「家族はいないのか」

 ふとそんな言葉が滑り出た。二十八番は顔を上げる。視線が周防の瞳を捉えた。

「父母と、姉が」

 います、という言葉は省略される。

「そうか」

 特に訊きたい訳でもなかった質問は行き詰まり、会話は終了する。暴行未遂の件につき口外しないとの言質を取った以上、これより先の聴取はもはや必要なかった。周防は立ち上がり、二十八番もまた椅子から腰を上げる。

 外してあった紐を腰に取り付ける。やや縛り上げるようにすれば、その細さは目に見えて判った。

 食に不自由であるのに加え、最低限の運動しか許されない生活は何よりも筋肉を失わせる。送致されてきた時から痩せ型だった女の体は、時を経て更に細くなったように思える。

 勿論この女に限った話ではないが。腰へと巻き付けた紐の先を、周防は力を込め引き寄せる。

「行け」

 周防の命令に従い、二十八番は取調室を出る。廊下へと出たところで冷ややかさを感じた。一定の歩調で進む二十八番の後ろを、周防は歩く。保つのは手にした腰紐がたわみ過ぎず、また引っ張られない程度の距離だ。

やや伸びかけた襟足から覗くうなじの白さがふと目に入った。その青白さは週に一度の一時間以外、日に当たることを許されない境遇の所為だろう。生まれ付いての色素の薄さももしかするとあるのかもしれないが。

天井にはまばらに取り付けられた白色灯が続き、暗い中に肌の白さが浮かぶ。素足で歩く女の足音は聞こえない。リノリウムの床の上、周防ひとりの靴音が響く。脳裏へと、娼館の女の影がよぎった。

 断風処に来て以来、関わった女といえば飲み屋の店員か、娼婦位のものだ。漏れた溜息は、廊下に流れる静寂の中でいやに大きく耳まで届いた。二十八番の足が止まる。僅かに首を動かしたのは、後ろを歩く刑吏の様子を窺ってだろう。

 この一年間、二十八番は模範囚であった。懲罰など掛けられたことはなく、取調室に来たのもこれが初めての筈だ。前方に広がる三叉路の、どれに進むべきか判らないのだとしても不思議はないだろう。

「左だ」

 独房へと続く方を短く告げる。二十八番は微かに会釈をしたようだった。視線は合わない。

 断風処内の廊下は多少入り組んでいる。言うまでもなく脱走を防ぐ為だ。何らかの事情により独房棟外に断囚を連れ出す際には、回り道を選ぶようにというのも内規のひとつである。

 直進で行けるところに右折や左折を不必要に重ねていけば、要する時間は数倍にもなる。結果三十分以上を掛け、独房までは辿り着いた。二十八番の腰紐を解き、次いで手錠も外す。

 細い影が奥に入ったのを確かめ、入口の鍵を掛ける。がたりと、重く低い金属音が手元で響いた。扉の上部に開けられた監視窓からは、正座をした姿が見える。

 落ち着いた後ろ姿はいつも通りのものだ。特に疲れた様子もない。周防は独房内へと、少しばかり視線を巡らせる。

 二十八番の脇、置かれた小さな座卓の上には何もない。紙切れすらも、そこには認めることができなかった。勿論、パラフィンの紙包などある筈はない。

 女が人の命を断つには薬の手を借りるしかないと語っていた、いつぞやの娼婦の夜伽話を思い出すまでもない。二十八番の咎は薬殺だ。周防は踵を返し、廊下を歩き始めた。歩調を緩めず、独房棟を過ぎる。

 誰もいない備品庫に入る。腰紐と手錠をそれぞれの棚へと仕舞い、ひとつ息をついた。本当は誰を殺したかったんだ、胸でくすぶる言葉が声になることはない。ただ、腹の奥へと音もなく落ちる。

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ちりぢりの月 殿塚伽織 @tonotsukaolu

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