死神
草森ゆき
死神
一週間だけ部屋に転がり込んできた年下の男がいる。今はどこで何をやっているのかわからないけど、まだ東京にはいるはずだ。転々としていると言っていた。何を? なんて聞いてみたら、人生、とか言いながら笑って、棒付きキャンディをがりがりと齧っていた。
陽平。名前を聞いたらそう言った。オフィスのある中野区で、死んだ顔でアパートを目指している最中に、ふと目があった若い男だった。よれた黒いカーディガンに黒いスキニーの真っ黒い佇まいがやけに似合っていて、死神みたい、と私は彼を罵倒した。罵倒のつもりだった。陽平は間髪入れずに笑って、お姉さん、家泊めて、とまるっきり気さくな声で続けた。
捨て鉢だったのかもしれない。陽平を連れ帰り、床に転がして食事もそこそこに眠り、起きた時にはまだ眠っていた。いびきどころか寝息も立てない寝姿にちょっとびっくりして口元に手を当ててみたりしたけど、一応生きていたから放って仕事に行った。私は社畜だった。まったく知らない男を部屋に置いたまま出掛けるなんて、今思えば有り得ないのだけれどそのときは有り得た。夢遊病みたいな日々だった。職場では仕事を積まれて中々帰れず、また夜遅くに会社を出る一日を私は過ごしている真っ最中だった。
部屋には明かりがついていた。ふらふらと扉を開けると香ばしい醤油の香りが広がった。おかえりー、と軽く言った陽平は、昨夜と同じ全身真っ黒の服を身に纏っていた。
「お姉さん、冷蔵庫の中のもん、もうちょい増やしたほうがいいよ」
「作る時間ないし……」
「冷凍のパスタとかでいいからさあ、ゼリーとかレッドブルとかばっかじゃそのうち死ぬよ」
死ぬかな。死ぬよ。死んでもいいけど。死んじゃ駄目だろ。どうして。終わりじゃん、そこで。
そんな無駄な会話をしながら、陽平が作ったらしい炒飯を食べた。卵とネギだけが入っていて、ギリギリ冷蔵庫にあったものだとはわかった。味はよくわからなかったけど、美味しいと言っておいた。陽平は黙って笑って、どこかから出した飴を口に放り込んでいた。
一週間だけでいいんだ。居着く前、陽平は軽い声でそう言った。実際に一週間だけいて、一週間の最後にあたる休日は、黒すぎる全身をどうにかさせようと外に連れ出した。犬とか猫を飼ったような気分だった。新宿まで向かい、そんなに高くない店に陽平を連れ込んで、安売りしていたカーディガンとジーンズを買い与えてその場で着させた時には、わりと愛着があったのだと思う。貯まるだけで全然使えない給料が使えたことへの、安堵みたいなものと共に。
東京が悪いわけではない。どこにいても、擦り減るときは擦り減るだろう。毎日の記憶が日に日に薄くなっていて、心電図が真っ直ぐに伸びるように、ふっと火を吹き消すように、唐突にすべてがなくなったとしてもなくなったことにすら気付かない、そんな状態だったと思う。
「そう見えるよ、だから泊めてくれると思ったんだし」
陽平はカーディガンのポケットに両手とも押し込みながら言って、私は今の思考が声に出ていたことに驚いた。
「オレは色んな人の部屋に転がり込むけどさ、人生の間借りみてえなもんなんだよ、これ。美味いところだけ味わいたいってのもちょっと違うかもしれない。でももっと、今とは違う生活なんていくらでもあるよなって、思うわけだ。深みにハマりたくはねえけど、できるだけ大量の浅瀬で泳いでみたいじゃん」
無茶苦茶な癖にそれなりに意味の通る言い分だった。私はなんとなく感心したので陽平に靴も買ってやり、口コミ評価の高い店で夕飯を食べた。
二人で帰って眠り、翌日陽平にいってらっしゃいと見送られた。またねと私は返して、陽平は目を細めて笑ったけどそれ以上はなにも言わなかったし、仕事に行って帰るともういなかった。作り置かれた和風パスタの隣に書き置きがあった。服だけはもらっていくと書かれていたが、雰囲気に似合わない綺麗な文字だった。指先でなぞってみると皮脂か汗で濡れていたらしく、文字列は筋を作って滲んでしまった。
それで最後だった。私は次の日に辞表を出して、貯まっていた給料を使いながら新しい仕事を探し、夢遊病の日々からはどうにか抜けた。
東京にはまだいる。黒の多い服装を見るとつい目で追うけれど、陽平だったことはない。
今までどんな人生の浅瀬を泳いでいたのか、もしも会えたら聞いてみたいと思っている。でも多分会えない。摩耗して薄れて死にかけている人間を嗅ぎ分ける存在なのだから、今の元気な私は彼の目には入らない。
それは健全だけど、ほんの少しだけ寂しいな。
死神 草森ゆき @kusakuitai
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