蓄音機に載せられたレコード

無銘

蓄音機に載せられたレコード

 両親の間を罵声が飛び交うたびに身体が反射でキュッと縮んだ。本能のままに放たれる声から意味を読み取ることはできなくて、ただお互いを罵倒しているのだというニュアンスだけを幼い身体で感じていた。

 そんな両親が放っていたような声を今は私が発している、彼女に向かって。

 その声は一切の加工処理を施されていない本能からの声で、幼いながらに感じていたニュアンスは正しかったのだなと脳の場違いに冷静な部分でそんなことを思った。

「ママもパパも愛し合って結婚したはずなのにどうして喧嘩ばかりしているの?」

 幼い頃幾度となく心の中で繰り返したそんな疑問。ついぞ口に出して両親に聞くことは無かったそんな疑問にも今なら答えてあげられる。

 愛しているから声を上げているのだ。愛しているからこんなに苦しくて、その感情は彼女にぶつけることでしか消化できない。一人の部屋で叫んでも知人や友人に愚痴っても滞留している感情はどうにもならない。だってこの怒りは彼女一人へのものだから。たとえ酷く歪で醜い想いでもこれが私が彼女へ捧げる愛の証明なのだから。

「ごめんね。ごめんなさい」

 罵声を浴びる彼女は何度もそんな言葉を繰り返す。いつもと同じ感情の読めない掠れた声で、淡白なトーンで。相槌に合わせて揺れる前髪の隙間に覗く目からは何の感情も読み取る事はできない。

 もうすぐ付き合って三年になるけれど彼女の本質は未だ見えない。彼女はいつも凪のように静かに佇んでいて、家事をするわけでもなくかといって何か面白い話をしてくれるわけでもない。ただ彼女はいつの間にか私の生活に入り込んでいつの間にか私の心の隙間に侵入してそこを占拠してしまった。パズルの最後のピースのように彼女は私の心の欠損をこれ以上ないくらいに完璧に埋めてくれた。

 ああ。私はやっぱり彼女が好きだ。どうしようもないそんな気持ちに気づいて私はそのことで更に深く傷ついていく。皮肉なことにその傷を癒すことができるのも恐らく彼女以外には居ないのだ。

「私前に言ったよね!私と付き合うのなら一緒に暮らすなら私以外の女の子は抱かないでって!私、涼と暮らすために働いて料理もして家事もしてそれなのに涼は何で私を何回も裏切るの?ねえ私ってそんなに魅力ないかな?本当は私のこと嫌いなんでしょ。嫌いなら嫌いでいいからはっきり言ってよ!」

「ごめんね。ごめん」

 彼女はやはり無機質な声で淡々と、壊れたレコードみたいに謝罪の言葉を繰り返す。

 違う。そんな言葉が欲しいんじゃない。私は別に謝って欲しいんじゃない。ただ私は安心したくて、彼女は確かに私のことが好きなのだと確認したいだけで。

 けれど彼女は台風が通り過ぎるのをじっと待つみたいに身をすくめたまま私の求める言葉は何も言ってくれない。そのことが悲しくてその悲しさを怒りでしか表現することが出来なくて沸騰したように熱い頭から言葉が溢れて止まらない。

「私がさ、涼はちゃんと起きれたかなとか今日は涼に何を作ってあげようかなとか考えながら仕事してる時に涼は私以外の女の子を抱いてたんだよね。本当馬鹿みたい。馬鹿だよ私が。ねえ、涼も馬鹿だと思うよね?」

 彼女は無言で首を振る。私はさらに言葉を続ける。

「私はさ、別に涼に家事をしてとか働いてとかそんなこと言うつもりはないんだよ。私が一度でもそんなこと言った?ねえ。ただね。私は涼に私の隣に居て欲しいの。私を好きでいてくれたらそれでいいの。なんでそんな簡単なことが叶わないんだろう。なんで。やっぱり私が悪いのかな」

 私はポツリと自嘲するように呟き押し黙る。彼女は何も言葉を発さない。その瞳は私を見ているようで見ていない。その瞳の先にあるものを私は知らない。

 感情がもう限界だった。これ以上彼女の顔を見たくなかった。彼女と一緒に居て発生するあらゆる感情全てを今は直視したくなかった。

「もういいよ。もう疲れたよ。ごめんね。嫌だったよね?好きでもない女に喚かれて、怒鳴られて。うっとうしかったよね?だからもういいよ」

 私はそう言い捨てて立ち上がり、短い廊下を駆け抜けて玄関まで行ってちょうど置かれていたクロックスをつっかけてそのままの勢いで部屋を出た。閉まりかけのドアの隙間からはさっきと全く同じ場所に同じ姿勢で座る涼が見えた。彼女は私が出ていくのに追い縋ろうともしなかった。



          ◇




 騒がしいアナウンスが何重にも重なって歪な雑音を奏でていた。私は疲れ切った身体を人混みに揉まれながら歩いていた。人混みを構成する人のほとんどがスーツを着ていた。かくいう私もそうだった。

人混みの中をその人たちは生真面目な無表情で確かな足取りで迷いなく進んでいく。その光景を見て私はこれだけ辛い思いをしているのは私だけなのではないかという一種の疎外感に苛まれていた。

 みんなは平気なのだろうか。毎日満員電車に乗って人に押しつぶされながら通勤して上司に怒鳴られながら業務をこなして特に誰が褒めてくれるわけでもなく、少ない給料以外の見返りもなく働いてまた人に揉まれながら退勤する。そんな日々がこれから先永遠と続くという事実に。自宅と職場を行ったり来たり何度も往復してそれを繰り返すうちに私は擦り切れてしまいそうだった。

 それとも、こんな現実も人に流されてばかりで自分の意思を持たず何となくで日々を生きてきた私が悪いのだろうか。何か学生のうちに人生の核となるものを見つけてそれを大事に育てる生き方を選ぶべきだったのだろうか。

 けれど夢を追ってアニメーターになった友達も美容師になった友達も私と同じかそれ以上に辛そうだった。多分自分の好きなことをやり通す生き方の方が私の生き方の何倍もしんどいのだろう。だってその生き方は自分の核が折れた瞬間に成立しなくなるものだから。たとえ自分の核が折れてもなお生活のためにそれと向き合い続けなければいけないから。

 だから。私の生き方も間違いじゃない。何枚もエントリーシートを書いて履歴書を書いて大して行きたくもない会社に思ってもない志望動機を並び立てて自分を最大まで偽って過大に広告して、言葉だけで私の未来をお祈りするメールを何通も貰ってそれでもやっとの思いで内定を確保して。それでたどり着いた先がこんな現実だとしても私は間違っていない。

 多分、人生はどのように進んでも辛いものでだからこの辛さは私だけのものじゃない。平気そうな顔の周りの人たちはこの辛さに慣れてしまっただけなんだ。だから大丈夫。私もいずれこの辛さに慣れる日が来る。その日まで耐えるんだ。私はそうやって必死に孤独を宥めながら歩いていた。

 乗り換えのために駅の構内から出て地下鉄へと向かう。人通りの多い交差点のやけに長い青信号の点滅を駆け抜ける。人の足音と誰かの話し声と街の効果音。それらが混ざり合う雑多な音の間隙を縫うように澄んだ歌声が私の耳に届いた。

 それが彼女だった。彼女は交差点と直角の方向に伸びるガードレールに胡座をかいて背中をもたれさせながらギターを爪弾き英語で何やら歌を歌っていた。彼女の前には一人として人は居なかった。彼女の横を流れる交差点の歩行者たちはみんな彼女を横目にチラリと見るだけで歩みを止めることはなかった。

 私もそのうちの一人だった。だって早く帰らないと。ご飯を作ってお風呂に入って洗濯をして、それにあまり寝るのが遅くなると明日に差し支える。日々を生きるのに必要な最低限をする時間しか私には残されていなくてそれを終えるだけで精一杯で。だから立ち止まっている時間はなかった。それなのに。

 私は気づいた時には彼女の前に立っていた。見えない引力のようなものが働いてそれが私の気持ちすらも無力化して彼女と私を引き合わせた。多分それは彼女の奏でる音楽の引力なのだろう。美しくてけれどどこか泥臭い等身大の彼女の音楽。それが私だけを彼女の前へと引き寄せた。

 彼女の座る場所はトンネルの真横なこともあって交差点のすぐ近くにも関わらず暗かった。信号の光が彼女の頬に当たって赤に青に点滅を織り交ぜながら光っていた。彼女は私に一切頓着せずひたすらギターと向き合い音楽を奏でていた。一曲二曲三曲。間髪入れずに彼女は弾いた。彼女の歌う曲はどれも私の知らない洋楽だった。自分の知らない曲に身も心も委ねることがとても心地良かった。時間がとてもゆっくり流れた。視界の端に映る交差点の人並みと視界の中心に映る彼女がそれぞれ違う時間の流れで生きているように感じられた。私も彼女の奏でる音楽によって彼女の時間に巻き込まれていった。

 どれくらいの時間が経っただろう。聞き心地の良いコードの余韻と少し鼻にかかった彼女の声の残響を残して音楽が止んだ。彼女はギターに落としていた視線をこちらに向けた。初めて彼女と目があった。

 人は自分の心の中心を捉える美しさに出会った時、息が止まるものなのだと知った。私にとって彼女がそうだった。整った端正な顔立ちに無造作に伸ばされた前髪の隙間から覗く青みがかった宝石のように光る大きな瞳や信号の赤を反射して尚際立つ陶器のような白い肌。音楽というベールを脱いだ時彼女はあまりに美しかった。

 美しさに捉えられて固まったままの私に彼女は薄く微笑んで語りかける。

「お姉さんありがと。ずっと聞いててくれたでしょ?」

「気づいてたんだ」

「そりゃ気づくよ。僕なんかの音楽に足を止める人なんていないと思ってたから」

自嘲げに彼女は笑った。

「なんで。とっても素敵だったのに。少なくとも私にとっては最高の音楽だった」

 こんなにも時間を忘れて日常のしがらみを忘れて過ごせた瞬間はここ最近で一度もなかった。それはひとえに彼女の音楽のおかげだった。

「どれだけ拙い音楽家にも一人はパトロンが居るものである」

「誰の言葉?」

「僕の言葉」

 そう言って彼女は屈託のない笑顔を浮かべた。笑うと大きな瞳が細められてまるで子供のようだった。私はその笑顔が好きだと思った。けれど彼女は一瞬浮かべたその笑みをすぐに取りやめて元の自嘲げな微笑みに戻った。

「バンドから追い出されたの。お前は難解で誰にも理解されないことを高尚なものだと勘違いしているって。ハタからみたらお前はただわけのわからない言葉で喚いているイタい奴だって。俗に言う音楽性の違いってやつ?他人事みたいなそんな言葉に自分が巻き込まれる日が来るなんて思ってもみなかったなぁ。そう。それで僕は思ったの。高尚でも勘違いでもイタい奴でも何でもいいから最後に自分の好きな曲を好きなように弾いて歌ってやろうって」

「私は素敵だと思ったけどな」

だってこれだけ美しい彼女の容姿を隠してしまえるほど彼女の音楽は圧倒的に美しかったから。そんなセリフはあまりにクサくて恥ずかしくて伝えることはできなかったけれど。

「バンドをやってた時にも何人か居たよ。そう言ってくれる人。でもみんな去っていった。僕が曲を作るたびに時間が経つにつれて、大抵みんな前の方がよかった。あなたの音楽は変わってしまったってそんな言葉を仄めかして。僕はそれをどうすることもできなかった。だって僕自身がわかってないんだもん。僕の音楽とは一体何なのか」

 大きな瞳を伏せて何かを堪えるようにシャツの裾をぎゅっと握る彼女。私はそんな彼女がかわいそうで堪らなく愛おしくて、言葉が口をついて出る。

「私はあなたの側を離れないよ。あなたの奏でるどんな音楽も、どんなあなたも」

 好きだと思う。

 その言葉を告げた瞬間に私の生活は彼女によって再構築された。顔を上げた彼女の、青いライトを反射して輝く瞳を私は今でも覚えている。




          ◇





 池の中心に浮かぶ小さな島やそこに集う名前も知らない鳥たちをぼんやりと眺めながら歩いていた。

適当につっかけてきたクロックスは涼がコンビニに行く時に履いているもので私の足には少し小さかった。大きな池を囲うようにして作られた公園には所々遊具が設置されていて休日の子供達がそこで無邪気に遊んでいた。勢いで家を飛び出したは良いけれど行く当てもなくて適当に歩いていたらここに辿り着いていた。夕方の公園からは懐かしい匂いがした。

「ねえねえ。公園の外で今川焼き売ってたよ。買ってよ」

「だめ。夜ご飯食べれなくなるでしょ」

「今川焼きの代わりにお父さんが肩車してあげよう」

 そんなやりとりをしている家族とすれ違った。私よりも高い地点に到達した子供は目をキラキラと輝かせて落ちる夕陽に向かって手を伸ばしていた。そんな家族の光景が脳の奥に保存された古い記憶と重なった。ふと私は思い出した。私とお父さんとお母さんの三人で遊園地に行った日のことを。

 喧嘩続きだったお父さんとお母さんはある日を境に急に喧嘩をしなくなって家には平穏が戻った。私は突然にもたらされた静寂にどことなく居心地の悪さを感じていた。

 子供心に家の雰囲気に違和感を抱き始めていたある日お父さんとお母さんは私を遊園地に連れていってくれた。久々に家族での幸せな時間だった。

 私は空中ブランコを気に入って何度もそれに乗りたがった。そんな私にお父さんもお母さんも何度も付き合ってくれた。いつも公園で乗っているようなカゴ付きのブランコが発射の合図と共に空中へと上昇していく。そして私が普段漕いでいる何倍ものスピードでブランコは回転する。次第に景色は曖昧でぼんやりとしたものに変わっていって鮮明に映るのは同じスピードで回る両隣のお父さんとお母さんだけ。日常から切り離されたその瞬間は色々なものを置き去りにできるような気がした。

 喉が渇いたとごねる私をお父さんは自販機まで連れていってくれた。園内は広さの割に自販機の数が少なくて一番近い自販機まででもかなりの距離があった。

「お母さんは疲れたからここで休んでるね」

 母親はそう言ってベンチに座った。

「優音も疲れただろう」

 そう言って父親は私を肩車して歩き出した。

 ここから一番近い自販機は観覧車のすぐ側にあった。父親は観覧車へと続く坂道を私を肩車したままで登った。

「お父さん大丈夫?」

「大丈夫。優音は軽っちいからな」

 言葉と裏腹にお父さんの息は軽く上がっていた。お父さんの足音と盛んな呼吸音だけがあたりに響いていた。遊園地は休日にも関わらず閑散としていた。私はその静寂とお父さんの歩みによってもたらされる振動が心地良かった。いつまでもこうしていたかった。

「なあ優音。優音はお父さんのこと好きか?」

唐突にお父さんは尋ねた。

「うん。大好き!」

「でもな。お父さんな。もう優音と一緒に暮らせないんだ。」

 お父さんの声は揺れていた。盛んな呼吸には嗚咽が混じっていた。それでもお父さんは歩みだけは止めなかった。私はお父さんがこんなんだと落ちちゃわないかなとかどうでもいいことを考えながら前だけを見据えていた。私の前にそびえ立つ観覧車は私よりも遥かに高くて大きかった。

 思えばあの時家に蔓延していた静寂は愛の擦り切れた余韻だったのだろう。お互いにお互いへの愛が失われたために訪れた空っぽの静寂。

 恐らく私がその静寂に違和感を抱いたのは二人が安堵していたからだと思う。愛を無事に捨てることができたことに対しての安堵。純粋な絵本の中の永遠の愛しか知らない子供に愛の終わりの安堵の感触は冷たすぎたのだ。

 今は両親の気持ちが痛いほど分かる。あの静寂が少し羨ましくもある。だって人を愛するってこんなにも苦しくて痛みを伴う。これだけ苦しいのならいっそ捨ててしまった方が楽なんじゃないかとも思う。

 私は涼の居ない人生を想像する。朝は涼の分の朝ご飯もお昼ごはんも作らなくて済むから今よりもっと長く眠れる。涼は朝にはハムエッグとヨーグルトしか食べないというこだわりがある。涼が居なければ適当にコンビニかどこかで買ったパンで済ませることができるから朝ご飯の準備が格段に楽になる。お昼ご飯も今は涼の分を作るついでに私もお弁当にしているけれど涼が居なければわざわざ作る必要もない。朝ごはんと同じく適当に何か買って食べればいい。

 金銭面での生活もうんと楽になるだろう。家賃も食費も光熱費も身の回りのものは全部私が払っている。涼がお金を使うのは本だったり雑誌だったり、古びた小型の蓄音機を買ってきたこともあったっけ。とにかく身の回りのことには全くお金を使わない。涼はふわふわと実用の匂いがしないものばかりを集める。そういったものは大抵高価でそのくせ涼は買ったら買いっぱなしで特にそれを使うことも飾ることもしないから狭いアパートの部屋の至る所に場違いな品々が無造作に飾られている。さっき挙げた蓄音機はテレビの下でDVDプレイヤーの横に並べられている。そういったものも全部売ってしまえばいい。そうすれば部屋の雰囲気も今よりは調和が取れたものに変わるだろう。

 私は涼が来る以前の部屋を想像する。涼によって変えられてしまった生活の修復を試みる。おかしなことに何も鮮明な光景が浮かばなかった。ただ涼が部屋に来る以前の決まりきった繰り返しの生活の寂しさだけが実感として思い出された。

 そうか涼と別れるということはあの生活に戻るということなのか。私は今更ながらに気づいた。そしていつの間にか私の生活は涼を中心にして回っていたのだということにも気づいた。涼はいつの間にか私の人生の核になっていた。ならば私はやはりそれに向き合い続けて生きるしかないのか。いつまで?それはどこまで続くの?

 空は夕焼けの名残を残した紫色へと変わっていた。月が太陽と入れ替わりに空を支配していた。公園からは子供の姿はすっかり消えて池の周りをジョギングする人がダラダラと歩く私を追い抜いていった。私は遠ざかる背中に尋ねる。

いつまで?私達はどこまで行けるの?

答えは返って来ない。もしかすると私のこれからの人生も体力が無くなるまで池の周りを何周もグルグルと走るようなものなのかもしれない。

 私の恋に、私たちの愛に終着駅はない。私たちは結婚をすることもできないし、お互いの遺伝子の半分ずつが絡み合った子供を産み落とすこともできない。ただ二人で歳を重ね続けるだけ。実用の匂いのしない性欲に身を委ねて身体を重ねて決して満たされることのない愛で互いに傷つけ合うだけ。

 先へ先へと引き伸ばし続けた恋の寿命が擦り切れた時、私の前には空虚な生活しか残されていない。

 嗚呼。私は過去の自分を恨む。

「私はあなたの側を離れないよ」

 この言葉が終着点のない苦しい愛をいつまでも続ける自分自身への免罪符なのだ。

「どんなあなたも好きだと思う」

 この言葉を感情が律儀に守っているばっかりに私は今こんなに苦しいのだ。何度彼女に裏切られても彼女が私の生活にとって負担でしかないとしても私は彼女を好きな私を辞めることができない。たとえ核が折れたとしてもなお感情のために核を見つめ続ける生き方しか今の私には残されていない。

 大きな池を一周し終えた。

「帰らなきゃ」

 誰にでもなくポツリと呟いた。




          ◇





 ドアを開けると玄関に彼女は立っていた。

「おかえり」

 バツの悪そうな笑顔を浮かべて彼女はそう言った。その笑顔を見た瞬間酷く懐かしい気持ちになった。空虚な生活の妄想をその言葉は容易に吹き飛ばしてしまった。改めて触れた現実の質感は私の感情だけを鮮明に浮き彫りにした。

「ただいま。ねえ、久しぶりに聞かせてよ。涼のギター」

 私は涼のことが好きだ。どれだけ辛くて苦しくても逃れられない、私が選んだ生き方だ。

 実用の匂いのしない蓄音機に載せられたレコードが擦り切れるまで、針は何度も同じ円をなぞり続ける。鮮やかな音色とともに。

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