第10話 大団円
二人の空間は、空気が薄くなっているかのように感じられた。薄い空気の中では、声は籠って聞こえる。まるで霧の中に浮いているような感覚だ。だが、本当は霧の中というと、空気が濃いものなのではないだろうか?
「湿気を帯びた重たい空気」
それが霧の中で声を籠らせるものではないだろうか。
二人が正対しているこの空間では、空気は薄くなっているが、その薄い空気は重たさがあるのだ。普通空気が薄いと、空気が重たいというのは矛盾した考えなのだろうが、二人の間では、そうとしか思えなかったのだ。
二人が同じ考えでいる証拠でもあるのだろう。そのことを川北氏の方が先に気付いていて、後で気付いたのは上杉記者であった。だが、この時の後先は、本当に一瞬のことだったはずなのに、一瞬であることに誰もいない空間が、すべてを知っているだけのことであった。
「川北さんは、どうしてやってもいない犯行を認めたんですか?」
と切り出すと、
「私がやったんだから、認めて当然でしょう?」
と表情を変えずに川北氏が答えた。
「そこが分からないんですよ。普通やってもいない犯行を認めるというのは、十中八九、犯人を分かっていて、その犯人を庇うために行ったということになるのでしょうが、あなたが事件を求めることのどこにメリットがあるというんですか? 警察に捕まって、実刑を受け、服役する。しかも、前科というものを背負いながらですよ。あなたが何かから逃げるために、認めたということも感じられない。そんなに、この研究が大切なものだったんですか?」
と訴えると、
「ええ、大事ですね。この研究は、今世紀最大の研究と言ってもいい。いや、博士が切り開いた部門では、史上最高といってもいいくらいなんですよ。私一人が罪に問われ、前科がつくくらい、何でもないことですよ。そんな発想は、俗世間のくだらない人たちのものであって、我々のような選ばれた人間には、魏の骨頂でしかない。しいていえば、そんなくだらない連中が多数いる中で、我々のような人間が少ないことで、肩身の狭い思いをしなければいけないという理不尽に、少し憤りを感じる程度ですね」
と、次第に言葉緒露骨になっていくが、それも上杉記者にも想定内のことであった。
「ところで、上杉さんは今日のプレス発表の内容はご存じだということですね?」
「ええ、先輩記者から聞きました」
と言って、先輩の名前を明かすと、
「ああ、あの方ですね。私も少しは存じております。博士とかなり親密になさっておられたので、私にとって、彼の存在は一番大きなものだったかも知れませんね」
と川北氏は言った。
「川北さんは、その様子を見て、嫉妬のような感情は浮かびませんでしたか?」
という上杉記者の意見を聞いて。
「嫉妬ですか? いいえ、ありませんでした。あの方は勝沼博士の精神的な支柱でしかたらね、その役目はとても私にはできませんでした。そういう意味では、感謝こそすれ、嫉妬などはありえないと言ってもいいのではないでしょうか?」
それが本音であることは、最初から上杉記者にも分かっていた。
それを敢えて、
「あなたは、博士の支柱のような存在になれなかったと言いたいんでしょうか?」
と聞くと、
「ええ、もちろん、なりたかったです。でも、余命宣告を受けて、一般の人であれば、思考能力がマヒしてしまいそうな状況でも、博士は最後の力を振り絞って研究に邁進されていた。それを見た時、私は本当に博士についてこれてよかったと思いました。今回の研究が社会的に及ぼす影響もさることながら、先生という存在は本当にかけがいのないもので、私にとって、これ以上の人間はいなかったんです。その心境を分かってくださるとすれば、先輩記者さんだったんでしょうね。本当はあの方ともお話ができればよかったというのが私にとって、最大の後悔だったと言ってお、過言ではないでしょう」
と、川北氏は言ったが、その気持ちに一切の間違いなく、共鳴できるものだということを上杉記者は言明できると思った。
「今回の発表される内容がどこまでになるのか分かりませんが、私は、今回の研究が数年前の勝沼博士の殺害の謎を解き明かす内容なのではないかと思っています。そういう意味で、今回の発表は、完全なものではないだろうと思っています。完璧なものにしてしまうと、すべてが明るみになってしまい、そうなると、もう川北さんだけの問題ではなくなってきますからね。せっかく川北さんがご苦労されて、覚悟の上での一人で責任を背負う形になったものが、水泡に帰してしまいますからね。それだけは断じてしてはいけないことだったんでしょうね」
と上杉記者は話した。
「それはどういう意味でしょう?」
と、敢えてなのか、シラを切った川北氏だった。
「もう、ごまかさなくてもいいですよ。そういう含みがあったので今回の発表は学会の方で考えて、二段階にしたんでしょうね。そうすることで問題をすり替えるのと、曖昧にすることで、危険回避に繋がるという発想があってのことだったのでしょうが、どう対処していいのか分からないというのが、学会の本音でもあったんでしょうね」
と、上杉記者は分析する。
「では、あなたはあの時の事件をどのようにお考えなんですか?」
と、川北氏は言った。
「あの事件の犯人はもちろん、あなたではありません。あなたが途中までは否認されていたことは分かっていますので、そこまでがあなたにとっての真実だったのでしょうね。でもあなたは、途中でこお事件を自分だけの真実で終わらせてしまってはいけないことに気づいた。その真相があまりにも理解に苦しむ問題だったからですね。それがあなたにとっての一番のジレンマだったんでしょう。事実に対してのあなたの真実が理解できない。そうして、こんな事件が起こったのかというところから、分かっていなかったわけですから、本当の真相によく辿り着いたと、私にはそれがすごいと思えるところなんですよ。実際には一番博士のそばにいたあなたですから、外見上の事実くらいは想像はたやすい。だからこそ、その事実に対しての理解ができないことが矛盾であり、ジレンマだったんです。なぜ、こんなに悩まなければいけないのか。まるで自分に対しての試練のようなものを、あなたは感じられたはずですよ」
と、上杉記者は言った。
――この人は本当にすべてのことを知っているんだ。それは事実だけではなく、信教迄含めた「真実を」である――
と川北氏は考えた。
川北氏の表情を見ていると、上杉記者は満足だった。それは、自分が分かっているということを上杉記者が尊敬の念を抱いているというような印象ではなく、どちらかというと、相手に自分という人間を理解させるという意味での方が強い気がした。してやったりの気持ちもないわけではないが、むしろ心が通じ合えたことの方が嬉しかったのだが、本当であれば、もっと前から知り合えていればよかったと思っている。
発表前に知り合うことができればよかったのだが、発表があったから知り合えたのだとも言える。そこはお互いに人間である以上、避けて通ることのできない問題なのだろうと思った。
「私にとっても、あの時のことは、できれば自分からやってもいない罪を認めるというのは究極の選択でしたよ。でも、博士の遺志に報いるため、そして研究成果を成就するため、さらには、自分のためといろいろ考えてのことでした。でも、やっぱり最終的には自分のためだったんですよ。それは、今となってすべてを理解しておられるであろう上杉さんには分かっていただけると思っています」
というと、川北氏はホッとしたような表情になり、
「やっと僕に笑顔をくれましたね。その笑顔を見たかったんですよ。今あなたが呪縛から解放されたんだって思っています。お辛かった心境をお察しします。ご苦労様でしたというのが、一番の本音ですね」
と、こちらも晴れやかな表情になった上杉記者の様子を見ながら、川北氏の目からは涙がこぼれ落ちているようだった。
「いいんですよ。そりゃあ、涙も流れるというものです。亡くなった博士も、先輩も今の川北さんの顔を見て、安心されているんじゃないかと思います。いいですか? 川北さん、あなたのことを一人でも理解している人がいるということだけは忘れないでください。私が今日ここにきた一番の目的は、それをあなたに知ってもらいたかったというのが本音なんですよ」
と上杉記者は言ったが、この言葉を聞いて、さらに涙腺が緩んだのか、滝のような涙が、川北氏の頬を伝った。
「私があの時、告白したのは……」
と、ゆっくり川北氏は語り始めた。
それを聞きながら、上杉記者は目をつぶって考えていた。
「別に犯人を知っていて、その人を庇っていたというわけではありませんでした。ですが、結果としてはそれに近いことにはなったのですが、上杉さんには、もう大体のことはお分かりのようですね?」
「ええ、そのつもりです」
「あの時すでに博士は死の宣告を受けていたのですが、博士の中で大体の研究までにどれほどの期間がかかるかということは分かっていたようなんです。それで自分が存命中には、とても発表にまで至ることはできないと感じたのでしょうね。そこで私に遺言を残してくださいました。そこには、研究していくうえで、先生が生き続けられるのであれば、いくら私にであっても決して漏らすことのない博士の頭の中にある今後の研究予定などを克明に書き残していたんです。そして博士はこう書いていました。『私の研究は自分が生きている間に身を結ぶことはない。この研究を狙っている連中がいくつかあるという話は、ある新聞記者から聞いて分かっていたので、彼の助言を元に、自分は研究内容とこれからを克明に残す作業をこれから行うことにする。そして、私からこれを託された人間に、私の研究、そして大げさだが人類の未来を託したいと思う』と書かれていたんです」
「そのある新聞記者というのは、先輩のことなんですね?」
「ああ、そうだ。佐久間記者のことだ。うちの顧問弁護士でる佐久間さんの弟にあたられる方だよね」
「それで佐久間弁護士が私にあれだけ協力的だった理由も分かりました。本当に佐久間さんはよくやってくれています。話は戻りますが、その遺書の中には、かなり自分に危険が迫っているようなことが書かれていたんです。やつらが狙っていたのは、博士だけではないんですね。そこで、博士は究極の選択をなさいました。これは余計を宣告されたからできることであって、普通ならできません。博士は自らで命を断ったのです。その仕掛けが、今研究の周波数に隠されていました。博士は犬のペキニーズの周波数を使用したんです。その周波数で動く、簡易のロボットを使って、自らを殺させ、凶器をイヌに埋めるなりして処分させた。もちろん、そこまでの訓練は行っていたはずですが、まさかそれを自分が死ぬために使うことになるとは、博士も死んでも死にきれなかったかも知れませんね」
と川北氏は答えた。
「じゃあ、博士は自殺だったと?」
「ええ、研究を守るために、まず自分がこの世から消えて、研究材料を密かに隠す必要があったんです」
「でも、どこに隠したというんですか? 変なところに隠せば見つかるし、よほど信頼のおける相手でないと、信用もできないし、それとあなたが自白したというのとがどのように繋がるのかが、まだハッキリとは分からないですよ」
と上杉記者は言った。
「私の命もハッキリ言って、秘密結社の連中から狙われていました。いつ誘拐されて拷問に掛けられるか分からない状況です。特に博士が亡くなってからは、ひどくなるということは予想されています。そのためには、まず、博士が自分から命を断って、研究材料を信頼できる人に託し、その人の身も守らなければならない。それが、博士にとって最大の問題でした。博士とすれば、その役目を私に託してくださったんです。だから私は自分の身だけではなく、家族も博士の研究も守らなければならなくなった。家族に関しては佐久間弁護士に任せれば安心でした、何しろ、佐久間弁護士は佐久間記者を通じて、かなりの接近がありましたからね。博士の遺産もかなり佐久間弁護士のところにも行っていますからね。だから、奥さんと、研究内容に関しては、佐久間弁護士の方で、法的にも完璧な金吾に保管もできたんです。少々の結社くらいでは破ることはできません」
「じゃあ、あなたが自白なさったのは、刑務所が一番安全だと考えたからですか?」
「そうです。彼らの秘密結社は、少々危ない橋は渡りますが、まさか収監されている人にまで手を及ぼすことはありません。それに数年の実刑というと、彼らにとって必要な研究結果を得る期間まで間に合いませんからね。だから、私の弁護も佐久間弁護士にお願いしたんですが、適当な年数の実刑を食らう程度の判決でよかったんだから、楽だったかも知れません。いや、逆に弁護士の方で刑期を伸ばすというのは却って難しいことだったかも知れませんね。佐久間弁護士にはひどいことをしたのかも知れません」
と、川北氏は言って、笑った。
「なるほど、それで刑期を終えて戻ってきての、研究だったわけですね?」
「ええ、すでにその時には危険な連中が狙ってくることもなく、思う存分に研究に勤しめたというものです。これが私にとっての一番の幸いでしたね」
「ところで、モノを捨てられないというところには何かあったんですか?」
「ああ、あれは、私の部屋がいつも散らかっているので、少々目につくところに何かのヒントがあっても、誰も分からないであろうという暗示のようなものです。実際に目に見えるところに博士が自殺をしたという証拠のようなものがあったんですが、警察も見逃しましたからね。もっとも私はそれが見つかったくらいで、このトリックが看破されるなどということはまったく考えていませんでしたから、まあちょっとした実験のようなものですよ」
と言った。
「やっぱり、ペキニーズにしか分からない音というのは。モスキート音のように、一定の人にしか聞こえないようなものだったんでしょうか?」
「そこが博士の研究の成果なんでしょうね。同じ音でも、博士の飼っているペキニーズにしか判断できないような工夫と、躾が施されていた。そうじゃないと、いくら種類としては少ないかも知れないけど、他のペキニーズが反応しないとも限りませんからね。そうなってしまうと、計画はまったく無意味になってしまう」
と川北氏は言って、ほくそ笑んだ。
「なるほど、そのあたりの研究の証明が、今回の発表でもあるんですね」
「ええ、そうなんです。だから今回の発表は私にとっては微妙な気分です、本当はほとんどを博士が考え、理論づけもしていて、さらに自らの命を使って証明した。、あるで科学者の鏡のようではありませんか。本当ならそれを先生の成果として発表しなければいけないものを私が発表してもいいものかとですね。これは私にとってトラウマであり、どのように対応すればいいのか、私にとっては辛いところです。でも、この研究は今始まったばかりなのです。たぶん、私の生涯でもすべてを証明することは不可能でしょう。でもそれをどこまでできるか。それが私の使命であり、博士からしっかりと受け継いだものだと思っています」
という川北氏に対して、
「なるほど、あなたの心境はお察しします。この数年間はさぞやお辛かったことでしょう。研究ができないということが一番でしたでしょうが、それに加えて、今回の一旦の幕引きを自分がしてもいいのかどうかというジレンマに悩まされていたのを、今お話を伺ってわかりました。私もだいぶ分かっているつもりでいましたが、実際にはまだまだだったんですね」
と、上杉記者が言った。
「なかなか難しいと思います」
「これからは、じゃあ、研究に勤しんでいくおつもりなんですよね?」
「ええ、そうです。それが私の使命だと思っているし、妻に対しての報いでもあると思っています」
「奥さんですか?」
「ええ、実は妻は今、余命宣告を受けています。病状は、勝沼博士と同じもののようなんですよ」
と言って、力なく川北氏は笑った。
――何ということだ。もし何もかも最初から分かっていたのだとすれば、あの事件からの一連のことに関しては、すべて川北氏が絡んでいるということになる。これほどの欺瞞があるだろうか?
と感じた。
そして。
――一体誰に対しての欺瞞なのだろう?
この思いを抱いたところで、上杉記者は、身体が凍り付くのを抑えることができなくなっていたのだ……。
( 完 )
周波数研究の果てに 森本 晃次 @kakku
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