第18話 こうして、偶然に甘え続ける。

 これが偶然であると考えるほど賢太は愚かではなかった。くわ助は何らかの力によって、現実世界に存在するパチンコ屋の看板に影響を及ぼすことが可能なのだ。原理はまるで不明だが。


「賢太くん、こりゃ流石に」


「はい…… くわ助が看板の電灯をどうにかしたと考えるしかなさそうです……」


 賢太の心中は屈辱に満ちていた。極めて非科学的な事象を認めることはエンジニアとしてのプライドが許さなかった。しかし、くわ助のことを単なるチャットbotとして扱っている限り問題解決の糸口は見えそうになかった。


「ねえ、マツケン。これってどういうこと?」


 いつの間にか背後に立っていた育が聞く。


「ごめん、分からない……」


 俯きながら生気のない声で答えると、育の声を無視してとぼとぼと事務室へと戻った。自分のデスクにたどり着くと、重力がここだけ強くなったようにドッと腰を下ろした。


 *


「ずいぶん、意気消沈だね」


 のんきな様子の誠司に賢太は腹立たしい気持ちを隠せなかった。勤務時間中にも時折スマートフォンを触っている彼が観光協会の仕事に熱を持っていないのは明らかだ。結局、就活に失敗して親のコネで働いているだけだろう。そしてなにより、そんなくだらない八つ当たりをしてしまっている自分自身に苛立った。


 たかが学生風情がエンジニアとしてのプライドなどと言っては鼻で笑われる。結局のところ粘り強く原因究明に取り組むほかないのだ。しかし、今の賢太にそれができるだけの力は残っていなかった。


 その日は、ノートPCの前で何か調査しているふりをしながら過ごした。プログラムのコードが書かれた画面を開いておけば、素人目には何か難しいことをしているようにしか見えない。実際は、昔作ったコードを眺めてたまに手直しするというくわ助とはなんら関係のない作業をしていた。平たく言えば、くわ助のことなんて考えたくなかったのだ。


 *


 終業時間の17時に上がって、17時半頃に家に到着した。両親の姿はなかった。整骨院が20時まで営業している関係で、夕飯は独りで食べることが多かった。小学生の頃は祖母が夕飯を作ってくれることもあったが、中学生にもなると作り置きが大半だった。


 大学生になり、申し訳なさを感じた賢太は自分が夕飯を作ろうかと言おうとして止めた。料理センスがないであろうことは火を見るよりも明らかだったし、そもそも母が帰宅後に調理をしたくないという理由で、朝のうちや昼休みの時間などにあらかじめ夕飯を作っていたのだ。作る量が1人分減ったところで母の苦労は変わらない。


 というのは多分言い訳だ。料理はセンスではない。その気になれば、1から勉強して母の負担を減らすことはできたはずだ。結局のところ、自らの怠惰、あるいは勇気のなさに起因するのだ。情報工学の知識は親孝行の役には立たなかった。


 食事を終えて、自室へと戻る。ベッドに腰掛けて、時計に目をやる。このまま寝てやろうかとも思ったが、時刻はいまだに21時前で目は冴えていた。ふと、育と通話しようかとも思ったが、これも止めた。他者に慰めてもらうなんてことは、ひどくわがままで気持ちの悪いことのように思えた。


 そういえば、育との通話をこちらから始めたことは一度もなかった。彼女との通話は決まって、夜間の暇なひと時にふとスマホが振動し、画面にある通話開始ボタンをタップすることから始まっていたのだ。


 思えば、これまでの人生で何かを主体的に選択した経験はほとんどないように思えた。たまたま、育と出会い最低限の社会性を身に付けられた。たまたま、フラッシュゲームにハマったのをきっかけにPCに興味を持ち始めた。たまたま、大学の推薦枠が空いていたからそこに応募して就職した。


 賢太は、自らの人生に対する当事者意識の薄さを実感した。その時々の偶然に甘え、そして心のどこかでどうにでもなるさ、と将来のことを諦めてきたのだと思う。明日も今日と同じような日がやってくると根拠もなく確信している。と、これは潔世を嫌悪する最大の理由だったのではないか。

 その時、心の深淵にかかっていた霧が急に晴れた。潔世への嫌悪とはすなわち、自分自身への嫌悪だったのだ。


 潔世とは違って、東京は変化に富んでいて、誰も何も諦めていない街だと信じていた。そこでなら、自由に愉快に生きられるはずだと。しかし、そうではない。賢太こそが自分に対して何も期待せず、漫然と生きている。本心では、変化を拒んでいる。


 東京でなら、自由に生きられるはずだとも考えていた。田舎特有のくだらないしがらみに囚われず、思うがままに生きられるのだと。しかし、それも違う。この潔世の地においても賢太にしがらみなど存在していない。両親との会話も少なく、友人もおらず、何らコミュニティに属していない。生まれてからずっと、今に至るまで何者からも縛られていなかった。不自由たらしめていたのは他の誰でもない自分自身だ。


 どこかへ引っ越したところで、次第にその地を拒絶し始めるのだろう。それは、潔世だろうと東京だろうと関係ない。死ぬまで延々と自らの住む土地を忌み嫌い、いつか素晴らしい場所で自由にありのまま過ごすのだという幻想を追い続ける。そんな未来は確かな感触をもって想像することができ、ゾッとした。


 玄関の開く音がして、我に返る。両親が整骨院から帰ってきたのだ。階段を上る足音に混じる笑い声とは対照的に、賢太は打ちひしがれていた。自らの矮小さに呆れていたとも言い換えられる。これまで抱いてきた感情の源流は全て、自己嫌悪と孤独感の2つに収束する。あまりにむなしい人生だと思った。


 スマートフォンが振動し、育からの着信を伝えていた。今の心情を他人に吐露しようとは思えなかった。生の感情を晒す経験は今まで一度たりともなかったし、これからもないだろう。そして、その限りにおいてしがらみは生まれないのだ。


 考えるよりも先に応答ボタンをタップしていた。スピーカーから育の陽気で飾らない声が聞こえる。賢太はこうして、偶然に甘え続ける。

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