第15話 ババアの昔話に付き合っておくれ。

「観光協会を辞めたのは3年ほど前だが、色々あってね。結局、15年近くあそこに勤めてたのかな。話すなら、そうだね、夫と結婚した時からになるかな」


 ずいぶんと遡るな、と思った。するとそれが顔に出ていたのか、沢田は


「ババアの昔話に付き合っておくれ」


 とふっと口元を緩めて諦観を感じさせる表情を浮かべた。


「22の時に結婚して、田舎から出てきたのさ。今でこそ、この辺りは寂れてるけれど当時はそれなりだったんだよ。少なくとも、わたしらの生まれた土地と比べればね」


 潔世市が栄えていた時代の想像が出来なかった。沢田が引っ越してきた頃はまだ合併前で木浪市だったかもしれない。


「この家を建てて、そんでいざ、子育てだと思ってたら、子供ができなかったんだよ。昔のことだからもう姑にグチグチ言われてねえ。夫は優しい人だったから、2人で楽しく生きようとか言ってくれてね。でも、今から考えるとあの人の方に原因があったかもしれないわよねぇ」


 言いながら、朗らかにほほ笑んだ。それはまるで年老いた旦那と昔を懐かしむような口調だった。彼女の背後にある仏壇へと目が移る。遺影の中の彼は、暖かな微笑みをたたえていて、陽光がフレームのふちを照らしていた。


「2人で働いてお金を貯めたら、老後は自然豊かなところに引っ越すのもいいかな、なんて言って。でも、急に倒れちゃって。心筋梗塞でね。そんなに働きづめでもなかったはずなのにね。そんで、あっという間に未亡人さ。女の人は心移りが早いなんて言うけど、私は次の人なんて気持ちにならなかったわ。こう見えて一途なの」


 隣に座る育は口元を少し緩めながらも神妙な面持ちで聞いている。


「それで、もういっそ本気で働いてやろうと思って、観光協会で働くことにしたの。その頃にはもうかなり衰退してきてたから。あの人意外と潔世のことが好きだったしね」


「当時の観光協会はどんなでしたか?」


 育が聞く。


「別に今とそんなに変わんないと思うけどね。ゴンさんはもう既に会長で傲慢だったし。誠司くんがちょうど働き始めた頃かな。不景気で就職先が見つからないっていうので、ふてくされてたよ」


「へぇ、誠司さんが」


 感心したように育は頷く。育も働き始めてまだ1年と経っていないはずだが、すっかり観光協会の職員が板についているように思えた。


「そうそう、イサギヨライダーの引き継ぎの時なんか、すごい揉めてね」


「へー、意外ですね」


「そうかい? 本当は観光協会辞めたいんじゃないの? あの子」


 賢太の知らない知識を前提として繰り広げられる育と沢田の会話に追いつけないでいた。推察するに、以前会長が言っていたイサギヨライダーは、今は息子の誠司が運用しているということだろう。そして、彼はあまり乗り気でないらしい。


 ひとしきり誠司について話し終えた後、会話は沢田の過去の話に戻った。


「まあ、わたしなりに本気で仕事に取り組んでたんだけど、本当に回りがIT音痴ばっかりでね。年寄りはおろかそこそこ若い事務員もPCの使い方が分からないって言うんだから。わたしみたいなババアが使えてるのにどうして使えないんだと思ってイライラが募っていったわけさ」


 賢太にも、その気持ちは少し分かる気がした。調べればいくらでも出てくる基礎的な知識すら、ことあるごとに聞いてくる人たちに悶々とする感情を抱くことはままあった。


「わたしだっていい年なんだから、表には出してないつもりだったんだけど多分出てたんだろうね。若い子が、わたしへの不満を言い始めたのがきっかけで変な感じになってね」


 あの事務室で、どろどろとした感情の衝突が起きていたのだと思うとげんなりした。職場での人間関係のこじれは賢太にとって最も理解できないものの1つであった。


「皆が辞める辞めないみたいな話になったから、わたしから辞めたの。貯金も十分あったし。会長には引き留められたけどね。その後のことはよく知らないけど、誠司くんが言うには結局皆辞めたんだってね」


 それがことの顛末だった。職場で嫌われた有能な職員が辞める羽目になり、その上沢田を糾弾していた側の職員も去った。優秀な職員が辞職したしわ寄せが残った職員たちにいったのだろうか。結果として、観光協会は深刻な人材不足に陥り渡会が、そして次に育がやってきた。


「そんなことが……」


 育は肩を落として、俯きがちに言った。重々しい雰囲気の中、とある疑問が頭をもたげていた。こんなことを聞ける空気でもないのは分かっているが、敢えて空気を読まずに口に出した。


「すみません、そのVRゴーグルは何だったんですか?」


 今聞くことじゃないだろ、という育の視線を感じる。


「ああ、これ?」


 沢田が破顔して、賢太は内心ホッとする。


「暇つぶしだよ。年寄りは時間があってね。付けたまま出たのもわざと。ちょっとしたいたずらさ」


 ほうれい線に深く皺が刻まれるほどに笑う彼女は、純真無垢な少女のようにも見えた。その一方で、語気にはどこか空虚さが入り混じっている。


「沢田さん……」


 育は姿勢を正して、沢田の目を真っすぐと見て言った。


「もう一度、うちで働きませんか?」


「えっ?」


 沢田は目を丸くしていた。賢太も思わず、育の横顔をまじまじと見つめた。


「あっ、いやすみません。偉そうなのは分かってるんですけど。なんというか、また働きたいんじゃないかな、と勝手な憶測で申し訳ないですが」


 慌てた様子で手を振りながら続ける。沢田の遠い何かを追い求める虚ろな瞳がかつての夫へ向けられたものなのか、志半ばで辞めることになった仕事へ向けられたものなのかは分からなかった。しかし、今の状況が彼女にとってふさわしいものでないことは、賢太にも理解できた。


「当時の職員は会長と誠司さんしかいませんし、渡会さんも人を嫌うタイプじゃないですし」


「ありがたいけど…… 今更だしね。ま、考えとくよ」


 沢田は肩をすくめて答える。年を重ねた人に特有の、漠然とした諦観が全身から溢れていた。しかし、さきほど廃校事業についてアドバイスをしている時の彼女はそんな感情の痕跡を微塵も感じさせなかった。


「ちょっと、話しすぎたか。すまないね。なんだか、愚痴を聞いてもらったみたいになっちゃった」


 時計に目をやると既に午後5時を回り、辺りは薄暗くなっていた。


「とんでもないです。一度会長とも話し合ってみるので、本当にいつでも帰ってきてくださいね」


 育は持ち前の明るさと押しの強さで言った。賢太には、とても同じことはできない。


 *


 沢田の家を去る際、賢太は育に先に帰るよう伝えた。沢田に聞かなければならないことがあるのだ。育に聞かれても特に問題はないはずだったが、誠司も含めてまとめて説明した方が楽だろうと思い、そうした。


「聞きたいことって?」


「沢田さん、いさぎよシティの運営をしていましたよね?」


「そうね」


「この街はくだらない連中が多い、市役所は頑固な老害ばかり、そんな内容の記事に心当たりはありますか?」


「はあ」


 沢田は見当違いの質問を受けた時のように呆けた顔をしたが、その直後唇を引き結んで真剣な顔つきになった。その様子はまさしく顔面蒼白という表現がぴったりだった。

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