第9話 本当に何でもできると思ってたんだ。
「本当に何でもできると思ってたんだ」
スマートフォンの向こうにいる育はそう言った。育が持つ仄暗さについてずっと違和感を感じていたが、過去のことをむやみに聞くのは無粋だと思い質問できないでいた。
しかし、小学生の頃の話をしているとき、つい流れで聞いてしまったのだ。東京で何かあったのかと。
「ずっとさ。それこそ、短大卒業するまで、無敵だと思ってたの」
育は真剣な声をしていた。その真剣さと無敵という幼稚な単語が不釣り合いに感じて、思わず頬が緩んだ。
「でも、実際はただ周りに助けられてただけだった」
「少なくとも、小学生の頃は僕の方が育に…… 引っ張りまわされてたけどね」
助けられていた。と言おうとしたが恥ずかしくなって止めた。もし、育がいなければ今以上に人付き合いをしない社会不適合者になっていた可能性が高かった。
当時の賢太は、育に無理やり付き合わされていると思っていたが、その半ば無理やり参加させられたイベントで最低限の社会性を学んだのもまた事実なのだ。
「私、びっくりするくらい仕事できなかったんだよね」
自虐的に笑うその声には哀愁がたっぷりと含まれていた。少しの沈黙が生まれ、自室の時計の秒針の音が鮮明になった。
「今思えば、学生時代から全然失敗はしてたけど何とも思ってなかったからさ。でも仕事でミスるとなんともならないんだよね。多分、入った会社が良くなかったってのもあるだろうけど。ミスるたびに、変な空気になるし。段々無視されるようになったしさ」
育は、東京での社会人生活について、
「学生の頃はパワハラ野郎なんてぶん殴ればいいじゃんって本気で思ってたけど、実際はそうもいかないんだよね」
間違えちゃダメだと思えば思うほど、体は言うことを聞かなくなっていくこと。朝起きた瞬間に、帰りたいと思っていたこと。変なプライドが邪魔して地元の友人にも相談できなかったこと。そんなことを育は一方的に話し続けた。
彼女もこの街を出たいと思っていた若者の1人で、地元に残る友人相手に「自分は都会人として自由を謳歌する」と息巻いていたらしい。
「まあ、大体そんな感じ」
全てを話し終えると、育はけろっと元の陽気な声に戻った。賢太は、返すべき言葉が考えつかないでいた。親身になるべきか、健気に振る舞うべきか。賢太が言いあぐねていると
「マツケンは地元嫌い?」
と聞いてきた。
「嫌い…… まあ、そうかな」
「そうだよね。私もそうだったし。でもさ、帰ってきてからちょっとだけ好きになってきたんだよね」
「どこが? 好きになれる所なんてないでしょ」
「そうかもしれないけど。なんていうのかなぁ」
うんうん唸る声が聞こえる。賢太はこの街に愛すべき部分など1つたりともないと本心から思っていた。仮に嫌いでなかったとしても、好きにはならない。
「本当に何にもないんだけどさ。生ぬるさというか?」
生ぬるさ。それはまさしく、賢太がこの街を嫌いな理由を的確に言い表した言葉だった。
「僕は、むしろそこが嫌いなんだけどなぁ」
「それはマツケンが、できる人だからじゃないの?」
「いや、僕は全然そんなじゃ」
「だって、プログラム? みたいな。よく分からないけど。東京のIT企業で働くんでしょ? イケイケじゃん」
「IT企業もピンキリだよ。僕のはそんなにキラキラしてないし」
「でも、すごいよ。私みたいなただの事務職じゃないし」
育の言葉に再び自虐が戻ってきた。
「そんなに卑下しなくても。僕だって、プログラムは出来てもエクセルとか全然だめだし」
「えっ? プログラマーってエクセル程度余裕なんじゃないの?」
「いやもう、ちんぷんかんぷん。僕だってその程度なんだ」
「へー。でもやっぱり思っちゃうんだよね。私とマツケンは違う人種だって」
「どっちも日本人でしょ」
「そういう意味じゃなくて」
賢太は背もたれに体重をかける。椅子が軋む。
「何にもないこの街に同情するというか。気持ちが分かるんだよね。マツケンにはきっと分からないよ」
そう言われて、鼓動が早まるのを感じた。触られたくない心の深淵を覗かれたようで、ひどく動揺した。そして、何より不安だったのは、その心の深淵に何があるのかを賢太自身が把握できていないことだった。
結局その日は、あてのない言いあいが続いて通話を終えた。賢太はベッドに寝転がって改めてこの街への想いを考え直した。
映画館がない。ショッピングモールがない。当然IT企業などあるはずもない。漠然とした生ぬるい空気。郷土愛を育ませない歴史の薄さ。
これらはこの街が嫌いな理由の一部であることは間違いない。しかし、本当にそれだけだろうか。他にもっと大きな理由があるような気がして止まない。
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