第8話 幼馴染の話

 教室の中は喧騒に包まれている。給食の時間が終わった後の20分休憩。賢太は図書室へ行こうと思い、席を立つ。教室の後ろにあるロッカーには4時間目に作った木製の工作物が並べられていて、淡い木の匂いがした。


 教室の扉を開けると、ちょうど目の前に育の姿があった。わっと声を上げて、目を見開いたと思うと、口角を持ち上げる。


「どこ行くの?」


「図書室」


 賢太はぶっきらぼうに答える。


「今から、鬼ごっこするんだけど、マツケンもやる? やるよね」


 返答を待たずして、育は腕を掴んで階段の方へ引っ張っていく。勢いに逆らえず、前かがみの体勢になった賢太の目にはモスグリーンに塗装された廊下が映っていた。てらてらしていて陽光を反射させている。


「ちょ、ちょっと」


 されるがままの賢太はそのまま階段を下りていく。階段にはすべり止めのゴムが張り付けられていて、それが所々で剥がれていた。こちらを振り向くことなく育はずんずん進んでいく。すれ違う人たちの驚いた顔が後方へと流れていく。


 下駄箱に到達してからようやく育はこちらを向いた。


「人数多い方が楽しいでしょ」


 あまりにも純粋なその言葉は賢太の中にそれまでなかった考え方だった。駆けだしていく育の後ろ姿が陽の光と重なってシルエットになった。彼女はハリケーンのように賢太の人生をかき乱していた。


 *


 育と出会ったのは、実は小学校に入学するよりも前のことだった。家で一人にするのは心配ということで、整骨院のバックヤードにある小さなテレビでアニメを見ていた。両親は時折様子を見に来たが、大半は表の方で接客や施術を行っていた。


 ふいに待合室の方から女の子の泣き声が聞こえた。この整骨院は小規模な個人経営ということもあって子供が遊べるキッズスペースなどは用意されていない。

 泣き声があまりにも大きいので、心配になって待合室の方を少し覗いてみた。するとそこには、賢太と同じくらいの年の女の子が泣きじゃくっており、その子のお母さんは困り果てた様子で頭を撫でていた。


「施術中もそばにいて大丈夫ですよ」


 賢太の母である松田洋子は、母親に微笑みながら語り掛ける。賢太はそんな洋子の顔をはじめて見た。いつも賢太に笑いかける時の顔とは違っていたが、どこがどう違うのかは説明できなかった。


 次第に賢太はなぜだが、腹立たしい気持ちになっていた。自分は1人で我慢しているのに、一瞬たりとも親と離れたくないと泣くなんて許せない。そんな嫉妬に似た感情を抱いていたのかもしれない。賢太は無意識のうちに女の子の前に立っていた。


「ないちゃだめだよ」


 賢太は表情を変えることなく言った。両親は目を丸くしてぽかんとしていた。自分と同じくらいの年の男の子に注意されたのは初めてだったのか、少女は泣くことを忘れて、怪訝そうな顔で賢太のことをじっと見つめた。


「だれ?」


「まつだけんた」


「ちょ、ちょっとダメでしょ! 奥で静かにしてるって約束でしょ」


 そう言いながら母は賢太を持ち上げて、裏の方へと消えていった。女の子の母親は、その様子がおかしかったのか、急に笑い出してそれにつられて女の子も笑顔になった。


 *


 と、これが育と賢太の奇妙な出会いである。それから、賢太の両親と育の両親は交流を深めていき、それに伴って自然と2人の仲も良くなっていった。賢太に初めてできた友達だった。


 しかし、後々考えると、育の泣きじゃくる姿を見たのはこの時が最初で最後だった。育は賢太と遊ぶようになってから、一度も泣いた姿を見せたことがなかったし、むしろ賢太のことを叱ることすらあった。


 賢太は人付き合いという概念を芯から理解できないような人間だったので、基本的に遊びは育の方から誘うことしかなかった。このような関係性は実質的に育が支配しているといっても過言ではなく、小学校高学年、そして中学校と年を重ねるごとに思春期特有の気まずさが増していき、2人の関係性は自然消滅した。

 少なくとも、気まずさを押しのけてまで賢太と一緒に居たいという強い気持ちが育にあったわけではなかったのだろう。


 そういう訳で、当時の育と今、目の前で冷や汗をかいて背を丸めている育が同一人物とは思えなかった。しかし、普段、陽気な育がこうなってしまうトリガーを賢太は以前聞いた話から容易に想像できた。それは、育と再会してから数度目の通話の時のことだった。

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