第37話「花嵐」
「ったく、ゴブリンどもよりしぶといわね」
魔力の暴風によって顔にかかった髪を、トスカは鬱陶しげに振り払った。
余裕を確かめるために口にした悪態の声音に、思わず疲労が滲んでいた。まるで強がりのように聞こえて、つい舌打ちが漏れる。
息が上がっている。休む間もなく魔力の過剰放出を繰り返したせいで、身体が熱を放っていた。
座り込みたい。できれば清潔なシーツの張られたベッドでぐっすりと眠りたい。
だが弱音は踏んづけて、トスカは背筋を伸ばす。ぐるりと周囲を確認する。塗りつぶした白い影のような無数の兵士たちが取り囲んでいる。
すでに数百は吹き飛ばした。だが元の数から減っているようには見えない。底の抜けたバケツで水を汲むような徒労感ばかりが積み重なっている。
分かっていたことだ。
冥界の兵士は不死不滅。消し飛ばそうが斬り飛ばそうが消滅することはない。
トスカとて真っ向からやり合うつもりはなかった。自分の実力に自信はあれど、現実を理解する賢明さも持ち合わせている。
冥界の門の守護者は神話級の存在だ。戦って勝てる相手ではないことは明白だった。ゆえに、有象無象の兵士を消し飛ばすだけのじゃれ合いで時間を稼ぐことに専念し、頃合いを見て逃げる心算だった。
だがそれとて甘い見積もりだったと悔いるしかない。逃げることすら難しい相手というものがいる。
囲う兵士の中に逃げ道を作ろうとすれど、海を割るに等しい難題だった。どれほど全力で消し飛ばそうとも、不死の兵士はすぐさまに蘇る。
「……バフォメットの爺さまが可愛く見えてくるわね」
魔族の中にも不死族と呼ばれる存在はある。だが、この世に厳格な不死は存在しない。他種族よりも殺し難いだけであって、すべてのものは死ぬ。
だが、冥界には本物の不死が存在する。すでに死んだ存在を普通の手段で殺し直すことはできない。
「いま飽きけむ、世の小娘よ。鍵はいづこなり。汝を殺すことはこころざしならず。冥界にあらましのなき魂受け入るるには、余計なるいとなみ増ゆ」
巨大な馬車の荷台から、重苦しい響きの声。感情の起伏を感じない平坦な声は、何を考えているのかさっぱり分からない。
だからトスカは鼻で笑い飛ばす。
「さっきから古臭くてなに言ってるか分かんないのよね。追いつきなさいよ、時代に」
「……」
「まあいいわ、鍵ね、冥界の鍵。それほど欲しいなら返してあげるわよ」
トスカは古びた鍵を取り出す。それを見せびらかすように振って、頭上に投げた。
指差す。閃光が迸り、空中で鍵は弾け飛ぶ。鮮やかな赤い光の破片が舞った。
「––––あーあ、壊れちゃった」
「……よもや」
馬車主の声がかすかに苛立ちを帯びた。
トスカはにっこりと笑う。
満足だ。スカしたやつが感情をむき出しにするのを見るほど楽しいものはない。相手の鼻を明かしたのが自分であれば尚更だ。
「冥界の鍵だったら壊れるわけがない––––そうよ、あれは偽物。ただのおとり。あんたは無駄にここで足止めされてたわけ。ようやく理解したかしら、おばかさん」
魔力すら模造された偽の鍵は、手紙と共に届いたアーティファクトだった。それが自分に託された以上、役割はこれで合っているはずだ。
自分とルスティカーナの関係を知っていて、冥界の鍵を盗み、その模造品によって冥界の番人すら騙してみせるほどの大悪党。
そんな存在をトスカはひとりしか知らない。
魔族の中でもっとも凶悪と恐れられた古き一角を単身で滅ぼし、人魔の戦争すら止めて見せた魔法使い––––。
しかし受け取った手紙を頼りにその名を訪ねてみれば、出迎えてくれたのは冴えない男だった。ひと目で分かった。この男こそが偽物だと。
落胆した。本物の魔法使いは姿を消していた。ならば仕方あるまい、と覚悟を改め、本物の鍵を奪い取り、ひとりで世界を変えようとした。
それでもどうにもならず、結局はここに至った。姿も見せぬ魔法使いの思う通りに動くのは癪だが、ルスティカーナを助けるためにはこれしかないのだと分かってしまった。
あの偽物の男は––––あまりに軟弱で平和ボケした抜けた顔の人間は、約束した。ルスティカーナを助けると。
人間との約束を信じる魔族はいない。
だが、トスカはそれを信じたい気持ちでいる。そんな自分を不思議に思っている。
「……謀られし、か。時をいたづらにせり。汝は鍵を持ちたらずや。いまよき、殺せ。その者の魂、番兵にて使ひ潰さむ」
「おあいにくさま。あたしは他人にかしずくつもりはないの。一緒にいたいってんならあんたが平伏しなさい」
魔族には命よりも大切なものがある。
矜持だ。
無様に死ぬことだけは我慢ならない。
周囲の死兵たちが武器を掲げ殺到する。
トスカは胸を張り、迎え撃った。
残る力を燃やし尽くし、死兵のことごとくを業火に焼く。
それでも死兵は無尽蔵に湧き出る。
トスカの腕が青火を纏う。魔力の奔流に耐えきれず、自らの腕すら焼いている。それでも戦う。冥界に挑む。
あの男はルスティカーナを救えるだろうか。分からないが、全力は尽くすだろう。
だったらこっちが先に根を上げるわけにはいかない。
トスカは笑う。
人間の友人のために命をかけ、人間の男を信じて踏ん張っている。
魔族らしからぬ自分。だが、これでいいという気もする。やれるだけのことはやった。自分の矜持に傷はない。だったら死ぬことも恐ろしくはない。
纏う炎が消える。トスカは棒立ちになる。
––––からっ欠……魔力も底をついたわ。
死兵が群がる。槍が集う。
「まあいいわ、死んだら冥界でも乗っ取ってやろうかしら」
髪を振り払い、微笑んだ。
––––風が吹く。
トスカを囲っていた死兵たちの動きが止まった。
風が巡る。
トスカの髪がなびく。
荒れ果てた花壇に風が這う。
草木を絡めながら渦を巻く。
死兵たちの身体が崩れ去り、それは淡く青い花びらとなって風に吹き飛ばされていく。
トスカは目を見開いた。自分を中心として竜巻が生まれている。それはびゅうびゅうと風を鳴らし、どこかで雷の音。
無数の花びらを巻き上げながら、今まさに嵐が生まれている。
その最中に光の線が浮かび上がっていく。端と端が繋がり、それは長方形を描く。
扉。
開かれた隙間から光が溢れる。
黒いローブを揺らしながら、ひとりの男が出てくる。黒い髪。黒い瞳。
とぼけた顔でトスカを見て、男は笑った。
「よっ、まだ生きてたか!」
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