第35話「そこに、光」

 

 ふと気づくと、真っ白な場所に立っていた。

 地獄の炎にしろ、三途の川にしろ、冥界にだって景色くらいはあるだろうと思っていた。


 周囲はひたすらに白一色なのに、不思議と奥行きがわかる。どこまでも高く、どこまでも広く繋がっている奇妙な空間。


 ただ、足は地についている。だから歩いてみる。

 どこかに進んでいる。あるいは戻っている。

 景色は何も変わらない。

 随分と歩いた気がする。

 1秒も経っていない気もする。

 思考までもが空白に染まっている。

 自分が誰かも分からなくなる。


 それでもただ歩いた。足の裏に感じる感触だけが、俺の存在を証明しているかのようだった。


 歩いて、歩いて……ふと、花びらがひとつ落ちている。

 花びらを追いかける。やがて、白い空間の中にぽつんと、東屋が見えた。

 近づいていく。誰かが座っている。

 真っ白な世界に、真っ白なドレス姿。テーブルにぺたり伏せ、組んだ腕に頬をつけて、退屈そうにどこかを眺めている。その目が俺を見る。瞳が丸くなる。


「––––よ、また会ったな」

「プロスペロー、さま?」

「迎えにきた」

「……ここは、冥界ではないのですか? わたしはきっと死んでしまったのだと。でもどこにも行けないし、誰も来ないし、夢を見ているのかと思いました」

「もう大丈夫だ。俺はきみを連れ戻しにきた。ほら、戻ろう」


 俺は手を差し出す。

 ルスティカーナはその手を見て、俺の顔を見て、そっと微笑んだ。


「お断りします」

「––––えっ」

「きっと大変なご苦労があったのでしょう……わたしのために、本当にありがとうございます。ですが、わたし、戻りたくないんです」

「えーと、あー、そうか。そういうこともあるか」


 誰かを助けたいという親切心は、ときに独りよがりということもある。

 助けることが正しいと思って突き進んだは良いものの、助けられる側の気持ちは置いてきぼり、ということもあるのが現実だ。

 俺はルスティカーナを助けたいと思ってここまで来たが、ルスティカーナ自身に頼まれたわけではない。


「一応、なんでか訊いてもいいか?」

「生き返ったところで、わたしの居場所はあの庭園でしょう? あそこも、ここも、変わりはありませんから。それならいっそ、輪廻の輪に加わって、次の人生に進むのも良いかな、と」


 ルスティカーナは照れたように笑う。


「わたしの人生は、あまり意味のあるものではありませんでした。自分の役目が何かも分からず、庭園に閉じ込められ、ただ鳥が訪れるのを待つだけ……プロスペローさまは、どうしてわたしを助けようとするのです? わたしを生かすことでなにか意味があるのでしょうか?」


 捻くれた物言いだ。けれどルスティカーナは真剣にそう思っている。


「生きていても意味がないのです。生きることが苦痛なのです。プロスペローさまのお気遣いには深く感謝します。でも、どうか、このままお捨て置きください」

「……きみを助けたいって人がいる。きみが死んで悲しんでる人もいる」

「そう、ですね。でも、わたしはもう死んでしまいました。だからもういいのです。自分の意味を証明するために生きるのは、すこし、疲れました」


 微笑む顔からは力が抜けている。笑ってはいても、感情のない空白の笑顔。

 本物のプロスペローは、ルスティカーナを助けたいがために俺を呼んだ。

 遺体を隠し、時を繰り返し、何かを犠牲にしたはずだ。

 けれど俺たちは肝心のルスティカーナの気持ちを確かめていなかった。彼女は生きたいとは願っていない。だが、それでも生きてほしいと願う人たちがいる。

 ここまで来て、俺はどちらを優先すべきか、と唸る。


「よし。んじゃ、俺も失礼して」

「はい?」

「あ、ちょっとずれてくれる?」


 ルスティカーナの椅子の横、俺は床に座って東屋の壁に背を預けた。


「ルスティカーナを助けたいってやつのお願いでここに来たんだけどさ、まあ、本人が嫌だって言うなら無理強いもできないし」

「だ、だったら帰ればよろしいじゃないですか!? どうして居残るんです!?」

「だって俺さ、きみを助けるために呼ばれたんだよね。それが無理っていうなら、俺も戻る必要ないかなって」

「かな、って……それじゃ、プロスペローさまはどうなるんですか」

「さあ? なんか時間もないって言ってたし、そのうち一緒に消えるんじゃねえかな」


 背伸びなんてしてみたりして。


「……しないんですか、説得とか」

「きみさ、意外と強情だろ。自分で決めたことは絶対に曲げないやつ。じゃあ、なに言っても無駄だろうしな。そもそも、生きることは素晴らしいって説得できるような人生を送ってたわけでもないし」

「……なんだか、適当ですね」

「真面目に生きすぎると疲れて嫌気がさすだろ?」


 真面目に生きる。なぜなら生きることは正しいから。頑張って生きてる奴が正しいから。

 誰に言われたわけでもないのに、俺たちはいつの間にかそんな生き方を強制されている。


「俺さ、別の世界の人間なんだけど」

「えっ」

「で、そっちではもう死んでるんだけど」

「えっ」

「あんま覚えてないけど、一回死ぬと、なんか気が楽になってさ」

「ちょっと待ってください、お話が複雑すぎて」

「そう? まあそのうち分かるって」


 こめかみを押さえてうんうん唸っているルスティカーナに「真面目だねえ」と笑う。


「プロスペローさまは、生き返ったということですか?」

「そうなるのかな」


 なるほど、と小さな頷き。


「生き返って、なにをなさってるんですか?」

「なにって……」


 これまでのことを思い出してみる。


「ジェンダーレスのサイクロプスと知り合いになって、海賊と船旅をして、海軍と戦って、魔族に襲われて、幽霊にお願いごとをされて、あっちこっち行き来して、んで、ここ」


 と地面を指差す。


「……省略されすぎて、よくわかりませんが、大変そうです」

「いや、結構、楽しかったな。俺さ、悪い魔法使いなの」

「悪い魔法使い……?」

「そ。だから魔法を使って好きにやってさ。海賊も助けるし、兵士からも逃げるし。あ、牢に入れられたこともあった」

「そ、それはどうしてですか?」

「それが殺人の容疑をかけられちゃってさ」

「えっ」

「もちろん冤罪だけど」

「……ほっ」


 死んだのが、ルスティカーナの慕う異母姉であるグラウだということは、告げることはできなかった。

 ルスティカーナがこのまま死を迎えることを、彼女はどう思うだろうか。冥界であるここで、再会できれば良いのだが、と思う。


「人生ってつまんねえなあって思ってたけど、生き方を変えたらいろいろあるんだよな。おれも死ぬまで気づかなかったけど」


 しみじみと思う。元の世界でも、もっと別の生き方ができたのかもしれない。俺がそうする勇気を持てば。誰かに嫌われようと、正しくなくとも構わない、悪いやつでもいいと開き直れたら。


「……わたしも、そんな風に生きられるでしょうか」


 ぽつりとルスティカーナが言った。


「プロスペローさまのように、悪役になれるでしょうか」

「さあ。試してみればいいんじゃないか?」

「試す……?」

「自分は生まれ変わったんだって開き直って、好きにやるんだよ。それでも生きるのが苦しくて、辛くてどうしようもなかったら、また死ねばいい。他人がどう言ったって、いつ死ぬかってのは自分の権利だし」

「……そんな考え方、初めて聞きます。命は尊いものです。自分の命を断つことは大罪で、死後の安寧は訪れぬ、と教えられてきました」

「ここ、死後の世界だけど」


 周囲を見回した。なにもない。ただ、静かだ。俺たちは顔を見合わせ、苦笑し合う。


「なにもありませんね」

「ここも退屈だろ」

「……少しだけ」

「現世に戻ってみるか?」


 ルスティカーナは迷うように視線を伏せる。唇を尖らせ、お菓子をねだる子どものように上目遣いで俺を見る。


「プロスペローさまが、わたしの面倒をみてくださるなら、戻ってもいいです」

「面倒って?」

「わたしも悪い子になりたいです」


 行儀の良い不良宣言に、俺はつい吹き出してしまった。


「わ、笑うなんてひどいです! わたしは真剣なんです!」

「悪い、わかった、よし、おれが面倒見るよ」

「本当ですか?」


 疑うようにじいっと睨まれる。


「本当だって。そうだな、まずは海賊を紹介してやる」

「海賊!」


 瞳が輝く。生き生きとした光。


「ふ、船に乗せてもらうことは可能でしょうか……っ!」

「頼んでみよう」

「で、では……そうですね、少しだけ、もうちょっとだけ、生きてみても、いい、です」

「そっか。じゃあ、ちょっくら戻るか」


 俺は立ち上がる。手を差し出す。

 ルスティカーナはおずおずと、俺の手を取った。ぐいと引っ張るようにして立ち上がらせて、俺たちは階段を降りる。


 そこで困った。右も左も何もない。何も見えない。どこに向かうべきかも分からないが、歩くしかない。

 歩く。

 歩く。

 振り返ると、東屋はいつの間にか消えている。


 歩く。

 歩く。

 少しだけ焦りが出てくる。


 ふと、向かう先に黒い靄が生まれていることに気づく。それは渦を巻くように俺たちを囲み、だんだんと迫ってくる。


「……プロスペローさま、あれは」


 ルスティカーナの不安げな声に、俺は返事ができない。

 よくないものには違いがないはずだ。けれど、それから逃れるための場所はなかった。黒い靄はあっという間に俺たちを包み込み、視界は真っ黒に染まった。

 風が髪を煽る。遠くに雷鳴が聞こえる。


「手を離すなよ!」

「は、はいっ」


 風に掻き消されないように声を上げる。

 もうなにも見えない。強風に殴られ、足元さえおぼつかない。後ろにいるはずのルスティカーナの姿さえ見えない。握りしめた手だけが頼りだった。


 歩く。

 歩く。

 どこに向かっているのかも分からない。雷鳴が響いている。地が揺れる。世界は真っ暗になっている。


 俺は顔を上げる。猛烈な風に目を開けていられない。水滴が顔を打つ。横殴りの雨が降り出した。

 俺たちは嵐の中に囚われている。

 どれだけ歩いても逃げ出すことはできない。


 プロスペローが道標にしろと言った光が、どこかにあるはずだ。

 立ち止まり見回す。けれど、どこにも光はない。

 振り返りルスティカーナに呼びかける。自分の声が聞こえない。返事も聞こえない。手を強く握りしめる。微かに握り返す力がある。その手が薄く透けている。


 身体が、意識が、闇に飲み込まれていくような感覚。自分という存在が消えていくように、力が入らない。歩くことができない。膝をつく。


 暗闇。


 そこに、光。


「––––約束だからね、案内してあげるよ」


 声。

 赤い髪が見える。

 青白い腕。指が示すのは真上だ。

 闇世に浮かぶ北極星のように、嵐の中にただ一点、輝く光がある。身体に力が戻る。立ち上がり、地を蹴る。身体が浮かぶ。あそこが、扉だ。


「妹を頼むよ」


 右手はルスティカーナの手を握っている。左手は、空いている。

 消えかけた意識の中で、俺は左手を伸ばす。

 掴む。確かな感触。


 そして頭から光へ飛び込む。





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