第34話「プロスペロー」



 俺は花畑に立っていた。

 あたりは延々と緑の丘が続き、気まぐれに花が咲いている。けれど空は嵐のように曇り、そこに稲光が見える。渦を巻く暗雲が生き物のように蠢いている。

 晴れやかにのどかな丘と、陰鬱に荒れる空がちぐはぐに組み合わさっている光景は奇怪だった。


「……なんだ、ここ」

「冥府の狭間だ」


 期待していなかった返事があって、慌てて振り返った。黒いローブに身を包んだ男が、そこに立っていた。その立ち姿と雰囲気に見覚えがある。


「キャリバン?」

「久しぶりだなプロスペロー。こうしてまた会えて嬉しいよ。何十年ぶりだ? あるいはもう何百年が過ぎ去ったのか? 時の流れも忘れてしまった」


 含んだような笑い声。

 キャリバンは両手でフードを下ろした。顔が露わになる。髪に白いものが混じり、目尻に皺の浮かんだ初老の顔。その顔立ちに既視感が拭えない。

 これまでに何度となく鏡の中で見てきた顔の名残。


「……俺そっくりじゃん」

「世界は違えど、存在は同じだ。顔も似通うさ」

「でも俺のほうが若々しい」

「やがてお前もこうなる」


 苦笑する顔はどこか疲れ果てて見えた。その表情にも見覚えがある。

 記憶がにわかに蘇る。

 休みのない労働の日々。終電で帰り、始発で通勤する日々。虚ろな目。生気のない顔。


「本当に、プロスペローなのか? でもあんたキャリバン、だよな? さっき会った」

「お前の言うは、私にとってはずいぶんと昔のことになる。当時はその名で王城に潜りこんでいた。あのときに出会ったお前を、私の名を騙る狂人の類としか思えなかったが……今に至ってようやく、こうして繋がった。若き魂を持つ自分、そして風の妖精––––エアリアル、ご苦労だった。お前との再会も喜ばしい」


 キャリバン––––いや、プロスペローの呼びかけに、俺の背中からエアリアルが顔を見せた。


「……ええ、私もです」


 ほんの少しだけ、バツが悪そうな声。


「おや、やけにしおらしい。私の契約を破棄しようとしたんだろう? それは承知の上だ。気にするな」

「承知の上?」

「お前は妖精にしては人間味がありすぎる。きっとそうするだろうと分かっていた」


 プロスペローは苦笑する。


「では、それを断ってここに来ることも推測していた、と?」

「ああ。彼はそうするだろうと分かっていた」

「他人の心が読めるとでも?」

「いいや、他人の心など分からんさ。だが、彼は。だったら気づくと信頼していた。その上で事実を受け入れ、ここにやってくるだろうと」


 プロスペローは俺を見ていた。

 老けた自分の顔と見つめ合うというのは変な気分だ。だがその瞳はどこか労わるような光がある。だから、俺は俺の考えが正しいのだと確信できた。


「どういうことです。事実とは何ですか」


 エアリアルが俺の顔の真ん前に浮かび、問い詰めるように見ている。妖精なんていう不可思議な存在だが、こいつが優しいヤツだということはすっかり知っていた。


 最初はプロスペローとの契約で助けてくれたのだとしても、こいつがいてくれたおかげで俺はこの世界で生き抜いてこられた。楽しい旅、だったと思う。


 そして最後には契約を破ることで被る不利を承知の上で、俺を元の世界に帰そうとしてくれたのだ。俺を支えてくれた相棒に告げることは心苦しいが、嘘をつくわけにもいかない。


 だからせめて深刻にならないように、俺は声を明るく、まるで冗談を言うように口を開いた。


「俺はもう死んでるんだよ」

「……そんなはずが」


 エアリアルが振り返り、プロスペローを確かめる。彼はただ頷きを返した。


「私の魔法は完全ではない。生きた魂を呼び寄せる方法はなかった。だから待った。私の存在に重ねられる健全な魂が肉体を失うのを」

「まあ、薄々は思ってたんだよな、最初から。記憶もなんか曖昧だし、思い出すのは嫌な記憶ばっかだし。それに、どうせあっちに戻りたくもないからさ、あんま気にすんなよ」


 わっはっは、と笑ってみるが、エアリアルはちっとも笑わなかった。しんと鎮まる。気まずい。


「––––では、先ほどの、もったいないという言葉は」

「どうせ俺は死んでる。このまま元の世界に戻っても生き返れるとは限らない。それならこっちでルスティカーナを助けるほうが気分が良いだろ」


 と肩をすくめて見せる。

 エアリアルは眉間に皺を寄せて俺を睨みつけた。


「底なしのお人よしくそアホ野郎です……そして」


 と、プロスペローに振り返り。


「あなたは人でなしのバカ悪人ですっ」

「まあ、異世界といっても私の魂だしな」


 あっはっは、とプロスペロー。


「まあ、死んじゃったもんは仕方ないよな」


 あっはっは、と俺。

 ふたりで顔を見合わせて笑い合う。


「ここには頭空っぽしかいないんですか!?」


 エアリアルがくるくると浮遊して憤りをあらわし、俺の頭に着地して髪の毛を引き抜こうと全力を尽くす。


「痛い痛い! なにすんだよ!」

「言っても分からない愚か者には痛みで教えるだけです!」

「悪役のセリフだぞそれ! 抜ける抜ける!」

「仲良くなったようで何よりだなあ」


 とプロスペローの笑い声。


「のほほんとしてんじゃねえよ!」

「エアリアル、とりあえず離してやってくれ。時間もないしな」


 プロスペローが指を振ると、エアリアルがふわりと引き剥がされる。ううむ、さらっと使う魔法が洗練されてやがる。


「後で代償を払わせます……」と呟くエアリアルの声が恐ろしい。


 聞こえているに違いないが、プロスペローは気にも留めずに「さて」と仕切り直した。


「これからやってもらいたいことがある」

「ルスティカーナを助ける、だろ?」

「話が早くて助かる」


 俺たちは頷き合う。ある意味で、世界一話が合う者同士というわけだ。


「……死んだ者の過去は変えられないと分かったでしょう。どうするつもりですか」


 不満げながらもエアリアルが疑問を口にした。


「そうだ。過去は変えられない。何度も試した。だがだめだった」

「あんたがだめだって分かってるのに、なんで俺にも試させたんだよ。さっさとここに連れてくればよかったろ」

「自分で試さなきゃ信じない性格だろう?」


 む、と言葉に詰まった。たしかにそうだ。


「そして納得してほしかった。残された方法を選ぶしかなかったのだ、と……これは罪悪感、かもしれないな」

「共感してくれる相手が欲しかっただけだろ」

「さすが自分だ、よく分かっている。だったら、これからなにをするのかもわかるか」


 試すような声。それは面白がるようでもあり、企むようでもある。これが本物の悪い魔法使いの微笑みだ。


「ルスティカーナの死は変えられないと分かった。だったらそこは受け入れるしかない––––ルスティカーナは、死ぬ」


 俺が言う。


「そうだ」


 プロスペローが頷く。


「死ぬ前に助けようとすることが間違いだった。だったら、死んだあとに助けるしかない」

「その通り」

「死んだ魂は冥界に行くんだよな」

「ああ」

「だったら、冥界に乗り込んで、ルスティカーナの魂を取り戻す」

「そんなこと、できるわけが」


 とエアリアルが口にして、俺を見つめた。


「ここにいるだろ、生き返った人間が」


 俺は自分を指差した。


「……魂を取り戻す方法があるのなら、あなたが行けばよかったのではありませんか。別の世界の自分の魂を呼ぶなどせずとも」


 エアリアルの問いに、プロスペローは首を振った。


「冥界を行き来できるのは死者の魂だけだ。生者は冥界の門を通れない。死者は現世に戻る道が分からない。だから必要だったのだ。死者でもなく、生者でもない。冥界に踏み入り、魂を引導できる狭間の存在が。彼はたしかに死者となり、私の魔法の働きかけにより、冥界を通ってこの世界にやって来た。それをもう一度やってもらいたい」


 プロスペローが俺を見る。


「もうすぐ魂が肉体に定着するだろう。そうすればもう、冥界を行き来することはできない。そして、この場も長くは持たぬ。機会は一度だけだ」


 プロスペローが仰ぐように見上げた空を、俺も見る。嵐が先ほどよりも近づいてきている気がした。丘がゆっくりと狭くなっているのだ。雷雲に囲まれ、この地は呑み込まれつつある。


「どうなってんだ、ここは? あんたは死んでないのか」

「待っていたんだ。お前が来るのを。時の流れに追いつかれ、未来が現在となり、現在が過去へと移ろえば、運命を変えることはできない。世界の狭間で時の女神から身を隠してきたが、限界が近い」

「……そんなことできんの?」

「私は悪の魔法使い、プロスペローだぞ?」


 笑うような物言い。そう言われてしまえば、俺はこう言うしかない。


「さすがです、プロスペローさま」

「気色が悪いな」


 呆れた声。

 プロスペローは手を前に出しゆっくりと横に動かした。春の陽光のように暖かい光があふれ、それが花畑の中で形を作る。

 光が溶けると、そこにはルスティカーナが眠るように横たわっていた。安らかな顔をしている。だが生気というものが感じられず、とても目を開けるようには思えない。


「彼女の亡骸だ」

「……あの墓になかったのは、あんたのせいか」

「彷徨う魂には定着する器が必要だろう」

「あとは俺が冥界に行って、ルスティカーナの魂を引っ張ってくればいいんだな。それですべて解決か?」

「ああ、そうだ。いまなら冥界の門を通り抜けられるはずだ。番人たちは出払っている」

「んなこと、どうやったんだよ?」

「後で説明してやるさ。さあ、急げ。時の追い足はお前の思うよりも速いぞ」


 プロスペローが指を振る。正面に巨大な扉が姿を見せた。左右には円柱。両開きの豪勢な扉には美しい紋様が溢れるほどに刻まれ、その大きさも相まってもはや城門とでも呼ぶべき代物だ。


「この先は死者の世界だ。前もなく、後ろもない。上もなければ下もない。意志を強く持て。お前が彼女と紡いだ記憶の糸はまだ繋がっている。ルスティカーナを見つけ、光を標に帰ってこい。いいな」

「へいへい。お前は俺の保護者かっての」

「エアリアルは付いていけないぞ。お前はひとりで行くんだ」

「急に不安になってきた。俺にできるかな……」


 茶番じみた会話を交わしながら、俺は門の前に立つ。鍵穴がついている。そのための鍵を、俺はもう持っている。

 冥界の鍵を差し込み、回した。

 かちん、と軽い音。開ける前に振り返る。エアリアルが心配げに俺を見ている。


「んじゃ、ちょっくら行ってくるわ」


 振り返り、俺は少し迷って言葉を止めた。

 ––––あんたは、なんでそこまでしてルスティカーナを助けたいんだ?

 また後で聞けばいい。また後があるのかは、自分でも分かってはいなかったが。

 俺は助けると決めたし、助けたいと思っている。その理由を聞こうと聞くまいと、やることに変わりはない。だったら時間を節約すべきだ。


 門に身体を押し付けるようにして開く。悪態を叫びたいほど重い。肩を擦りながらようやく入れるほどの隙間ができて、その向こうには一切の光がない暗闇だけが広がっている。

 こえぇ……。

 びびっている場合ではない。背後で雷鳴が響く。嵐が近づいている。俺は目を瞑り、底なしの暗闇に飛び込んだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る