第32話「閉ざされた庭園に入るもの」



 扉を抜けて感じたのは柔らかな陽気だった。薄めた青空には白い雲が折り重なるように列になっている。


 物置小屋の扉からの景色はもう見慣れたものだ。

 豊かに茂りながらも手入れの行き届いた植え込みを見ながら道を進む。やがて視界は開け、白亜の東屋が見えてくる。


 周囲は色鮮やかな花の園。ルスティカーナが安らぎの庭園プチトリアノンと呼んでいたように、ここは楽園のように朗らかだ。


 ふと、東屋から鳥が羽ばたいた。庭園の上空をぐるりとまわり、さっと急降下したかと思うと、俺のすぐ脇に風を引いて東屋に戻って行った。


 東屋の階段に腰をかけた真白い少女の姿が見える。初めて出会った時はパーティーの主賓のように豪奢な姿だったが、今はそれよりも控え目なドレスを着ている。

 それでも俺のような平凡な人間からすれば生活しやすいとは思えないほどに華やかで、長いトレーンは階段を半ば覆い隠している。


 ルスティカーナの周囲には鳥が集まっていた。腕を伸ばした手のひらには鳥の餌があって、小鳥たちが気まぐれにつついている。それを髪も肌も雪のように透き通った儚げな少女が微笑みとともに眺めている光景は、現実離れして見えた。


 俺が近づいていくと、まずルスティカーナが顔を上げた。次いで、鳥たちが示し合わせたように一斉に飛び立った。


「悪い、邪魔した」

「お気になさらず。またお会いできましたね」


 柔らかな微笑み。ここがいつの過去なのかは分からないが、ルスティカーナはまだ生きている。


「今日はなにか御用ですか? それとも、旅の途中にお立ち寄りくださったとか」

「そうだな、途中で立ち寄った感じ、かな」


 ルスティカーナの隣の階段に腰をおろす。ここからなら庭園に咲いた花が一望できる。

 俺は左手の中をたしかめた。ずっと握りしめていたはずの花びらはいつの間にかなくなっていた。


 俺たちは並んで座って、しばらく会話も交わさないでいた。俺は周囲の景色をゆっくりと確かめた。

 なにか手がかりになるような物、あるいは異変があるんじゃないかと思った。しかし庭園はまったく長閑と言うほかなく、暖かな陽の光は眠気を誘うほどだった。


「なにか目ぼしいものがありますか?」


 ルスティカーナが目を細めて俺を見ている。


「あちこちへ好きに渡ることのできる方には退屈な眺めでしょう?」

「いや、とんでもない」俺は眠気を振り払って首を左右に振った。「良いところだと思う。平和で」

「祭日も繰り返せば平日となる。平和が繰り返される場所では、それを平和とは感じ取れなくなるものです」

「……ここが嫌いなのか?」


 訊くと、ルスティカーナは周囲をきょろきょろと見回し、身体を小さく屈ませるようにして身を寄せてきた。

 細い肩が触れる。声をひそやかに、それでいてどこか楽しげな表情で俺を見上げる。


「内緒にしていただけますか」

「約束する」

「とっ––––」


 ぎゅ、っと閉じられた目。空白。そして。


「––––っても、嫌いですっ」


 そして「ふあー!」と緊張から解放されたように息を吐いたかと思うと、ルスティカーナはくすくすと笑った。


「ごめんなさい、こんなこと、誰にも言えなくて。でも聞いていただけて、すごくすっきりしました」

「……思ったよりもお転婆なんだな」

「あら、予想と違いましたか?」

「いや、海賊の話が好きって聞いたときからそんな気はしてた」

「……それはいいじゃないですか。もう」


 赤く染まった頬を膨らませて、ルスティカーナはそっぽを向いた。

 良い子だ、と思う。どうしてだろう。親しい友人とは呼べないはずだ。交わした言葉も多くはない。道端ですれ違うように出会っただけの相手でしかなくて、寝て過ごしてひと月もすれば、お互いに忘れてしまうに違いない程度の縁でしかない。


 けれど、彼女は遠からずに死んでしまう。その事実を知っている。そして今なら、俺だけが、それをなんとかできるかもしれない。


 このまま放っておくとスッキリしないから?

 誰かを助けるようなヒーローになりたいから?

 それが役目だから?

 どれもが正しいようでいて、どれもが違うような気がしている。


「プロスペローさま?」


 呼びかけられ、俺はぼうっとルスティカーナを見ていたことに気づいた。


「どうしてここが嫌なんだ? 良い場所に見えるけどな」

「そう、ですね。そうなんでしょうね。わがままなのだと思います」


 とルスティカーナは花壇に目をやった。


「家も着るものも食べるものもない生活を送る方々がいる。必死に働いてわずかな賃金しか得られぬ人、戦争によって亡くなる人……そんな現実から切り離されたここは、安らぎの庭園と呼ぶのに相応しいのでしょう」

「でも?」

「はい、でも––––わたしの役目は、生まれた意味は、ここで花よ蝶よと飾られることなのでしょうか」


 赤い羽根をした鳥が一羽、ルスティカーナの足元に降りてきた。


「母が病に亡くなってから、父はずいぶんと過保護になりました。わたしの世界は屋敷とこの庭園だけです。王族である務めを果たす機会もなく、訪れるのは見知った人と鳥だけ。わたし、することがないんです。なにも。必要とされていないんです。誰にも。だったら、生きることにどんな意味があるでしょう?」

「……きみが大切なんだろうな、お父さんは」


 返事に困った。出てきたのはありきたりすぎる言葉だった。ルスティカーナはやけに大人びた笑みを浮かべ、そっと首を振った。


「憎いのだと思います。わたしが母に似てきたせいで」

「愛おしいんじゃなくて?」

「父にとっては同じことなのです。母をすごく愛していたと思います。その形がどうであれ……父は母を手に入れるために、ひとつの小さな国に攻め入ったそうです。本の中のお話みたいですよね」


 ルスティカーナはくすりと笑った。


「この国では父を讃える英雄譚として語られていますが、母にとってはそうではなかった。母はわたしを産んだせいで身体を壊し、そのまま床に伏せるようになり、亡くなりました」

「……」

「父にとって、わたしは母の代わりなのです。ここに花が絶えず咲くように、わたしの役目は飾り立てられて母の姿をしてここにいるだけ、です」


 ふふ、とルスティカーナは笑う。それがやけに明るく、屈託のない笑みで、俺は戸惑ってしまう。


「ごめんなさい、こんなお話を聞かされても困りますよね。こんな話を打ち明けられる人、他にいなくて」


 俺は首を振った。

 あの王様は娘をここに閉じ込めていたのか。大切に思うが故に、あるいは執着するが故に。けれど最後には、ルスティカーナを殺めることになる。何がきっかけだったのだろう。


 意識も混濁した王様が、にわかに明晰な声音で告げたのは、ルスティカーナが魔族に魅入られたから、という理由だった。

 トスカと手紙をやり取りしたから。それだけでここまで大切にしていた自分の娘を殺そうとするだろうか。


 ふと頭の中に光る糸が見えた。俺はじっと息を詰めて手を伸ばし、その糸を手繰り寄せる。明晰な声だった。あまりにはっきりとして、威厳のある声。それはまるで何度も繰り返し、他人に告げてきた言い訳のようじゃなかったか。


 たしかに王様の意識はもはや混濁し、自分がどこにいるのかも分かってはいないようだった。けれど、嘘をついていたとは限らないんじゃないか。


「なあ、キャリバンって知ってるか?」


 ルスティカーナに訊ねる。王様はその名を繰り返した。自分のもっとも大切なものを奪った、と。


「キャリバンさまですか? 宮廷魔法使いとして務めてらっしゃいます。この庭園にも不審者の侵入を禁ずる魔法をかけているとか。そういえば、プロスペローさまは自由に出入りされてらっしゃいますね?」


 あれ、とルスティカーナは首を傾げた。


「それは、ええと、秘密だ」


「まあ」と微笑んで。「キャリバンさまはいつも深くローブを被ってらっしゃって、お顔を見たことはないんです。あまりお話をすることもありませんし……それでも時折、こちらにおいでになって、珍しい御本や贈り物をしてくださるんですよ。異国の茶葉やお菓子、それにきれいな貝殻とか」


 楽しげに笑う顔には、キャリバンへの隔意はなさそうだ。

 ルスティカーナはふと表情を改めると、眉尻を下げた。


「申し訳ありません、こんな些細なことを。あまりお役に立てませんね」

「いや、いいんだ。助かった」


 宮廷魔法使いなんて俺よりも悪役で黒幕に相応しそうだ、なんて思ったのだが。どうも想像よりも朗らかそうな人物らしい、と思ったときである。


 風が吹いた。


 木々の枝が揺れ、花びらが舞い上がる。思わず腕で顔を庇う。


 過ぎ去ってすぐ、花壇の中に影が立っていることに気づく。

 いつの間に、そしてどうやって現れたのかも分からぬ間だった。紺碧のローブに身を包み、深く被ったフードのせいで顔は見えない。


「––––どうやってここに入った?」


 どこか感心したように、訊ねながらも余裕に満ちた声音。その男こそがキャリバンだった。



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