第31話「冥界の鈴音」
振り返らずに消えた背中を見送る。扉は自ずと閉まり、静かな夜が訪れた。
トスカは手を伸ばし扉を開けてみる。中は古ぼけた廃小屋でしかなく、どこにも繋がってはいない。
過去に飛んだ魔法使いはルスティを助けられるだろうか。その方法はあるのか、そしてあの男は間に合うのか。
トスカは目を閉じ、懐かしい思い出を振り返る。
孤独だった日々の中で、遠い場所から届く手紙だけが世界への希望だった。この世界には苦しみも喜びも分かち合える人間がいる。魔族も人間も関係なく、ただの個として手を取り合える。彼女の存在はこの世界を信じることのできる希望だった。
笛の音が近づいてくる。
蹄の音が混じる。
カラカラと回転する車輪の音は、葬列の先頭を走る馬車のものだ。
トスカは目を開く。振り返る。
いつの間にか周囲には霧が立ち込めていた。暗雲が月を覆い、周囲には凍えるような夜が落ちている。
視界の先で急激に木々が枯れる。草が褐色に腐り落ち、霧を分けるようにして姿を現したのは、死霊馬が牽く巨大な馬車だった。白骨を骸衣で包んだ御者が綱を操り、馬車は重たげに停まった。
笛が鳴り続けている。
青白い灯りを揺らしながら、冥界の死霊兵たちがトスカを囲う。
りぃん、と鼓膜を突き抜けるほどに美しい鈴音が響いた。馬車の上で御者が鈴を振っている。
馬車の中から声が響く。いくつもの残響が重なり、地下に長く掘られた底しれぬ穴から湧き上がるような重たげな響き。
「––––吾の鍵はいづこなり」
声を聞いただけで、トスカは寒気を抑えられなかった。それでも胸を張り、顎を挙げ、魔王の娘としての矜持をもって堂々たる振る舞いで、肩に落ちる髪を悠然と振り払った。
「あんたがどっかに落としたんじゃないの?」
「これまではいづことも知れず。されどお前が幾度と扉を開きしは分かりたり。現世にあってはならざるもの。吾の鍵はいづこなり」
「答えは変わらないわ。知らないんだもの」
「鍵だにあらばよし。されど隠し立てするならば代償をもらはむ」
感情のない平坦な声音は、言葉というよりも風鳴りや雷鳴に等しい。人も魔族も自然とは張り合えぬように、そこにいる存在とは文字通りに住む世界が違う。
トスカは視線を巡らせる。
周囲を囲う兵士に一切の生気はないというのに、殺気ばかりは生々しい。
血に飢えた魔族といえど、冥界の住人とは事を荒立てない。神世とも呼ばれる冥界を支配する者たちは、種としての力が隔絶している。
だが、ここは冥界ではない。影絵のような写し身を並べる相手に脅され、戦いもせずに媚びるようでは、この世界の統一などできるわけもない。
「誰にも果たすべき役目がある––––柄じゃないんだけど」
ルスティを助けるためには、冥界の鍵がいる。
トスカにはプロスペローの思考は分からない。
なぜ冥界の鍵を盗み出したのか?
そしてなぜ塔に封印していたのか?
今になって手紙を送ってきたのか?
だが、これが自分の役目なのだと受け入れる覚悟はできてもいた。
プロスペローの封印によって、鍵の在処は冥界の番人にも知られずにいた。その封印を解いた以上は、番人に嗅ぎつけられるのは時間の問題だ。
トスカが冥界の鍵を使ったことで、番人は鍵を取り返すために現世へと渡ってきた。おそらく今、冥界の扉は手薄になっている。
「わたしを囮にするなんて良い度胸してるじゃない」
思わず笑みがこぼれる。
本当ならば自分で助けたかった。けれどいくら鍵を回したところで、何もできなかった。だから囮として冥界の番人を惹きつけ時間を稼ぐ––––それこそが、自分の役目だろう。
まったくパッとしない男だったな、と思う。
まるで何も知らないただの人間だった。あれが本当にプロスペローなのかも怪しいが、状況はたしかに変化している。
なにをするつもりなのかは知らないが、それがルスティを助けるためだと、信じたい自分がいる。人間を、それも魔法使いを信じるだなんて、馬鹿らしい、と鼻で笑いながら。
トスカは懐から青と白の編み紐を取り出した。かつてルスティカーナが贈ってくれたものだ。それを使って髪をひとつ結びにすれば、覚悟はもう決まっている。
「ついでに冥界も征服してやろうかしらね」
笑う。
鈴が鳴る。
死霊兵たちがトスカに殺到した。
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