第25話「無自覚の渦中」


 俺は急いで立ち上がって身構えた。逃げられる前に飛びかかってでも捕まえるつもりだ。

 しかし少女は堂々とした佇まいでそこにいる。左手は腰に当て、右手はイヤリングをいじり、さも退屈そうな様子だ。


 月明かりに照らされているのは、ルスティカーナに勝るとも劣らない容貌。彫刻が動き出したかのような隙のないバランスは、どうしてか見ていると息が詰まるような緊張を感じた。


 夜の空よりも尚黒い長髪を肩にはらいあげて、少女はおとがいをわずかに上げた。

 身長は俺よりも小さいのに、そうされるとまるで見下されているような感覚になる。


「あんたもやっぱりルスティカーナを助けられないの?」

「……なんでお前がルスティカーナを知ってるんだよ」

「重要なのはあの子を助けられるかどうかよ。あんたの鍵じゃ無理だった。だからこれは返してあげてもいいわ」


 少女は虚空を握りしめてから拳を開いた。そこに古びた大ぶりの鍵がある。

 一度しか見た覚えはないが、それこそが”冥界の鍵”だった。


「返してあげてもいいってな、そもそもお前のものじゃねえだろ」

「あら、今はあたしが持ってるわ。それに正当な所有権者に返すべきだというなら、この鍵の持ち主である”冥府の番人”に返却すべきでしょ。あたしから返しておきましょうか」

「いや! それはちょっと」


 うぬぬ、口の回るヤツである。

 エアリアルから聞いた話では、あの鍵はプロスペローが冥府の番人とかいうやつからくすねた物だったはずだ。つまりそもそもが盗品だ。それをさらに盗まれたからといって、俺のものだから返せというのは正当じゃない。


 しかしあの鍵がなければ俺は元の世界に戻れない。正当じゃないのは分かっていながらも、返してもらう必要がある。


「……よし、分かった。取引だ。要求を聞こう」

「安心しなさい、あんたとあたしの目的は一緒。ルスティカーナの命を救うために過去を捻じ曲げたいのよ」


 少女は鍵の頭部にある輪に人差し指を入れ、鍵をくるくると回す。


「冥府の道はすべてに通ず。この鍵があれば、過去にも戻れる。だからちょっと借りたの。あんたもそうでしょう? 目的があった。だから冥府の番人から借りた。あたしも同じ」


 少女は鍵を握りしめる。すると鍵はどこかに消えてしまう。


「でも道は繋がっても、そこに干渉できるかは別のことだった。何をしても過去は変えられない。冥府に魂を奪われた人間は戻らない。そうじゃない?」


 核心。まさにその通りだ。


「ラプラスっていう運命とか天球が大好きな変わり者がいるんだけど、そいつが言うには、定まった運命は改変できないって。この世界には見えない球が満ちていて、ひとつの事象を避けようと行動しても、その行動によって別の球が複雑に跳ね返ってまた他のボールを弾き、結局は同じ球を動かしてしまう。結果は同じ」

「……そういう話は聞いたことがあるな」

「へえ? さすが魔法使いね。神秘の探究者ってわけ」


 神秘とやらは知らないが、SFの理論は常識なのが日本のオタクだ。

 例えば、過去に戻って自分の祖父を殺したとしたら、今の自分は存在しない。よって祖父は殺せない。しかし祖父が生きているなら自分は存在するから、過去に戻って祖父を殺せるはず。でも祖父を殺したら自分は存在しないから以下繰り返し。それがパラドックスだったはず。


「……別に自分の親を殺そうっていうんじゃあるまいし。命を助けるくらい、できると思ったんだけどな」

「あら、世界をなんとも思っていないようなお言葉に惚れ惚れするわね。ねえ、あなたって本当にプロスペロー? プロスペロー?」

「どのプロスペローだよ。お前も名前を言えっての」


 間違いなく、少女の言うあのプロスペローと俺は別の存在だ。俺であって俺ではないというややこしい関係性だが、それをいちいち説明するのも面倒だ。


「うわ、名前を訊かれるなんて初めて。そっか、あたしのこと知ってるわけないもんね。あたしはトスカ。本当はもっと長いけど、人間の名前って短いわよね? トスカでいいわ」

「で、そのトスカさんはどこのどなたなんだ? あれか、偉い貴族の娘とかか」


 口ぶりや態度からして偉そうだ。だが俺はもうこの国の王女さまふたりと出会っている。そこらへんの権力者の娘くらいじゃ驚きもしないぜ、と腕を組んで余裕をぶっこいていると。


「貴族っていうか、人間社会でいう王族? なのかしら。一応、魔王の娘なんだけど」

「はい?」


 思わず少女を上から下まで眺める。人間と変わりない姿に見える。山羊角の陰気イケメンや、好戦獣耳二人組のような、わかりやすい特徴もない。ただ、アホみたいに美しいだけだ。


「ああ、安心して。直系だから次期王位の正当な継承権はあるわ」

「それのどこに安心する要素があるんだよ」

「? そのほうが偉いでしょ?」


 偉いと安心すべきなのか?

 トスカは首を傾げ、向かい合う俺も首を傾げる。たぶん、お互いに常識がズレているせいで何も噛み合っていない。


 魔王の娘……まあ、魔族がいるのだ。魔王だっているだろう。人間の国にだって王様はいる。国を統治する手法として王政があり、そのトップが王様という役職だというだけで、別に人間離れした超人というわけじゃない。


「あれ? でも今って魔王がいないから内乱状態なんじゃなかったっけ?」

「ええ、そうよ。魔王は死んで空席。虎視眈々と狙ってた魔族たちが我こそはと名乗りをあげて殴り合いの真っ最中ってわけ。そこを狙って、この国の馬鹿王子が戦争を吹っかけようとしてるのよ」


 トスカは地面を爪先でこづいた。男まさりの品のない仕草だが、見目麗しい少女がやると格好がいい。


「ていうか、あんたもあんたよ、プロスペロー。黒山羊から和平の使者が何回も行ってるのに無視してるでしょ? あんな国境際にどっちつかずのあんたが居座ってたらクソ迷惑なのよ。敵でも味方でもいいからはっきりしなさいよ。気宇壮大って風でもないし、単なる不能の玉無しなわけ?」

「その見た目で下賤な言葉を使いこなしてんじゃねえよ!」


 怒鳴り返すが、トスカはちっとも気にした風でもなく腕を組み、イヤリングをいじっている。

 というか、そうか、あの手紙って和平の打診だったのか。中身を読んでおけばよかった。

 知る余裕もなく、気を配る知識もなかったせいで全く気づかなかったが、あの塔は天秤を左右する重要な駒のひとつになっていたらしい。


 魔族は内乱で忙しなく、人間側はその隙に攻め込もうと企てている。そこで邪魔なのは、互いの領土の境界線である雪山を抑えている魔法使いプロスペロー。

 エアリアルの話では、数十年以上も引きこもってるような変わり者だったはずだ。魔族のひとつをぶちのめして塔を乗っ取るくらい強力な魔法使いだが、人間側の味方というには振る舞いが奇行にすぎる。

 本当に味方として信用していいのか、それを確かめるために、アロンゾ殿下とやらは招聘状を送りつけてきたのかもしれん。問題は、味方に相応しくないと向こうが判断したときにどうなっていたかだろう。


「……うっわ、こわ。え、権謀術数ってやつか? あのまま城に行ってたらやばかったかもしれん」

「なに? 人間側からも呼び出しでもされてた? そりゃ味方になるように要求して、断るならそこで殺すでしょ、普通。半端に力があるくせにどっちに傾くか分からないようなやつ、いない方がマシだもの」

「気軽に怖いこと言うんじゃねえよ」


 こっちは真剣に震えているのに、トスカはきょとんとしている。

 単純な暴力よりも、顔も見えない誰かの策略のほうが恐ろしいのだと、初めて知った。

 暴力には魔法で対抗できるが、策略には形がない。相手は国という巨大な化け物で、それはどんなに魔法を叩きつけても決して壊れない。国と国が争う中で、個人の存在など吹けば飛ぶようなものだ。


「……魔族か人間か選べってことかよ」

「まあ、普通はね。でもそのどっちもが嫌なら、あたしに付くって道もあるわよ」


 トスカがにやりと笑っている。道に迷い暗闇に溺れ、救いを求める子羊の前に降り立った悪魔が笑っている。わかっているのに、その魅力的な笑みに俺は目を惹かれた。






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