第20話「その墓の前」



 扉を抜けた勢いで転けかけたが、たたらを踏んでなんとか堪えた。グラウの遺体を抱えている状態でそんな醜態は晒せない。


 俺は背後を振り返った。

 真っ白な霧に塗りつぶされたような出入り口を、扉がゆっくりと閉じていく。ぱたん、と気の抜けた音を最後に、あたりには静けさが満ちた。


 暗い夜だった。月は遠くの山のすぐ上で雲の陰に隠れている。それが夜になったばかりなのか、朝に傾きかけているのかは知れなかった。

 俺は周囲を見渡した。


 この世から子どもがいなくなって荒れ果ててしまった公園のように見えた。ろくな灯りもないせいで周囲はよく見えないが、昔は整っていただろう植栽が背並びも不恰好に伸び放題になっている。


「……どこだここ?」


 意識すればどこにでも繋がる便利な扉の魔法だが、無意識に飛び込んだときには自分でもさっぱり分からないのが不便なところだ。


「まあいいや、もう一回、扉を抜けよう。今度はグラウの妹さんの墓のとこに行けると思う」


 隣に立つグラウに顔を向ける。彼女は呆けたように立っていた。歩き出してしまう。


「なあ、もしもし?」


 声をかけても返事はない。俺はグラウの遺体を抱え直し、先を行くグラウの透けた背中を追うしかない。


「エアリアルいるか? さっきは、あー、ありがとな。助かった」


 小さな相棒は気分屋で恥ずかしがり屋なのか、気づくといつも姿を隠してしまっている。

 それでもそばにいるのはわかっているので、お礼を言ってみると、後ろ髪がくいっと引っ張られて、返事が返ってきた。


 グラウは周囲に視線を配りながら、足を止めることなく進んでいく。

 それは見知った場所を歩く人間の迷いのない足取りだ。同時に、自分の記憶と現実をすり合わせ、ときにそこに感傷を見る人間の空気を背負っていた。


 伸び放題の生垣が作る不恰好な通路を過ぎる。暗闇の中に薄ぼんやりと白い影が浮かんで見えた。それは家の屋根に思えたが、近づくと、柱と半円型の屋根で作られた東屋だとわかった。ふとその形に見覚えがある気がした。


 グラウは東屋に向かって歩いていく。俺はその後ろに続く。

 東屋を囲うように、花壇の跡が残っている。だが花はひとつも残ってはおらず、黒土と風雨の汚れが石畳までを汚している。


 東屋に上がる階段の前で、グラウは立ち止まった。

 元は純白だったはずの白亜の建物は、ろくな手入れもされていないのか黒ずみ、柱には蔦が巻き付いていた。東屋の中には丸テーブルが横倒れている。ずいぶんと長い間、ここを使う主がいないのがわかる。


「––––ここは、妹の特別な場所だった」


 グラウがぽつりと言った。


「妹は本当に優しい子でね。人の気持ちを見抜く不思議な力があった。誰からも愛されて、誰からも頼りにされて、あの子と一緒にいるだけで世界が輝くような……神さまの寵愛を受けて生まれてきた、ってのは、ああいうことを言うんだろうね」


 俺はグラウの隣に並んで、一緒に東屋を見上げた。


「あの子はここでひとりになってた。そういう時間が必要だったんだろう。優れた人間の辛さや孤独は、あたしらみたいな凡人じゃわかってやれない。話を聞こうったって、頼られるような度量がなきゃ、頼ってはもらえない。誰もあの子を助けてはやれなかった」

「……なんで死んだんだ?」

「よく言うだろ、愛しい子は神さまから隠さなきゃならない、って。気に入られたらそばに呼ばれてしまう。でもどうかな、誰もあの子を助けてやれなかったせいだろうね」


 グラウは自嘲するための気の抜けた笑みを浮かべ、俺を見上げ、


「殺されたのさ」


 と言った。



 *



「殺されたって、誰に?」

「さあ。大騒ぎで犯人探しをしてたけど、見つかったのかどうかは分からずじまいだよ。あたしは教えてもらえなかった。すぐに、まあ、いろいろとあったからね。結局、あの子は事故で死んだって公表されただけ」

「んな適当な」

「あんたも分かるだろ? 大人の世界ってのは、誰かの企みと都合でいくらでも形が変わる。あの子はその犠牲になったってことさ……ま、それはあたしもか。逃げたけど、こうして殺されちゃったしな」


 ふーっ、と息を吐いて、グラウは首を左右に振った。


「まあ、いいよ、もう。死んだらおしまい。誰にもどうにもできない。あの子と同じ場所に眠れるなら、それ以上はなにも望まない」

「……ここに妹さんの墓があるのか?」

「内密だけどね。表向きの墓はあるけど、そこには埋葬されてないんだ。本当の墓はここだよ。知ってる人は、もう少ないだろうけど」

「なあ、もしかしてだけど、妹さんの名前って」


 まさか、そんなことはないだろう、と半ば願うような気持ちで口を開いたとき、背後で鋭い声があった。


「––––何者ですか」


 あの魔族たちが追いついてきたのかと思った。悲鳴も出なかったくらいに驚いて振り返ると、俺たちが来た道の途中に、小柄な老女が立っていた。腰元に結えた短剣の柄を握りしめて俺を見据えている。


「あ、怪しいものじゃない」

「ここが王家の管理する土地だと知っての侵入ですか」

「……王家?」


 え、まじ? やばいとこに不法侵入してんじゃねえか。

 老女は視線も鋭いままに、


「ここにはあなたのような狼藉者の欲を満たす物は何ひとつありません。けがれなく尊くあらねばならない場所です。疾く去りなさい」

「ああ、はい、ぜひそうしたいんですけども」


 老女の厳しい声音に今すぐに逃げたくなった。暴力で襲いかかってくる魔族のほうが、まだ気が楽だ。こういう生真面目な老人に叱られることにトラウマがあるのか、失った記憶が反応しているに違いない。背筋がそわそわする。


「あなた、何を抱えているのです? それは、まさか……」


 おまけに勘まで鋭いらしい。

 言い訳したいのだが、さすがに限界というものがある。

 人間の身体というのは傍目に見ても特徴的な形だ。白い布に包もうが、見りゃ分かる。

 深夜の廃墟のような公園で、死体を抱えた黒づくめの不審者。それが俺だ。俺だって出くわしたら大騒ぎする。間違いない。


 老女は二、三歩を後ずさって、懐を探った。取り出したのは銀の細長い棒だった。それを唇に当てる。


「これは警笛です。吹けばすぐに衛兵が駆けつけるでしょう。今なら見逃して差し上げます。消えなさい。すぐに」


 せっかくここまでたどり着いたのに、それは勘弁してほしい。

 だが、言い逃れもできない。困りきった俺の横で、急にグラウが笑った。


「変わってないね、本当に真面目で頑固。それに嘘が下手で……情が厚い」


 どういう意味だよ、と話しかけたいのだが、グラウが亡霊であり、その姿が目の前の老女に見えていないのは明らかだった。

 これ以上不審な行動を重ねるわけにもいかず、俺はグラウの方を見やることさえ我慢した。


「ねえ、プロスペロー、こう言ってくんない? その笛の先はまだ潰れたままか、って。信じて」

「……その笛の先は、まだ潰れたままか?」

「––––!?」


 グラウの言葉通りに言うと、老女は目を丸くした。


「子犬の躾のためにって、あなたがくれた犬笛を、あたしたちが夜に吹きまくるもんだから、見回りの猟犬まで騒ぎ出しちゃって、それはこっぴどく叱られたのよね。それで笛の先を潰されて……でも、あたしたちはそれを大事にしてた。あの子が死んで、なくしたと思ったけど、あなたが持ってくれてたんだね」


 話の繋がりは見えない。だが俺はグラウの言葉をそのまま伝える。


「その笛はもともとあんたが贈ったものだろ。だが夜に吹きまくるもんだから、大騒ぎになった。だからあんたは笛の先を潰した。それをいまも大切にしてる」


 老女は顔を引きつらせながら二歩、三歩と後ろに下がる。


「––––あなた、何者です。どうして知っているのです。ありえない」


 グラウが歩いていく。老女の目の前に立つ。けれど老女の視線は彼女を通り過ぎている。グラウは老女の頬に手のひらを添えた。


「ああ、ハリエット。まだ生きてた」

「あんた、ハリエットっていうのか」


 思わず呟いた。ハリエット。その名前を、俺は知っている。

 俺は振り返る。白い東屋。花壇と植栽。夜だから、荒れているから、理由はいくらでもあり、記憶に重ねることも容易くはない。

 だが、この場所に、俺は来たことがあった。


 スカート––––いや、トレーン。彼女はそう言った。兵士に追われていた俺を、トレーンの下に匿ってくれた。彼女が、ハリエットと、その名を呼んでいた。

 俺は東屋を眺めるしかない。清々しく晴れた青い空の下で、色鮮やかな花々に囲まれていた場所。それは見る影もない。


「––––ルスティカーナが、死んだ? ここはルスティカーナの墓なのか?」


 思わず呟いた俺の声に、ハリエットとグラウが同時に振り返った。




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