第18話「魔法使いの喧嘩の仕方」


 暗い廊下から、男が戻ってくる。天窓から斜線を引いたように月の光が落ちている。やがて月明かりの中に男の全身が現れた。


 平凡な顔だ。

 ジェイムは場違いなことを考えた。


 ニンゲンの街を歩けばいくらでもいる。だが、ルーセッタに殴られて平然と歩くニンゲンは、そうはいない。

 プロスペローと名乗る男は、気負いもなく立っている。口に咥えた煙草を吸い、煙を吐く。


 あまりに隙だらけだった。

 どこからでも殴り飛ばすことができるほどの無防備。まるで素人だ。

 だからこそ、ジェイムは警戒した。


 なぜルーセッタに殴られて生きているのか。

 不可解さは不気味さにつながり、本能よりも理性を重視するジェイムは判断に迷った。


 このまま戦っていいのか?

 そのとき、男が動いた。再び煙草を咥え、ローブの前面を手で払うようにして叩いた。


「子犬がじゃれついてきたのかと思ったぜ」


 まずい、とジェイムはルーセッタに手を伸ばす。

 侮辱。明らかな挑発は罠としか思えない。だがジェイムが捕まえるよりも早く、ルーセッタは疾走していた。

 


  φ



 戦い方、というものがある。

 殴る蹴るってのは子どもの喧嘩だ。大人の喧嘩の仕方は、もうちょっと複雑なのだ。


 睨みつける二人の魔族に見せつけるように、俺はふたたび煙草を咥え、ローブの前面についた埃をはたいた。そして首を傾げる。


「子犬がじゃれついてきたのかと思ったぜ」


 殺気が目にみえるものだったら、俺の全身に突き刺さっているに違いない。

 犬耳の生えた青髪の少女が脚を動かした。ゴスロリのドレスがふわりと動いて––––。


「––––うおっ」


 突然、目の前に少女が移動していた。だが、拳を振り抜く途中、俺の身体に触れる寸前でぴたりと動きは止まっている。

 見逃さぬようにと構えたのに、俺にはやっぱり見えなかった。


 だが、俺には優秀な相棒がいる。姿は消していても、隣にいるのだと信頼している。

 妖精エアリアルの魔法によって風は密度を増し、布のように練り上げられて少女の身体を拘束していた。月明かりに風の布が輝いて見えている。


「っ!?」


 少女は困惑を浮かべながら必死に暴れもがくが、その動きに合わせて布はきりきりと身体を締め上げる。


 俺は身動きのできない少女の額に手を当てる。

 圧倒的に俺より強い魔族という存在であり、遠慮なく殴ってきたのはそっちだ、遠慮する必要はない、よし、やり返そう––––と思ったが。


 驚愕に目を丸くしているその表情の幼気さを間近で見てしまった。

 俺はそのまま片膝をつく。少女からずらした手は地面に。


 エアリアルのように自在に風を操ることはできない。だが、出力だけは操作できる。


 想像するのは自転車の空気入れだ。

 押さえつけられた空気が圧縮されるほど、元の体積に戻ろうとする力は強くなる……そこに出口をひとつ用意すれば、圧縮された空気は一気に吐出される。


 ぐっと手に力を入れた瞬間、パァン、と響き渡る破裂音。手のひらと床の間で巨大な風船が破裂したかのような暴風が跳ね上がる。


 少女のゴスロリのスカートが捲れ上がった。

 タイツに包まれた脚に、やけにフリルの重なった短いスカート、さらにその下に真白いハーフズボンが……あれ、これって、ただのスカートめくりじゃね?


 愕然とした瞬間、少女のつま先が浮いた。暴風に掬い上げられるようにして、少女はスカートを盛大に捲りながら、縦に半回転しつつ宙を吹っ飛んだ。

 


  φ


 

 ルーセッタが地面にぶつかる寸前に、ジェイムは駆け込んでその身体を受け止めた。

 驚愕。

 それはルーセッタが容易く返り討ちにあったことよりも、目の前にいるのが本物の魔法使いだと分かったからだ。


 軟弱なニンゲンという種族の中で、もっとも恐るべきは魔法使いという存在だ。

 かつて神々の野にて原初の火を盗んだニンゲンだけが手にしたという神秘の一端。魔法という奇跡ばかりは魔族ですら及ばない。


 ジェイムは腕の中のルーセッタを確かめる。

 生きている。


 あの一瞬、一度は男がルーセッタの額に手を当てたのを、ジェイムは見ている。あのまま顔に向けて放たれていればルーセッタとて無傷では済まなかっただろう。


 ルーセッタは、抱えるジェイムの腕を振りほどきながら立ち上がる。

 華やかに細部まで整えられていたドレスの装飾に髪にと乱れ、身体は無傷ながらも負わされた恥がある。


 ルーセッタは苛立たしげに脚を踏み鳴らし、その原因となったプロスペローに牙を剥いて威嚇した。

 普段は何事にも興味もなさげに澄ましたルーセッタが、これほど感情を露わにするのは珍しいことだった。


 誇りがある。

 全力で殴り返されたのであれば良かったろう。


 だが明らかに、手を抜かれた。

 戦いの中で傷すらなく追い返されることは、ケイニス・ルプス族にとって至上の恥辱である。爪も牙も使う必要すらなく、お前は力不足だと告げられることである。


 そこまで圧倒的な差があるのか?

 視界の先で、男はゆっくりと立ち上がる。緩慢な動作に乱れた重心は、戦闘の心得などない。どう見ても容易く勝てる……いや、まさか。


 ハッと、ジェイムは気づいた。

 男はばつが悪そうな顔で頭を掻いている。


「……悪い、そんなつもりじゃなかった。わざとじゃないんだ」

「わざとじゃない? ふざけているのですか?」


 ルーセッタが唸るように言った。


「いや、ほんとに。まさかこうなるとは……大丈夫だ、見てない」


 男は視線を逸らした。


「へえ……弱者の私には興味もない、そういうこと」


 ケイニス・ルプス族にとって、戦いの中で相手から視線を外されることは、もはやお前とは戦うまでもない、と告げる意味があった。

 ルーセッタの髪がふわりと逆立つ。唇から牙が剥かれ、瞳孔が細まる。

 まずいな、ブチ切れそうになってる、とジェイムは冷静に観察し、ルーセッタの前に立ち塞がった。


「どいて、そいつを殺せない」

「お嬢。冷静に」

「あんな隙だらけのニンゲン、すぐ殺せる」

「策略に嵌ってます」


 ルーセッタは男を睨んだままに視線を外さない。だが耳だけがピクリと動き、ジェイムの話を聞く様子は見せている。

 ジェイムは男に聞こえぬように声を調整した。


「見てください、あのニンゲンを。貧弱な身体に、殴り合いもしたことがなさそうな立ち姿、まるで緊張感のない顔……命の危機とは無縁の生活をしてきた平和ボケしたニンゲンにしか見えません」

「だから? クソボケ間抜け野郎ってことでしょう?」

「お嬢、よく考えてください、あまりに露骨すぎじゃありませんか?」

「どういう意味?」

「そんな奴が俺たちに戦いを挑むなんてことをすると思いますか? もしそうだったら正気じゃない。底抜けの馬鹿です」

「……」

「我々は己の力に誇りがあります。策など弄さない。ですがあれはニンゲン、それも悪辣な魔法使いです。ニンゲンは脆弱ゆえに策を弄します。己の力を隠し、相手を騙して誘い、罠に嵌めるのです。あの立ち居振る舞い、ふざけた言葉、すべてはお嬢を挑発するために計算されたものに違いありません」


 ケイニスの語りに、ルーセッタの逆毛がいくらか丸くなる。

 あの男は枯れ木のように容易く手折れるように思う。だがたった今、手痛い反撃を喰らったばかりだ。


 わざと弱者を装い、相手の攻撃を誘い、自分の縄張りに入ってきたところで襲いかかる。

 ルーセッタは背筋にビリリと、痺れるものを感じた。


 溢れるようにして突然、脳裏にかつての記憶があふれた。父が本気で戦う姿を一度だけ見たことがある。その時の父もまた、あの男と同じように悠然と構えていた。気負いなく、まるで日常の中に立っているかのように。父は勝った。

 あの男は、父と同じ位階にいるとでもいうのだろうか。


「––––ふぅん」


 ルーセッタが笑った。

 ジェイムは刹那、その場から飛び退きたいという衝動に駆られる。

 何事にも無関心なルーセッタは、自らの才能にすら興味がない。片手間ですべてを片付けてきた。そんな少女が瞳を輝かせていた。

 初めての欲求に頬を紅潮させ、赤い唇を小さな舌がぺろりと舐める。丸く広がった瞳孔が魔法使いを映している。


「だったら、試さなきゃ」

 これまではニンゲンの貴族たちの絢爛なドレスにしか興味がなかった。だが今、ついにを見つけたのだと分かった。心から溢れるような昂りを感じている。


 もう我慢できない、今すぐに殴り合おう––––と、そのとき。


 魔法使いが煙草の吸いさしを指でつまみ、指で弾いた。

 ジェイムとルーセッタは、とっさに動くものを目で追ってしまう。それは本能だ。

 弾かれた吸殻は空中で炎を上げ、すぐに燃え尽きた。


 生まれた煙がひと筋となって流れる。意思を持つ白蛇のようにこちらに飛んできたかと思えば、自分たちの周りを巡る。ぐるぐると回転していく。煙の不自然な動きに気づいたジェイムは駆け出した。


「––––馬鹿な」


 だが不可視の風の壁に押し返されたのである。



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