第17話「魔法使いの一服」
ああ、殺したな。とルーセッタは思った。
魔法使いを自称する––––それも父や祖父の世代がいまだに恐れているプロスペローを名乗る––––ニンゲンが現れたときには驚いたが、べつになんてこともなかった。
人間は脆弱だ。魔族は強靭だ。そもそもの存在の質が違う。
「お嬢! なにやってんですか!」
ジェイムが駆け寄ってきた。
「踏み込んで、お腹を殴りました」
「そうじゃなくてですね」
「グーです」
「そういうことでもないです」
はあ、とため息をついて、ジェイムは額を押さえた。ルーセッタの世話役である青年はことあるごとによく悩む。その理由がルーセッタにはよく分からないのだが。
ケイニス・ルプス族は暴力の種族だ。
特にオスは力こそを至上としているなかで、ジェイムは浮いている。言葉と理性を重視し、力を振るう快感を忌避している。その性格ゆえに侮られている。
ルーセッタもまた、ジェイムの周りくどくはっきりしない振る舞いが好みではない。だが父が信用している以上、ジェイムの言うことの理由が分からずとも、ルーセッタはジェイムの意見を尊重する必要があった。
「怪しいニンゲンに襲撃されたので、仕留めました。戦うことを決めたならまず仕掛けろとは父さまの教えです」
「ええ、その通りです。ですが当主さまはこうも仰っているでしょう––––勝てない相手の場合は、尻尾巻いて逃げろ」
「あれは私より強くないもの」
「ちゃんと観察しましたか」
「む」
「たしかに当主さまは先攻を重視してらっしゃいます。ですがそれは彼我の力を精確に見抜く冷静な目をお持ちだからです。勝てぬ相手とは殴り合わない、だからこそですね」
「聞き飽きました」
ルーセッタは耳をぺたんと伏せ、顔をそっぽに向けた。
「またそうやって。大事なことだからこそ何度も言うんですよ」
「いいじゃありませんか。勝てたんですから」
「まあ、それはそうですが」
ジェイムは顔を奥に向ける。ルーセッタに殴り飛ばされたニンゲンが吹き飛んでいった通路の奥は静かなままだ。
魔法使いプロスペローを名乗ったときには驚かされたが、やはり偽物か。そうに決まっている。本物はもう何十年と姿を表しておらず、その生存すら怪しまれるようになっている。
黒山羊族が秘密裏にプロスペローと接触を試みているという情報があったが、あれも黒山羊族の策略のひとつに過ぎないという見方が強い。
「魔法使いだか、プロスペローだか。ニンゲンなどこの程度。お父様も魔族同士でいがみ合っていないで、さっさとニンゲン領に攻め込んでしまえば良いのに」
「お嬢、侮ってはいけません。ニンゲンはたしかに肉体的に脆弱ですが、恐ろしい種族です」
「どこがですか? 殴れば、死にます」
ジェイムはこめかみを掻いた。
当主の血を存分に受け継いだルーセッタである。若年ながら戦闘の才能は目覚しく、同年代に比肩しうるものはない。同時に、ケイニス・ルプス族特有の弱者を甘く見る傾向も強くなりつつある。
どうにか理解してもらえないかと言葉を探したとき、ふと、通路の奥で灯りが生まれた。
ジェイムとルーセッタは瞬時に身構えた。
ルーセッタは小ぶりな鼻を動かした。
––––香りがする。葉が燻され、焦げるような苦み。それでいてどこか芳醇な、奇妙な匂いだった。
ジェイムはその香りを知っていた。同時に、背中に嫌な寒気がした。
これはニンゲンが好む嗜好品……そうだ、煙草だ。
あの黒づくめの男は生きている。ルーセッタに殴られて、生きている。煙草を吸う余裕を見せている。
「まさか……」
ジェイムは口の中で細くつぶやいた。
魔法使いプロスペロー?
馬鹿らしい。おとぎ話の伝説が、こんな場所にいるはずがない。
もし本当にそうなら、あれがプロスペローなら……。
通路の奥で、火が動く。
φ
エアリアルが俺を覗き込んでいる。
「あなたは本当にバカなんですか? 自分の語彙力のなさが恥ずかしいです。あなたを罵るのに相応しい言葉が見つかりません。このバカ」
「……心配してくれてありがとな」
俺は通路に寝転んで、暗い天井を眺めていた。どれくらい吹っ飛んだのだろう。空中を移動するのは初めての経験だ。
あのちっこい魔族に殴られた腹のあたりを撫でるが、痛みはない。
もしかして穴が空いていて、痛みのあまりに感覚が麻痺しているのではと思ったが、大丈夫。本当になんともない。
「絶対に死んだと思ったわ。なんだあれ」
「私が風壁を張らなければ今ごろは上下で二分割でしたよ。プロスとペローになっているところでした」
「マジでありがとうございます」
正直、甘く見ていた。魔族とかいう訳のわからん存在とはいえ、見た目は人間とそう変わらない。距離も十分にあった。
グラウの酒場で遭遇した魔族も素早かったが、それでも目で追えたし、対応することもできた。
「……なんだよあれ、化け物じゃねえか」
「あなたの無謀さも化け物ですよ」
「皮肉で人の心を抉るのやめてくんね?」
「あなたでは勝てないと教えて差し上げているのです」
上半身を起こす。事実、エアリアルが守ってくれなければどうなっていたかは想像したくない。
大の男を腕一本で跳ね飛ばすような相手だ。トラックと戦うようなものだろう。おまけに俊敏だ。どう考えてもやり合って勝てる相手ではない。
「逃げますか?」
顔の横に飛んできたエアリアルが、俺の背後を指差している。肩越しに振り返れば、通路の奥に扉があった。
扉さえあれば、俺はどこにだって行ける。
今ならすべてを放り出して、暖かな塔の部屋に逃げ帰り、ベッドの中で丸くなることができる。
俺はあぐらをかいて、ローブのポケットを漁った。ハニーゴールドから譲り受けた真鍮製のシガーケースを取り出す。蓋を開き、煙草を一本、引き抜いた。
口に咥えて、指先に火を灯す。
煙草の先を炙りながら吸いつけば、口の中に芳しい煙が流れこんだ。
煙草をつまんで、口から紫煙を吐き出した。
「あー、うめえ」
魔法があろうと、魔族がいようと、生きるか死ぬかの分かれ道だろうと、煙草を吸えば気分は安らぐ。ニコチン、最高。
よいしょ、と勢いをつけて俺は立ち上がった。歩き出す。
「私はあなたがよく理解できません。なぜ非合理的な判断ばかりをするのですか?」
「それが人間だからだよ。ちょっとばかし感情的なんだ」
「感情的」
歩く俺の横に並び、エアリアルが復唱した。眉が顰められていて、珍しく表情豊かだった。
「あの魔族はめっちゃ強い。逃げるほうがいい。分かる。でも、気に入らねえ。力を押し付ければなんでも自分の思い通りになるって考えてる奴が、俺は嫌いだ」
「好き嫌いに命を賭ける、と?」
俺は煙草を唇に挟み、大きく背伸びをした。腕を回し、腰を捻り、首を鳴らす。
「力を押し付けることに慣れたやつをぶっ飛ばしたら、スカッとしそうだろ?」
エアリアルに笑って見せる。
戦うことは恐ろしい。けれど恐ろしさを塗りつぶすほどに、苛立ちがある。圧倒的な力で、弱者の願いに気づきもせずに踏み潰していく傲慢さ。
そんな奴らから逃げてしまうと、自分もそいつらの仲間になってしまうような気がしている。
「……人間というのは理解し難いです。無謀だと思いますが」
「だったら手伝ってくれ。お前がいないと俺はすぐに死ぬぞ」
「どういう頼み方ですか」
エアリアルは呆れた様子で眉を下げたが。
「仕方のない人間です。勝手に死なれても困りますからね」
「頼りにしてるぞ、相棒」
「せいぜい死なないようにしてください」
俺たちは通路を抜ける。
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