第13話「亡霊と悪役の取引」
半透明の人間を前に呆然と立ち竦んでいる。
ふと脳裏に映像が浮かんだ。それは埋もれていた自分の記憶に違いなかった。
テレビの前に座っている幼いころの自分の背中を、俺は見ている。昔、毎週金曜日と日曜日の九時には映画が放映されていた。それを観るのが習慣だった。
画面では女が叫びながら逃げている。悪霊が女を追う。子どもの俺はそれを食い入るように見ている。逃げ出したいと思っているのに、あまりに怖くて動けなかったのだ。
ソファに座っていた母親がなにか声をかけている。なんと言っているのかは聞こえない。その顔もまた、真っ白にぼやけて思い出せなかった。
意識の首根っこが引っ張られた。
俺は……大人の俺は、薄暗い地下牢の中で立っている。目の前に半透明の幽霊は、あの映画のように恐ろしい存在ではなかった。
「……本当に、死んでる?」
我ながら馬鹿馬鹿しい質問に思えた。死んでいる人間に質問したって、返事が返ってくるわけがなかった。
だが、グラウは首をすくめてみせた。それはあまりに生きている人間らしい動きだ。
「たぶんね。あんたも死んだら分かるよ」
「……お、俺を呪うつもりなのか」
俺は思わず後ろに下がったが、すぐに檻が逃げ場を塞いだ。
「呪ったっていいね。ところでどうやったら呪えるわけ?」
「知らねえよ。死んだら分かるんじゃないのか」
「死んだって分からないさ。死んだ実感もないんだからさ、こっちには。朝に目が覚めたみたいに身体を起こしたらびっくり、目の前に自分の死体があるんだから」
「笑い事じゃないだろそれ」
けらけらと笑う声は気持ちよく澄んでいた。目の前の女はついさっき、殺されたのだ。茶化すわけにもいかない。こっちのほうが居心地が悪くなる。
「まあ、仕方ないよ。人生ってのはそんなもんさ。いつかはこうなると覚悟してたし」
「魔族に殺される覚えがあるって?」
「あたしを刺した相手が魔族だろうと獣人だろうと関係ないよ。それを願う人間に心当たりがあるってだけさ。おっと、勘違いしないでおくれ。誰に恥じることもない生き方をしてきたし、誰かを傷つけた覚えもない。けどね、あたしが生きてることを望まないやつもいるんだよ。言ったって信じないだろうけど」
「幽霊をこの目で見て、会話もして、もう信じられないことはないけどな」
幽霊がいるかいないかという論争に、俺が終止符を打てるのだ。今なら誰にだって堂々と真実を語れる。元の世界に戻る方法も、戻った後に語るべき相手の記憶もないことが残念なくらいだ。
グラウは腰に手を当て上半身を折った。俺が正気かどうかをたしかめるみたいに目を細めている。
「亡霊の姿を見るようになっちゃ、もうおしまいも近いと覚悟するもんだろうけどね。普通の人間なら」
「ここ最近の俺の話を聞くか? 驚くことにも飽きてきたくらいだ。亡霊? いいね、次はゾンビにしよう」
目が覚めりゃ異世界で、俺は魔法使いだ。妖精はいるし、扉を通れば海の上。どれひとつ普通じゃない。そこに幽霊がひとりふたり追加されたって、よくよく考えればたいした驚きにもならない。
グラウがずいと歩み寄る。俺よりはいくらか年下のように思えるが、やつれた頬と目の下に染みた黒い隈が歳をいくらか足していた。萎れかけた花のように、美貌の名残がそこにある。
「へえ––––目は正気みたい」
間近で目を合わせ、グラウは言う。
近づいてみてもその姿には実態がない。後ろの景色が透けている。現実感のない光景を見ている俺が本当に正気かは、俺にも分からなかった。
「あんた、魔法使いでしょ。見てたよ、うちの店をぶち壊すところ」
「うげ、いたのかよ。あれは正当防衛……いや、悪い。壊したのは俺だわ」
「おとぎ話と全然違うね。プロスペローって、いつも化け物みたいな悪役なのに。よく脅かされたよ、良い子にしないとプロスペローに攫われるって……ほんとに本物?」
「答えるのが難しい。いろいろあるんだよ、こっちも」
「ふうん……ねえ、あたしの魂とか、いる?」
「はあ?」
グラウは身を起こした。正面から向けられる視線には冗談めいた色はなかった。
「魔族は人間の魂を利用するって聞いたし、悪の魔法使いプロスペローなら、なんかに利用できるでしょ? あたし、血筋はいいよ。契約でもなんでもする。だから、取引してくんない?」
俺はこめかみを押さえた。地下牢だからに違いない。ここは空気が悪いのだ。それに寒い。風邪を引いたのかもしれない。だから頭痛がするんだ。
「あのさあ」
と俺はため息をつく。
「俺のこと、悪魔かなんかだと思ってる? なんだよ魂って、いらねえわ」
「いらないの?」
「もらってどうするんだよ」
グラウは首を傾げた。
「……棚に並べて鑑賞したり、食べたり? 知らないけど。魔族にでも訊いて。いないの? 魔族の知り合い」
「いるけどさ」
「じゃあその魔族との取引にでも使いなよ」
「軽く言うけどな、魂は大事にしろよ」
あるのかどうかも分からないが、幽霊を証明するのに魂という概念はちょうど良さそうだった。
グラウは今、魂の状態でそこにいる。魂を失うことは、二度目の死……あるいはそれよりも完璧な消滅を意味する。それがお約束だ。
「軽くは言ってない。仕方ないの。ほかに何もないんだもの。そう考えると死んでて良かったわ。お金も持ってないし。悪い魔法使いと魂の取引って、おとぎ話みたいで分かりやすいわね」
「悪い魔法使いは勇者に退治されてめでたしめでたしになりそうだ」
「正義の味方が助けてくれるのはおとぎ話の中だけよ。現実にいるのは悪人だけ」
「悲観的すぎるんじゃないか?」
「あら、だったらあんたが正義の味方になってくれるわけね」
上手い言い回しだった。小首を傾げたグラウは試すような目で俺を見ている。
俺は丸めた唇を歯で挟んだ。
悲観的すぎるんじゃないか、は失言だった。まるで生きているように錯覚するが、目の前の女性は死んでいる。殺されたんだ。誰かの悪意によって。悲観するもなにも、それが現実なのだ。
薄暗い酒場のテーブルで死んだグラウ。犯人は逃げてしまった。俺が犯人として誤解されているせいで、悪人は自由のままだ。
「……わかった。現実には悪人以外もいる。それを証明するために話は聞く。でも魂はいらないからな」
「話に聞いたほど悪い魔法使いじゃないみたいだ」
と、グラウは微笑んだ。心の奥底に隠していた年相応の明るさが思いがけず表に出たかのようだった。
「で? 自分の魂を差し出してまで、俺になにをやらせたいんだ? 犯人探しか?」
「それはいいよ。見つけたところで生き返れるわけでもないし」
死者のお願いとくれば犯人探しだろう、と決めつけていた。拍子抜けした俺に、グラウは自分の身体を指差して言う。
「あたしの死体を、妹と同じ墓に埋めてほしいんだ」
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